1本目 アイスクライマー
運び屋なんてするものじゃない。
映画のようにトラブルに巻き込まれるのがオチだ。
まあ運び屋といっても私――桜沢萌子――は、個人経営のピザ屋の配達員なのだが。
――ことの発端はこうである。配達先のマンションの部屋がヤンキーたちの巣窟だった。そして玄関に出てきた派手な男が私の胸を触ってきた。
一瞬で頭に血がのぼった。気が付いたら、ピザの箱を両手で持ったまま相手の股ぐらを勢いよく蹴り上げていた。
目の前の男が悶絶するとともに、室内にいた三人の金髪野郎が立ち上がった。目には殺気がこもっている。だから萌子は啖呵を切った。
「てめえら、私がヒットマンなら、この場で皆殺しだぞ!」
なぜか頭には、ヤクザの討ち入りシーンが思い浮かんでいた。自分の手にはチャカではなくピザしかないのに。
怒りに燃えたヤカラたちが一斉に襲い掛かってきた。だからピザを頭上に掲げて逃げ出した。
ピザを捨てるという選択肢は浮かばなかった。食べ物は粗末にはできない。それも丹精込めて作られた料理はなおさらだ。
懸命に走り、階段までたどりついたところで男たちが背後に迫ってきた。
仕方がない。萌子は床を蹴って踊り場までジャンプした。着地したら絶対に足が痛い。そう思ったが、そんなことは気にしていられなかった。
関節と筋肉を駆使して衝撃を和らげ、どうにか痛みを我慢して再び駆け下りた。必死に駐車場まで行き、花壇をジャンプして超えて、スクーターにまたがりマンションをあとにした。
横浜東神奈川駅近く、満月堂ピザ屋の入り口の脇にスクーターを停めた。店に入り事情を説明すると、店長の佐々木満雄は頭を抱えた。
「いや、萌子ちゃんは悪くないよ」
そう言ったあと佐々木店長は、天井を見上げてつぶやいた。
「報復、あるかもな」
その言葉を聞いて萌子は思った。横浜って怖いところだな。
「店長、警察に届けますか?」
「萌子ちゃんは、相手の金玉を攻撃したんだよね」
「ええ、つぶす勢いで蹴り上げてやりましたよ」
店長が青い顔をする。
いろいろと話を総合するとこうだ。
警察に、どう取られるのか分からない。胸を触ったかは言い争いになる可能性がある。金玉を蹴り上げられた人は現実にいる。向こうは四人、こちらは一人。こちらの言い分が通らないことも考えられる。
なにせここは神奈川だ。神奈川県警は人手が足らないことで有名だ。
なんだそれはと思った。神奈川こわっ。
それよりも問題は、店長が言った「報復」という言葉だ。
「あのー、横浜や神奈川の常識として、お礼参りに来ますかね?」
「うーん。店舗の住所はウェブサイトに掲載しているしね」
「もしかして、報復対象って私ですか?」
「もしかしなくても、そうだと思うよ」
四十代独身、イタリアで修行をしたと言い張る佐々木店長は残念そうな目で私を見た。
途端に不安になった。地元を出て大学に来て卒業して、営業職で入社したIT会社が半年で潰れた。家賃を払うために始めたのが、この独立系ピザ屋の宅配のバイトだった。
クビになると困るし、ヤンキーたちの襲撃を受けても困る。私の腕っ節で蹴散らしてもよいが、暴力は暴力の連鎖を生む。
まあ、先に性暴力という名の暴力を繰り出してきたのは奴らだ。始めたのは私でないから、そこだけは精神の平穏を保てる。
「店長、なにかいい方法はありませんか?」
「たとえば?」
「ヤンキーたちを、この世界から消滅させるとか」
「もしもボックス的なアイデアだね。それは無理……、あっ」
何か言いかけて、店長は口を閉じた。ヤバいことを口走りそうになったという顔をしている。
「まあ、報復には来ないかもしれないし、なにかあったら警察に相談すればいいから」
「なにかあったら遅いですよ! 警察は信用できないって、さっき言いましたよね! 従業員を守りましょうよ! ねえ、店長、佐々木さん!」
突っ込みを入れて名前を呼んだら、罪の意識が芽生えてきたのか、店長はメモを引き寄せて何かを書き始めた。
「じゃあ、ここに行って」
渡されたメモに書いてある地図をながめる。
「白楽駅からたどるんですよね。マンガ喫茶フロンティアですか?」
「そう。そこに行ったら、受付でこう言って。RP2A03と。そして案内された場所で、佐々木満雄からの紹介で来たって伝えて。
僕自身は彼に積極的には関わり合いたくないんだ。でも、腐れ縁でね。彼なら萌子ちゃんみたいな人を、何とかしてくれると思うよ。うまい方法で」
怪しさ1000%だ。そもそも、RP2A03ってなんだ?
