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景虎  作者: 三峰三郎
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景虎 2

 久、といった。

 目は凛として大きく、端正な顔立ちをしていた。

 大人びて見えたが、頬がふっくらと丸みを帯び、笑った表情には幼さも垣間見えた。

 触れると崩れてしまいそうな脆さがあり、当時の己とさほど変わらぬ年頃に見えた。十六といえば、なるほどと頷けた。

 久は北条幻庵(ほうじょうげんあん)の次女である。幻庵は、父の氏康の叔父であった。つまり、己にとって久は、叔母にあたる。

 甲斐の武田との戦で、幻庵は長男と次男を相次いで亡くしており、跡継ぎがいなかった。

 そこで、箱根の早雲寺に預けられていた氏康の七男である己が、幻庵の養子としてどうかと名が挙げられたのである。

 それまで西堂丸と名乗っていたが、幻庵の養子となり、北条三郎と名乗るようになった。


「末永く、御頼み申し上げます」


 三日間に渡り行われた婚姻の儀式が終わり、初めて二人だけとなった閨でのことだった。

 久は震える声で、そう言った。

 己は女という生き物をはじめて間近に見た。

 この娘となら己の一生は幸せになるに違いない。なぜかそう直感した。

 そもそも、早雲寺で一生を終えると信じて疑っていなかったのである。還俗できたというだけでも信じられぬことであった。

 幻庵の二人の子息が死ぬことがなければ、このような機会は巡っては来なかっただろう。

 久は頬を赤く染めていた。自然と次に行うことを己の体が理解していた。


 僅か三月であった。幻庵の養子として小机城主となり、北条家の一員となっていた期間である。

 また、久との睦まじい生活の期間でもあった。

 己にとって、この三月が一生の中で一番幸福な時間であっただろう。

 永禄十三年(1570)二月末。突如として小田原に召喚された。


「上杉の養子として、越後へ赴け」


 父の氏康は、開口一番、久々に会う己に向けてこう告げた。

 その言葉にあっけにとられ、口をあんぐりと開けたまましばらく茫然としていた。父の放った言葉をすぐには飲み込めなかったのである。


「し、しかし、私は三月前に幻庵様の養子になったばかりにござりますれば……」


「三郎」


 父の横に侍る、次期当主の氏政が制した。

 父から兄へと視線を移す。


「では、何故、小机城主などに任じられたのでございますか」


 己は今の境遇を気に入っていた。生涯、この営みを守り抜きたいとすら思っていた。

 小机城を、この生活を、久を守るためならば命をも賭ける。三月の間、自然と胸中に覚悟が芽生えていた。

 しかし、父と兄の言葉によって、この覚悟は跡形もなく粉砕されようとしていた。

 黙する二人を前に、己は腹から湧き上がる怒りの感情を抑えることができなかった。

 小机城主に己を任じたのも、この二人なのである。

 それが、次は北条家の仇敵であった上杉家の養子になれ、と言う。いわば、同盟を約するための人質であった。同盟が破られた暁には、己は上杉家によって、殺されるかもしれないのである。

 己を政治の道具としてしか見ていない扱いであった。

 怒りの感情に委ねて言葉を継いだ。


「さすれば、はじめから上杉家に行けと命じればよかったのではないですか。己を還俗させて幻庵様の世継ぎとされたのは、己の価値を上げるためだったのですか。上杉家の次は、里見家ですか、武田家ですか。それとも今川家でしょうか」


「三郎」 


 氏康が一喝する。

 到底逆らうことなどできない。承知の上である。それでも腑に落ちない。


 帰城の途、手綱を握る己の手に力がこもった。やるせない思いを握りつぶさんばかりであった。


 甲斐の武田が駿河侵攻に本腰を入れ始めたのは、前年のことであった。

 それまで北条家、武田家、今川家は三国同盟を締結していたものの、桶狭間の戦いで今川家当主、今川義元が討死すると、同盟は瓦解した。

 越後の上杉家に北上を阻まれていた武田信玄は、義元の死をきかっけに南に領土を広げようと狙っていたのである。

 三国同盟を破って駿河に乱入した武田に、氏康は激怒した。

 七月、武田と断交したうえで、氏康は今川支援に乗り出す。さらには、武田の北に領土を持つ、越後の上杉謙信と同盟を結び、武田を南北から挟撃しようと謀った。越相同盟である。

 北条家と上杉家は、それまで犬猿の仲であった。何度も関東を巡って争い合ってきた仲であり、他国から見ても相模の北条と越後の上杉の同盟は驚嘆すべき出来事に違いなかった。

 ちょうどこの頃、上杉家は越後国内における、家臣の反乱鎮圧に手間取っていた。そうした時に、氏康から同盟の話が持ち掛けられたのである。

 武田信玄という共通の敵を前に、関東平野争奪戦を繰り広げてきた南北の両雄が手を結んだのである。

 しかし、越相同盟を結ぶにおいて、三つの問題を克服せねばならなかった。


 ひとつは関東管領職である。

 氏康の父である北条氏綱は、天文七年(1538)に関東公方、足利高基(あしかがたかもと)から関東管領職を拝命していた。それを氏康が相続していたのである。

 一方で上杉謙信もまた、天文二十一年(1552)に氏康に関東を追い出され越後に逃げ延びた山内上杉憲政(うえすぎのりまさ)から、上杉の家督と共に関東管領職を継承していた。

 つまり、二人の関東管領が日の本には存在していたのである。この二人が同盟を結ぶにつき、謙信の要求を受ける形で氏康はその職を譲ることに決めたのである。


 二つめは、領土問題である。

 東上野と北武蔵はもともと、山内上杉家の領地であり、謙信は北条の支配下にあったこの領地を手に入れるべく、交渉を行った。

 氏康は北武蔵の一部の地域を除き、謙信に譲り渡すことにしたのであった。


 三つめが、養子縁組のことであった。

 氏政の子を謙信の養子とし、上杉の家督を継がせるという取り決めがなされていた。つまり、北条家の血を引く者が、越後の上杉家を継承し、関東における不毛な戦に終止符を打たんとしたのである。

 氏康にとってはこの上ない話であった。将来、労せずして越後と上野を北条家の支配下に置くことができるからである。 

 しかし、氏政が難色を示した。当初、上杉家の養子として差し出す予定であった氏政の次男である国増丸(くにますまる)を手放すことに躊躇したのである。それに謙信もまた、養子縁組をするには国増丸では幼すぎると訴えていた。

 そこで名が挙がったのが、己であった。


 上杉家の養子として越後に赴けば、当然、久とは離れ離れになる。

 たった三月ではあったが、己にとっては安息の日々であった。

 小田原からの帰り道、久にこのことをどう告げてよいものか、ずっと悩んでいた。

 己でも得心できないことである。それを最愛の妻にどのように説明すればよいだろうか。

 小机城に近づくにつれ、己の乗る馬の脚は遅くなった。

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