景虎 5
「あの頃は、夢を見ているような錯覚によく陥った。越後に来ても、早雲寺にいた頃の夢をよく見たが、現と夢の境がつかないことがあった」
景虎の表情は、これまでとは違う爽やかなものに満ちていた。
懐かしむような瞳を盃に落としつつ、続けた。
「心を、何か得体の知れぬものが蝕んでいたのやもしれぬ。そうした己の苦心を癒してくれたのは華であった。そして、道満丸であった」
景虎は目を細めた。青白かった顔色にほんのりと紅が差したように見えた。
まるで月光に照り輝く、桜の花弁のようであった。
道満丸は、景虎と華との間に生まれた男児である。景虎が越後に来て一年が経った頃に生まれた道満丸は、謙信にも、玉のような子だと可愛がられていた。
越後という故郷から遠く隔たった地に住むようになった景虎にとって、心の拠り所となる存在だったのだろう。
宗親は、眼前の柔和な微笑みを浮かべる景虎を見て、そう推測した。
景虎の話に聞き入り、危うく失念しかけていた酒を口に含んだ。
夜はとうに更け、二人が黙り込むと辺りは静寂に包まれた。時折吹く風にさざめく木々の音だけが聞こえる。
「故に」
景虎は呟いた。途端に温和だった表情に影が差し、みるみる怒気が籠っていく。
「故に、道満丸を差し出せと言ってきたやつを、己は許せなかった」
景勝のことだと、宗親はすぐに理解した。




