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 アリシアたちが在籍する学園では授業ごとに教室が固定であるため、一限ごとに教室移動をする必要がある。自分達の次は他の生徒たちがその教室を利用することもあるため、授業が終わったらすぐに退室しなければならないことになっている。

 けれど、授業は終わったというのに、一人の男子生徒が下を向きながら教室内をうろうろとしていることに気がついた。アリシアも教室を出ようとしていたところだったのだが、なんだか気になって、出口に向かいながらも男子生徒の様子を窺う。


「あれ……?」


 ふと教室の通路を見ると、床にハンカチが落ちているのに気づいて拾い上げた。可愛らしい刺繍が入っている白いハンカチで、どちらかといえば女子が使っていそうなものにも見える。けれどもしかしたらと思い、男子生徒に声をかけてみることにした。


「あの……もしかして、これを落としたりしてない?」


 ハンカチを差し出すと、彼は「あっ」と少し目を見開き、それを受け取った。


「ありがとう。さっきから探してたんだけど見つからなくて」

「そっちのほうに落ちてたよ」


 ハンカチを拾った方を指差すと、彼は「あ、そうだったんだ」と頷いた。

 そこで会話が途切れる。そのまま立ち去るのもなんとなく気まずいような気がして、場を繋ぐような気持ちで、さっきから気になっていたことを口にした。


「さっきのって、猫の刺繍だよね? 可愛い」


 男子生徒の白いハンカチには、なんとも愛らしい動物の刺繍が入っていたのだ。なんの動物かははっきりとはわからなかったものの、耳の形や、色が三毛であることから猫なのじゃないかと推測した。

 すると、男子生徒は少し照れたように頬を描く。


「ああ、うん。母親が……」

「お母さんの刺繍なんだ! 素敵。猫好きなの?」

「うん、まあ。家で飼ってるし」

「いいなー」


 アリシアも猫は好きだったけれど家では飼っていなかったので、羨ましくなった。

 その刺繍は彼の家の猫をモデルにしたものだったりするのだろうか?

 もっと猫の話が聞きたかったけれど、結局その機会は訪れなかった。聞こうとしたまさにその瞬間、別の人間が会話に入ってきたからだ。


「アリシア、時間は大丈夫?」

「あ、ロイくん」

「もうすぐ結界表面の魔法学の授業が始まるよ。移動した方がいいんじゃない?」


 そう言われて時計を見ると、確かに次の授業まで時間が迫っていた。


「本当だ。行かなきゃ」


 次の時間はロイと一緒の授業をとっていたから、アリシアがいないことに気づいて探してくれたのだろう。

 それじゃあね、とさっきまで話していた男子生徒に手を振り、ロイと一緒に次の教室に急いだ。

 廊下を歩いている途中、彼がこう聞いてきた。


「さっきの男子と、何話してたの?」

「大した話はしてないよ。ハンカチを落としたみたいだったから、拾ってあげただけ」


 そう答えると、ロイは微妙に納得していないような様子で、


「だけど、随分楽しそうに話してたよね。男子と話すのは苦手なのかと勝手に思ってたから、ちょっと驚いた」


 確かに、言われてみればそうだと思った。

 入学してから間もない頃は男子に物理的に近づくことすら避けていたけれど、最近は少しその苦手意識も薄れているのかもしれない。

 この学園にも嫌なことを言ってくる人はいないわけじゃないけれど、生まれ育った町で感じていたほどには、男子は怖くないと思い始めていた。普段はロイ以外だと女の子と話すことが多いけれど、授業内で男子と話さないといけないことはある。そういう時、露骨に嫌な態度を取られた記憶はない。

 それに何といっても、ロイの存在が大きいと思う。


「ちょっとは、男子と話すのも平気になってきたみたい。ロイくんと友達になったおかげかな?」


 ロイがいつも一緒にいて優しくしてくれたから、他の男子にも少しずつ慣れていくことができたんじゃないだろうか。そう思ってなんとなく嬉しくなり彼のほうを見たが、彼はよそ見をせず、まっすぐに正面を向いて歩いていた。アリシアから見える彼のその横顔は、なぜだか表情がなかった。

 普段と違う彼の様子が気にはなったけれど、その時ちょうど教室に着いたので、その表情の理由を尋ねる機会は失われてしまった。




 その日、最後の授業が終わった後のこと。ロイが「今日って時間ある?」と話しかけてきた。


「前に君が読みたいって言ってた『呪術・魔術・魔法の歴史』を手に入れたんだけど、もしよかったら僕の部屋に来ない? 一応希少な本ではあるから、あまり外に持ち出したくなくて」

「え、本当に? すごい!」


 ロイの言うその本は、以前からアリシアが読みたいと思いながら、学園の図書館にないので諦めていたものだった。昔に書かれた魔術書は基本的に貴重なもので、値段も高ければ数も少ないので個人で所有することは難しい。だから学生がレポートなどで魔術書を参照しなければならない場合にも、図書館で借りたり読んだりすることが一般的であった。

 けれど、ロイの言い方からすると、彼自身がその本を所有しているようだ。


「だけど……すごく高かったんじゃない? 図書館にも置いてないような本なのに」

「そんなには。あるところにはあるみたいだよ」


 なんでもないように微笑むロイ。さっき「希少な本」だと彼自身が言っていたと思うのだけれど。

 ともかく、彼が厚意で希少な本を読ませてくれると言うのなら、断る理由はないように思われた。

「じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」


 そういうわけで、学生寮の彼の部屋に訪れることになった。

 学生寮は男子と女子とで建物が分かれているけれど、内部の構造はほとんど変わらない。寮の入り口から階段を登って、3階の奥に彼の部屋はあった。これまでにも何度かきたことはあったので、場所は知っている。


