セッション2 眠れない夜を抱いて
2026年1月4日 20時47分
東京都・倉賀野凛の自宅マンション
リビング部屋の明かりは消したままで、窓の外に降り続いている雪が、街灯に照らされて白く舞っている。
暖房はついているのに、指先だけが冷たい。
凛はソファに座り、膝を抱えてスマホを握りしめていた。
画面はもう何十回も読み返した一通のDMで固定されたままだ。
【@rainy_ear → リン】
「リン、こんにちは。織田零です。
ずっと隠しててごめん。
実は私は、BEGINNING Recordsの外部プロデューサーで、
R.Oとして裏で何百曲もヒットさせてきた人間です。」
「……え?」
最初に読んだとき、声が漏れた。
次に読んだとき、涙がこぼれた。
三回目に読んだとき、震えが止まらなくなった。
(織田零……? あのR.Oが……?
私の宿題を見てくれてた人が……
ずっと、私のすぐ近くにいた……?)
スマホを胸に押し当てて、凛は目を閉じる。
頭の中を、過去1年半の記憶が駆け巡る。
初めて宿題をもらった夜
「夜に駆ける炎」を歌い上げて泣き崩れた朝 。
クリスマスに「星を数えてキミを想う」をアップした瞬間 。
大晦日に届いた「100点。満点超えてる。」
全部、あの人が見てくれていた。
全部、本物のプロデューサーが。でも、だからこそ、怖い。
(デビュー……?
私、本当に……?
会社、辞めるの?
普通の生活、もう戻れなくなるの?
失敗したら……?
みんなに顔バレしたら……?
歌えなくなったら……?)
涙がぽろぽろと落ちる。
スマホが震えて、通知がまた一つ増えた。
【@rainy_ear→ リン】
「無理に返事しなくていいよ。
今日はずっと雪だから、温かくして寝てね。」
その優しさが、余計に胸を締めつける。
凛は立ち上がり、冷蔵庫から水を取り、それから自分の部屋の隅にある小さな録音スペースへ。
マイクとヘッドホン。
ここで何百時間も歌ってきた場所。
マイクを握って、電源を入れる。
でも、声が出ない。
代わりに、小さく呟いた。
「……私、どうしたらいい?」
時計は21時12分。
返事はまだ打てない。
でも、削除もできない。
凛はスマホをベッドに置き、布団に潜り込んで、震えながら目を閉じた。
頭の中では、ふたつの自分が叫び合っている。
A「夢だよ。こんなチャンス、二度とないよ」
B「でも怖いよ……会社辞めたら、もう戻れないよ……」
雪が窓を打ち続ける音だけが、部屋に響いていた。
21時38分
凛は布団の中でスマホを再び開き、
返信画面を見つめたまま、指が動かない。
打ちかけては消し、
打ちかけては消し。
22時11分
涙で画面が滲んで見えなくなる。
23時07分
凛は一度だけ、短く打った。
「怖いです」
でも、送信は押せなかった。
0時03分
2026年1月5日になった瞬間、凛は布団の中で小さく呟いた。
「……会って、話だけでも聞いてみたい」
でも、まだ送信ボタンには指が届かない。雪は止む気配がなく、
凛の葛藤は、朝まで続く。
この夜、リンは一睡もできなかった。
2026年1月5日 午前6時28分
倉賀野凛の部屋カーテンの隙間から、雪明かりが薄く差し込んでいる。
外はまだ暗い。
雪は夜通し降り続いたらしく、窓の外は真っ白だ。凛は布団の中で、一睡もしていないまま、スマホを握りしめていた。
画面はもう何百回も開き、何百回も閉じた返信欄。指は震えている。
涙はもう枯れた。
でも、胸の奥にあった「怖い」が、少しずつ形を変え始めていた。怖い。
でも、このまま逃げたら、きっと一生後悔する。「……私、歌いたい」
小さく、掠れた声で呟いた。
それが、自分でも驚くほど、はっきりとした決意だった。
凛はゆっくりと体を起こし、冷えた床に座り込み、スマホを両手で包むように持つ。
返信欄に、ゆっくりと文字を打ち始めた。
「織田さん、おはようございます。
倉賀野凛です。 昨日からずっと考えてました。
正直、今でも怖いです。
会社辞めるのも、顔を出すのも、失敗するのも、全部怖いです。 でも……
織田さんに宿題をもらってから、
私はもう、歌わない自分を想像できなくなってました。 だから……
お会いしたいです。
話だけでも、ちゃんと聞いてみたいです。
場所は、私が決めてもいいですか?
人目が少ない、静かな場所がいいです。
お時間のあるときで大丈夫です。
待ってます。 ……よろしくお願いします。」
指が震えて、送信ボタンに触れるまで10秒かかった。
でも、押した。
送信した瞬間、凛はスマホを胸に押し当てて、
初めて深く息を吸った。
もう、後戻りはできない。
外の雪が、朝日を受けてきらめき始める。
凛は立ち上がり、
カーテンを開けた。新雪の東京が、真っ白に輝いていた。