スマホを取り出して検索する。任天堂とリコーが共同開発して、リコーが製造したファミリーコンピュータ用のCPUの名前らしい。
「マンガ喫茶ですよね?」
「そうだよ」
「なぜ、ゲーム?」
「僕には聞かないで欲しい」
店内の電話が鳴った。受話器を手にした店長がぺこぺことお辞儀をしている。ヤンキーどもか。性暴力も立派な犯罪だぞ。
萌子はメモをひらひらとさせて考える。フロンティアって、アメリカのフロンティアスピリッツとかで出てくる単語だよね?
きちんとした意味を知らなかったのでスマホで検索してみる。
「辺境」と出てきた。
言い換えると「場末」ってことか。店長の様子からすると、友人関係の端の端にいる人間なのだろうな。
電話で話している店長が目配せをしてきた。フロンティアに行けということか。仕方がない。行くとするか。
萌子はバイトの制服のまま飛び出してスクーターにまたがった。そして、店を出発して地図の場所へと向かった。
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マンガ喫茶フロンティアは、大きな道路に面した低めのビルの二階にあった。
大きな道路といっても人通りは少ない。商業地からは離れていて、ただ車が通り過ぎるだけの閑散とした場所だ。
階段を上がり扉を開ける。受付のカウンターには高校生と思しき女の子が座っていた。ダウナーな雰囲気のカラフルなツインテールの少女だ。
「初めてっすか?」
「ええ」
「まずは住所と名前を書いて会員登録をしていただきます。免許証とか身分が分かるものをご提示ください。登録後に利用可能になります。
十五分ごとに課金のフリープランと、二時間プラン、ワンデイプランがあるんで、どれにしたいか考えておいてください」
受付の少女は、会員登録用紙とボールーペンを渡してきた。そしてカウンターの中にあるパソコンの端末に目を戻した。
どうしよう。マンガを読みに来たのではないのだが。
会員登録用紙に目を落としたまま考える。ここは日和らず、当初の予定どおりの行動をとるべきだ。
「あの」
「なんすか?」
「RP2A03!」
おそらく合い言葉なのだろう。萌子はツインテ少女に向かって呪文を告げた。
「はっ?」
怒ったように八重歯を見せて、少女はこちらをにらんできた。ピザ屋の佐々木店長の顔を思い浮かべて、くそー、あとでしめてやる、と思った。
「ちっ!」
少女は舌打ちをする。
「メイタロウの客かよ!」
面倒くさそうにスマホを取り上げる。
「ああ、メイタロウ。客だよ。だから、マン喫の客じゃなく、あんたの客。わけの分からないことを言っていたから、――なんだっけ?」
「RP2A03」
「R2D2っぽいなにか」
合い言葉じゃなかったのかよ! わけの分からないことを言うと通されるシステムなのかよ! 思わず突っ込みを入れたくなる。
少女は通話を切って、スマホを机の上に置いた。
「あー、姉さん。店の一番奥まで行って。右側に扉があるから勝手に開けて中に入って。そこにメイタロウがいるから」
「あの、メイタロウって誰ですか?」
そんなことも知らないで来たのかよと、驚いた顔を向けられる。
「ウキョウサキョウ、メイタロウ。右の京に左の京。迷う太郎って書くおっさん。私の母の弟。半分ニートみたいな生活をしている、この店の居候」
右京左京迷太郎。本名なのか偽名なのか分からない名前だ。
「この店の客じゃないなら受付を占領しないで。おっさんのところに、とっとと行って」
ツインテ少女に追い払われた萌子は、仕方がなく本棚のあいだを縫って店の奥に向かった。
扉の前に立つと、かすかな電子音が聞こえてきた。レトロゲームの音。ファミコンあたりだろうかと推測する。
「あの――」
ノックして反応を待つ。
「どうぞ」
渋く低いイケボが返ってきた。扉に手をかけて横にスライドさせる。
三畳ほどの部屋には天井まで本棚があり、小さな文字の紙が無数に貼ってあった。部屋の奥にはモニターがあり、古そうなゲーム画面が表示されている。その手前には座椅子に座る男の後頭部があった。男はゲーム機のコントローラーを握っている。
「君もやる? アイスクライマー」
