景虎 1
鮫ヶ尾城東一ノ丸曲輪から、無数の松明の灯が眼下に見下ろせた。
絶望の灯りだった。
(三千ばかりか)
堀江宗親は、敵兵の掲げる松明の数を横目で概算しながら、本丸へと足を運ぶ。
「景虎様、堀江宗親にございます」
襖の前で呼び掛けると、隔てた向こうから微かに衣擦れの音がした。
宗親はそっと襖を開ける。
縁から月光が差し込み、その一間をぼんやりと照らし出していた。
手に盃を持った青年が、半月を仰ぎ見ている。
筋の通った高い鼻梁、目尻の上がった大きな瞳、薄く形の整った唇。それらが小さな顔に均等に配されている。三国一の美男子と称される男がそこに座していた。
月見酒をする姿は、一枚の屏風絵の如くである。
「何用か」
盃を干した景虎は、手酌で器を満たす。
こちらを見向きもしない。
「およそ三千の敵兵が、城下に押し寄せております。もはや、これまでかと」
投降しては、と暗に仄めかしたつもりであった。
景虎は表情を崩さない。
宗親はすでに景虎と生死を共にする覚悟を決めていた。
しかし一方で、まだ二十六の景虎に死んで欲しくない、という想いもまた、あった。
それに、関東に一大勢力を誇る北条氏政の弟である景虎には、敵方にとっても政治的に利用価値のある人物に違いなかった。
宗親は、景虎にここで命を終わらせてほしくはなかった。
それは、憐みであり同情でもあった。
「滑稽」
口元から盃を離すと、景虎は呟いた。
「は……」
思わず、聞き返す。
「己の人生のことよ。まるで傀儡人形のような一生であった」
盃を持つ手を膝の上に置くと、はじめてこちらを振り返った。
宗親は、思わず息を呑んだ。
景虎の顔は青白く、生気がなかった。
死相とはこのような面のことを言うのだろう。
宗親はそう思いつつも、一方で、儚い美しさもその顔から感じられた。
「終わったと決まったわけではございませぬ」
宗親は絞り出すように言った。
「いや、最期くらい己で決めたい」
景虎の死は、宗親の死をも意味した。
深い間柄というわけではない。
現在の境遇に至ったのは、成り行きとしか言いようがなかった。
これも運命かと、半ば諦めの境地に宗親は立っている。
景虎の一言で、自身の命運も決まったのである。
「宗親、おぬしもどうだ」
景虎は小姓を呼ぶと、盃を宗親にも与えるよう命じた。
盃を受け取った己の手が、微かに震えていた。
宗親は覚悟したにも関わらず、これから起きるであろうことに恐れを抱いている己を知った。
一息に飲み干すと、景虎の表情を窺った。
気力の萎えた、感情の籠らない微笑みを浮かべていた。
上杉景虎。
前上杉家当主、謙信の養子であり、北条氏政の弟でもあった。
もう一人の謙信の養子である景勝と、謙信亡きあとの上杉家跡目継承を廻って争い、いままさにその命を散らそうとしていた。
宗親は、武田家との国境付近に位置する、鮫ヶ尾城の城主という立場であった。
そのことから景虎側に味方した武田の軍勢を恐れ、宗親もこれに倣ったのである。この判断が命運を分けた。悔いはなかった。
「傀儡人形とは、どういった……」
宗親は尋ねた。しかし、ある程度、その意味を解していた。
これが景虎と面と向かって話のできる最後の機会だと思い、尋ねずにはいられなかったのである。
死を共にする者が、どのような人物かもっと深く知りたかった。
景虎は黙したまま、再び盃を口にした。喉仏が静かに上下する。
景虎は視線を天に浮かぶ上弦の月に向けた。そして、一つ溜息を吐くと、未練を残すまいとするように語り始めた。




