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景虎  作者: 三峰三郎
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景虎 4

 永禄十三年(1570)四月十日、己は上野の沼田城に入った。

 沼田城は永禄三年に上杉謙信が越山し上野へ侵攻した際、沼田康元(ぬまたやすもと)から奪い取っていた。それ以降、上杉家の支配下に置かれていた城であった。

 小田原から小机城に戻った己は、久に別れを告げると再び小田原へ赴き、四月五日、上杉領へと旅立った。


 萌える新緑を眺めながらの初めての長旅を終え、己は沼田城本曲輪の一室に座っていた。越後の雄、上杉謙信に対面するためである。

 この時はまだ、上杉輝虎(てるとら)と称していた。不識庵謙信(ふしきあんけんしん)と号することになるのは、八か月後のことである。 


 襖が開き、静かに、しかし物々しく謙信が入ってきた。

 一瞬で場の雰囲気が一変した。緊張と畏敬の入り混じった空気が、己の肌を圧迫した。


「面を上げよ」


 よく通る威厳の籠った声が、頭上に浴びせられた。

 目を少し上げるにとどめた。もう一度顔を上げるよう促されるのを待とうと思ったのである。

 しかし、しばしの沈黙がそれを不要と伝えていた。

 謙信は、不敵とも温和ともとれる笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 しばしの沈黙。

 謙信は小さく頷くと、


「酒を持て」


 小姓が恭しく盃と徳利を手渡すと、謙信はそれを持って上座から己の方へと歩み寄った。

 無言で差し出された盃を受けると、なみなみと酒を注がれるのをじっと眺めていた。

 謙信の手は、容姿や言葉とは裏腹に優しい手をしていた。

 謙信は黙したまま、ただ己に頷きかけた。飲め、と言うことだろう。

 一息に干した。熱い液体が喉に流れ込み、胸から胃の腑に下っていく。

 謙信はそれを見届けると、呵々大笑した。


「気に入った。わしと共に関東に平穏をもたらそうではないか」


 己の肩に手を置きながら、謙信は目を覗き込んできた。

 心の奥底まで見透かすような眼差しであった。それゆえに、先の言葉に喜悦を覚えずにはいられなかった。


 三国峠を越え、越後春日山に着いたのは、四月二十日。

 北の海は浜辺が少なく、切り立った岩壁に波が幾度も打ちつけていた。これまで見てきた南の海とは、比較にならぬほどの峻厳さに満ちていた。

 謙信の姪である、華との婚儀が行われたのは、四月二十五日のことだった。

 同時に、己は謙信の養子となり、名を上杉景虎と改めることとなった。

 景虎という名は謙信の幼名であり、その名を授かるということは上杉家の家督相続を示唆するものであった。

 しかし、謙信が家督相続について明言したわけではない。

 しかもこの時、のちの景勝である謙信の甥の顕景(あきかげ)もまた、養子となっていた。

 北条家との約定があるにせよ、己が上杉家の家督に決定したわけではなかったのである。

 僅か半年の間で、早雲寺の乞食僧から越後上杉家の跡取り候補にまで境遇が一変した。

 己がそれまで関東を巡って争ってきた父の仇敵である謙信の養子となるなど、半年前に誰が想像できたであろうか。あまりの変化に、心がついていかなかった。

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