振り向いた男の顔は、ぼさぼさ髪でヒゲがぼうぼうで丸い眼鏡をかけていた。年齢は、佐々木店長と同じ四十代だ。
「どんなゲームなんですか?」
「つるつる滑る氷の山で、山頂を目指すゲーム。敵に当たったり、落ちたりしたら死ぬ」
薄氷を踏み割りそうな自分の境遇と似ているかもしれない。
「死なずに済む条件は?」
「頂上を飛んでいるコンドルの足につかまればステージクリア」
この場合のコンドルは、ヒゲ眼鏡の迷太郎だろうか。しかし、このニート、いやレトロゲームオタクに、なにができるというのか。
「佐々木満雄からの紹介で来ました」
「ちょっと待ってね。どうして来たか考えるから。配達の途中で、性的な暴行を受けそうになって撃退した。そして報復が怖くてここに来た」
萌子は目を見開いて、目の前のヒゲ男を見る。
「満雄の店の制服、腕にひっかき傷、足には茂みでこすったような傷」
はっとして自分の手足を見る。気付いていなかったが、腕に爪のあとがある。足には、花壇の茂みで付いたであろう傷があった。
「君はここに急に飛び込んで来た。しかし、顔には憔悴の様子がない。だから被害は甚大ではなく、理性的に振る舞える範囲内である。なのに、ここに来た理由はなんなのか。
君は姿勢がよく、体幹が優れている。腕や足には筋肉が付いている。なにかスポーツをやっていたはず。店に入ってきて、ここに来るまでの時間が短かったから、自分の意志で決断して行動できるタイプだ。気も短い方だろう。
諸々考えると、君は客と争いになり、ダメージは相手の方が大きかった。そしてその相手は、そのことを黙殺する人種ではなかった。そうなると、ここに来た理由は報復が怖かったから。そう考えたんだけど、どうかな?」
「合っています」
なんだ、この男は気持ちが悪い。萌子はまっさきにそう思った。
「いや、そんな嫌そうな顔をしないでよ。俺は、ゲーム仲間が欲しいだけの暇なおっさんなんだから」
「気持ち悪いって思われているわよ、迷太郎」
受付からカラフルツインテの声が飛んでくる。
「姪御さんなんですよね?」
「そう。商売の邪魔になるから出てくるなと言われて、ここに押し込められいる」
嬉しそうに迷太郎は言う。
「あの、右京左京さんって、どういう人なんですか?」
萌子は目の前の男に尋ねる。
「うーん、トラブルシューター?」
ちらりと受付を見ながら迷太郎は言う。
「だからね、君から報酬をもらうよ」
「何円ですか?」
「一万円プラス、俺と合計八時間ゲームをする義務」
「デスゲームとかじゃないですよね」
「ただのファミコンゲームだよ」
何か裏があるのだろうか。気持ち悪い発言だが、性的な意図はなさそうだ。
「依頼するか渋っているようだね。じゃあ少し質問するね。相手の人数は?」
「四人です」
「住所は?」
スマホで地図を表示する。
「報復が起きないようにすればいいんだね?」
「はい」
「正式に依頼する?」
ヒゲのおっさんをじっと見る。人のよい佐々木店長が紹介したのだから信じることにしよう。
「分かりました。お願いします」
「よし、じゃあさっそく調査を開始しよう」
迷太郎は手を伸ばして棚からノートパソコンを取り出した。そして受付をそっと窺ったあと入り口の扉を閉じて、ノートパソコンを操作し始めた。
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配達先の相手の名前を尋ねられた。答えると迷太郎は名前を検索して、SNSのアカウントを見つけた。そして芋づる式に個人情報を集め始めた。
異様に手際がよくて気持ちが悪い。このスキルがあれば、ストーカー行為をしたら非常にはかどるだろう。
「出身高校、出身中学、現在の勤務先が分かったよ。交友関係もひととおり収集した。部屋には四人いたと言っていたよね、他の三人はこの写真の中にいる?」
何枚か見せられた集合写真の中に三人を見つけた。迷太郎はそこからたどって、彼らの小さな社会を丸ごとパソコン内に再現していく。
「ねえ、萌子ちゃん」
「なんですか?」
返事をしたあと、警戒の目で迷太郎を見る。
今日、ここに来て自分は名乗っていない。名前をどこかに書いたりもしていない。どうして自分の名前を知っているんだ?
