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景虎  作者: 三峰三郎
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景虎 6

 謙信は生まれたばかりの道満丸を抱きながら、上杉家の跡取りは道満丸だ、と本気とも冗談ともつかぬことを戯れに放言していた。

 その謙信が逝去したのは、昨年三月のことである。

 謙信は継承者を定めずにこの世を去った。唯一、道満丸を抱きながら言った言葉のみがあった。

 しかし、道満丸はわずか七歳である。一国の政務を扱えるはずがなかった。

 そこで、上杉家の世継ぎ問題が起きたのである。

 景虎か、景勝か、である。

 世継ぎには道満丸を、という謙信の遺言らしからぬ遺言があることで、家中では専ら景虎がその陣代となると噂されていた。

 しかし、そう単純なものではない。


 景虎の実父である氏康は、元亀元年(1570)八月頃から病で伏せることが多くなり、北条の家督は氏政に引き継がれていた。氏政は、父の氏康とは異なり、房総や下野方面への侵攻を重視し、武田との敵対関係を改善したい意向であった。

 氏政は、甲相同盟を結ぼうと画策したのである。

 この動きを察した謙信は、氏政に不信を抱いた。謙信はあくまでも、武田殲滅を主眼に置いていたからである。

 そして、元亀二年(1571)十月、越相同盟は破綻したのである。

 それに伴い、養子解消とはならなかったものの、景虎の越後における立場は悪化した。北条の七男という景虎の出自が、後継者候補から一歩退かせたのである。


 一方で謙信の跡継ぎとして光が当たったのは、景勝である。

 長尾喜平次顕景と名乗っていた景勝は、かつて謙信と敵対関係にあった上田長尾政景の次男であった。

 しかし、天正三年(1575)七月、正式に謙信の養子に迎えられて、上杉景勝と名を改めていた。

 それと同時に、弾正(だんじょうの)少弼(しょうひつ)という官位も譲られたのである。これは、後継者を景勝にする、と無言のうちに示したことに等しかった。

 

 そして、昨年の三月十四日、謙信が亡くなった。

 不慮の虫気であった。脳の病である。

 三月九日に急に倒れたまま、五日間床に伏せたのちに亡くなった。

 その伏せっている間、謙信の看病をしていた直江景綱(なおえかげつな)の夫人が、枕頭でこう尋ねた。御家督は景勝へお譲りたまわりますか。これに謙信は僅かに頷いたという。