「桜沢萌子。二十三歳。現在、満月堂ピザのアルバイト」
大学名、地元の高校名、住んでいた地域をべらべらと言う。萌子は全身に鳥肌を浮かべて扉に背をつけた。
「萌子ちゃんのことは満雄に聞いていたからね。知らない人のことを聞くと職業柄調べてしまうんだよね」
あっけらかんと迷太郎は言う。よく見ると、壁や本棚に貼った異様に小さな文字の紙には、人の名前と調査結果が印刷してある。
自分の名前を見つけた。桜沢萌子。顔をしかめながら他の紙を見渡した。
「もしかして、受付の姪御さんのもあったりしますか?」
「これ」
マスキングテープで貼った紙を一枚引っぺがして萌子に渡してきた。
本屋敷栞――ほんやしき、しおり――。本に栞、読書に向いていそうな名前だ。マンガが中心とはいえ本に囲まれている。文学少女ではなくマンガ少女なのだろうけど今いる場所に相応しい名前だと思った。
「栞ちゃんに、気持ち悪いって言われないですか?」
「いつも言われているよ。なんでだろうね」
自覚がないのだろうか。
「それで、例の四人とのトラブルについて、もう少し聞きたいんだけど」
いくつか質問されて調査は終了した。
「よし、調査は終了した。それで、やるべきことは、相手の面子をつぶさないように手打ちにすることだよね」
「金玉はつぶしたかもしれないですが」
迷太郎がドン引きした顔を向けてくる。
「それじゃあ、ちょっと電話をするね」
「どこにですか?」
「市会議員のところに」
「えっ、どういうことですか?」
萌子の頭にハテナマークが乱舞する。
「横浜は市議会ではなく市会なんだ。横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の五市は、明治時代からの名称である市会という呼称を使用して、現在に至っているんだ」
「そういうことではなく――」
なぜ市会議員のところに電話をするのか。そのことを萌子は尋ねた。
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どうやら全てが解決したようだ。人間にはさまざまな面があるということを思い知った。
あのマンションの部屋にいたヤンキーたちは、他人の権利を侵害する犯罪者の面と、定職に就いている社会人の面の両方を持っていた。
そして彼らは休みの日には、地元の先輩でもある市会議員の活動を無償で手伝うボランティアでもあった。
迷太郎の話では、その先輩も元ヤンキーで、その人脈で票を集めて議員になったらしい。そうしたつながりをネットの情報を集めて突き止めたそうだ。
そのあとの行動は、聞けば納得できるものだった。
議員に電話で連絡を取り、ボランティアで活動している人とのトラブルを相談した。すぐに仲介に入ってくれてヤカラどもの報復を防ぐことができた。萌子と迷太郎はその議員に感謝した。
今日萌子は、私服でマンガ喫茶フロンティアにやって来ている。受付には相変わらずカラフルツインテの栞ちゃんがいる。
「おつとめに来ました」
「監獄はあちらです」
栞にうながされて店の奥に行く。突き当たりの右側の扉をスライドさせて、三畳の部屋に入る。座椅子に座ったヒゲ眼鏡のおっさんが出迎えてくれた。
「萌子ちゃん、八時間ね」
迷太郎はストップウォッチを見せてにっこりと微笑む。
「先に一万円を払っておきます」
封筒に入れた紙幣を渡して領収書をもらう。
「さあ、何のゲームをやろうか」
「前回来たときにやっていたゲームでいいですよ」
「じゃあ、アイスクライマーをやろう。この青い服のキャラがポポで、ピンクの服のがナナ。どっちをプレイしたい?」
「どっちでもいいですよ」
「じゃあ、どっちの色が好き?」
「青です」
「じゃあ、萌子ちゃんがポポで、俺がナナね」
コントローラーを渡されて操作方法を説明された。
背後に気配がした。カラフルツインテの栞ちゃんが、二人分のジュースを持って立っていた。
「どうぞ、桜沢さん」
一つを萌子に渡して、もう一つを栞が飲む。
「栞ちゃん、俺のは?」
「あるわけないでしょう」
蔑んだ目で迷太郎を見る。
「すみませんね、桜沢さん。おっさんの趣味に付き合わせて」
「いえ、正当な報酬ですから」
スタートボタンを押すように迷太郎にうながされる。八時間の時給はどれぐらいだろうかと萌子は考える。
「さあ、ゲームを楽しもう!」
迷太郎が明るい声を出した。栞はため息を吐いて受付に戻った。