 嘘か真か証言できる者はいなかった。

 しかし、直接見ていない家臣が、これを嘘と断定してしまえば、謙信公に楯突く輩と批難されかねない。そういう空気が、謙信亡きあと、本拠である春日山には張りつめていた。


「己は上杉家の家督など、やつにくれてやってもよかった。許せなかったのは、道満丸を奪われること。その一点のみだった」


 景虎の声は、怒りに震えていた。

 宗親はその顔を直視できずに俯く。しかし、どのような顔をしているのかは、想像がついた。


 謙信亡きあと、景虎は春日山城の二の丸に移り、景勝が本丸に入った。

 つまり、景勝が謙信の後を継いだと越後内外に示したのである。景虎も承知の上であったし、家臣たちもあらかた同意していた。しかし、すべてではなかった。

 上杉家の屋台骨がなくなったこの機に乗じて、内乱を起こし越後の国を乗っ取ろうと企む者も出ぬとは限らなかったのである。

 内乱だけではない。

 国境を接する北条家や武田家、伊達家や蘆名家などの国外にも目を配らねばならない。謙信の死を知った隣国の敵が、越後侵攻を目論む可能性があったのである。

 実際、今度の景虎と景勝の家督争奪戦の発端となったのは、会津の蘆名盛氏が国内に攻め込んできたことであった。


 謙信がこの世を去ってからまだ日も経たぬ三月二十六日、越後に攻め込んできた会津の兵と越後の兵が諍いを起こし戦となった。

 会津兵の侵攻は辛うじて阻止できたものの、家臣の神余親綱(かなまりちかつな)が防戦した際に周囲の村落から兵を集った。

 それを景勝が、代替わりに際した謀反の企てと疑念を抱き、神余親綱を叱責したのである。これによって両者の確執が生じることとなった。


 神余親綱が離反したのは五月一日のことである。

 これに乗じて、神余親綱に呼応し、反景勝派の諸氏が越後各地で離反しはじめた。


 景勝は、謙信から正式な世継ぎ継承をしていないことが家臣の離反を招いたと考え、唯一、生前に謙信が上杉の跡取りにと口にしていた道満丸を手元に置こうとした。


「景勝を心から信じられなかった。いまは子がおらずとも、いずれは景勝にも男児ができるであろう。さすれば、道満丸がどのように扱われるかは想像できた。己は道満丸に上杉家を継がせたいと思ったことはない。そもそも己は北条家の者。景勝に比べれば、不識庵様の御意思を受け継ぐ想いなど足元にも及ばぬであろう。されど……。されど、道満丸だけは己の手から離したくはなかった。それが、春日山を脱し御館にて、家督相続の宣言をした唯一の理由だ。宗親、おぬしは己を蔑むか」


 宗親はかぶりを振った。

 景虎の孤独を誰が理解できるというのだろうか。誰が癒すことができるというのだろうか。

 俯いていた宗親の視界が涙でぼやけた。


 宗親が御館に入城したのは、景虎の上杉家督宣言から三日後の五月十六日だった。

 御館は春日山城から北東一里ほどに位置する浜辺沿いに建つ城塞である。城塞といっても平城であり、数年前まで政庁としての機能をもっていた。

 景虎が御館に入城した時、そこには上杉憲政が住まっていた。上杉憲政は、関東管領であったが、上野から氏康に追われ越後に落ち延びて、その職を謙信に譲渡していた。以降、御館に蟄居同然の暮らしを送っていたのである。


 反景勝派の武将が越後各地で謀反を企てていたのに対し、憲政は景勝の意向を受けて仲介に尽力していた。しかし、景勝の意固地な態度に反発を覚え、いつの間にやら反景勝派に与するようになっていたのである。


「己の敗北が決定的となった先日、道満丸をやつのもとに送ったのは、たとえ己の命が尽きても道満丸には生きていた欲しかったからだ。華もそうだ」


 景虎は徳利を脇に置きながら言った。

 景虎と景勝の家督継承争いは、およそ一年にも及んだ。

 北条家と武田家を味方につけ、国内においても領土の半分の勢力を味方につけた景虎が、当初は優勢を誇っていた。

 しかし、武田家は景勝の要請を受けて、内乱に直接介入することなく兵を甲斐本国に退けた。

 さらには、北条の軍勢も冬までに芳しい戦果を挙げることができず、ほとんど景虎の力になることなく進路を雪に阻まれ、本国へと撤退していった。

 景虎も春日山の景勝勢と戦火を交えるたびに敗れた。


 宗親が景虎の命により、最期の拠点とすべく御館から鮫ヶ尾城に戻ったのは、三日前のことである。

 昨日、景勝の総攻撃を受けた景虎は、道満丸と華を景勝のもとに送ると当時に、御館から数人の家臣を引き連れて密かに退去した。景虎は己の死を覚悟し、最愛の妻と子を敵に渡すという悲痛な決断をしたのである。

 ここ、鮫ヶ尾城に逃れてきたのは昨日夜半のことだった。


「宗親、おぬしは落ち延びよ。そして、いつか道満丸に伝えてくれ。父は冥土からお前のことを見守っている。決して一人ではない、と。お前は父を孤独から救ってくれた。感謝しておる。そう、伝えてくれ」


 空が白み始めていた。

 雀が我々の悲壮な状況を嘲るかのように囀っている。


 嗚咽を漏らす宗親の背後で、突然、襖が勢いよく開かれた。

 宗親と景虎が一斉に振り返る。


「春日山勢が、城下に火を放ちました」


「そうか」


 景虎はなんでもないことのように聞き流しながら、残り僅かとなった酒を口先に持ち上げた。


「それと、もうひとつ」


 伝令の男が言いにくそうに声を落として続けた。

 景虎が目だけで催促する。


「奥方様が敵陣営にて、御自害。道満丸様も、敵陣営に赴く際に敵方に襲われ、無念の最期を御遂げになりました」


「そ、それは、真か」


 宗親は男の胸倉に飛びついた。


「間違いないかと……」


 男は俯いた目から涙を零していた。


 器が畳に転がる音がした。

 振り返ると、膝を濡らした景虎が天を仰いでいた。

 そして次の瞬間、鮫ヶ尾城に悲痛な叫びが轟いた。

 それは、地上、最も孤独となった男の叫び声であった。 


      完


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