「じゃあ、入って」

「お邪魔します」


 ロイが開けてくれた扉から中に入ると、以前目にした時からほとんど変わらない彼の部屋があった。ずらりと並んだ本に、シンプルで綺麗な家具。ゴミひとつ落ちておらず、整頓されている。いつも上品で隙がない彼に似つかわしい部屋だ。

 ソファーをすすめられ、ふわりと腰掛ける。


「ほら、これだよ」


 彼が本棚から出して机に置いたその本は、表紙に堂々と「呪術・魔術・魔法の歴史」と書かれており、まさしくアリシアが読むことを熱望していたそれであった。


「わ、本当だ。読んでいいの?」

「うん、もちろん。あの、ところでさ……」


 早速本を開こうとしたアリシアだったが、ロイが何か話をしたそうだと察してぴたりと手を止めた。

 ロイは一人が間に入れるくらいの隙間をアリシアから開けて、ソファーに座る。彼にしては珍しく、暗い表情をしているのが気に掛かった。何か深刻な話なのかもしれない。

 居住まいを正して、次の言葉を待った。


「……今日、あの男と、何を話してたの?」

「あの男?」

「今日話してたでしょ。結界表面の魔法学の前」

「あ……」


 そう言われてようやく思い出した。猫の刺繍のハンカチを落とした男子生徒。思い返せばあの時も、ロイは会話内容を気にしていたようだった。

 特にロイが気にするような話をしていたわけではないのだけれど、どうして何度も聞いてくるのだろう。あの男子生徒と面識があったりしたのだろうか。

 疑問に思いつつも、アリシアは答えた。


「あの時も言ったけど、ハンカチを拾っただけだよ。そのハンカチの刺繍が可愛かったからちょっとだけそのことで話したけど、それだけ」

「刺繍?」

「彼の持ってたハンカチに、猫の刺繍がしてあって。お母さんがしたものらしいんだけど、すごく可愛かったから。家でも猫を飼ってるらしくてその話を聞こうと思ったんだけど、その前にロイくんが呼びにきてくれたから、それ以上何も話してないよ」

「そう……なんだ」



 安堵、もしくは拍子抜けしたように、そう呟くロイ。

 一体何を気にしていたのだろう? よくわからなかったけれど、彼が納得したならそれでいいと思うことにした。

 机の上に放置された、布拍子の魔術書をチラリと見やる。『呪術・魔術・魔法の歴史』。魔術や魔法の性質が研究を通じて明らかになっていく様子か記された本。魅了魔法の性質や歴史を深く知る上でも過去の魔法学の歴史は大いに参考になるだろうと思ったし、話している間も興味を惹かれていた。

 気づかれないように視線を向けたつもりが、彼はアリシアの関心のありかをしっかりと捉えていたらしい。苦笑されてしまう。


「ごめん、早く読みたいのに邪魔しちゃって。遠慮しないで読んでくれていいよ」


 少し気まずい思いをしたが、とはいえ彼がそう言ってくれたことなので、ありがたく魔術書を読ませてもらうことにした。

 読み始めると目の前にいる彼のことは綺麗に頭から消え去ってしまい、本の記述だけに没頭し始めた。昔の本だけあって言い回しなどは分かりにくいところがあるものの、それだけに当時の空気感すらも伝わってくるようで、単なる知識にとどまらない面白さがあるように感じられた。集中して文章を追っていく。

 しばらく読み進めると、うまく意味が取れない記述に突き当たった。文の前後を何度か読んだり、注釈を確認しても、やはり理解できない。

 困ってしまい、本から顔を上げた。


「ロイくん。よくわからない文章があるんだけど、見てもらえる?」


 課題のレポートを書いていたらしい彼が顔を上げる。「ちょっと見せて」と手を伸ばされたので、渡して該当箇所を指で示す。


「ここなんだけど」

「ああ……なるほど。ちょっと待ってね」


 じっ、と本を眺め、しばらくページを行きつ戻りつした後、彼は「多分この文章はここにかかってるんじゃないかな」と言った。


「ちょっと分かりにくいけど、それなら繋がってるような気がする」

「あ、確かに……。ありがとう」


 見返してみると、彼の言う通りだと思えた。むしろ、一度彼の解釈を受け入れてしまえば、それ以外は考えられない。

 けれど、アリシアがあれだけ悩んでいた箇所なのに、一瞬で解決してしまうなんて。


「すごいね。私はかなりここで詰まってたのに、こんなにすぐわかっちゃうなんて」

「そんなことないよ。僕もその本を一通りは読んでたし」


 彼はそう謙遜した後、にこりと笑った。


「とにかく解決してよかった。ところで、さっきからずっと本を読んでて疲れただろう。そろそろ休憩しない? お茶でも淹れるよ」

「え、そんなに気を使わなくても大丈夫だよ?」

「いやいや。僕もちょうど休憩したいと思ってたから」


 ロイは立ち上がるとテキパキとお湯を沸かし、紅茶を淹れてくれた。ミルクと砂糖に加えて、おいしそうなクッキーまで用意を欠かさない。至れり尽くせりだ。

 高級そうな箱に入った美しいクッキーを眺めていると、味わってみたい気持ちと申し訳ないような気持ちが入り混じる。紅茶を一口飲んでみると、とても美味しい。茶葉の良し悪しなんてわからないけれど、きっと彼は紅茶を淹れるのがうまいのだろう。


「クッキーも遠慮しないで食べて。嫌いじゃなかったよね?」

「う、うん。じゃあ、ありがたく……」


 彼に促され、クッキーを摘んで口にする。サクリとした食感が歯に伝わり、次に砂糖の甘みと飾り付けられたドライフルーツの甘酸っぱい風味が口に広がる。


「美味しい!」


 思わずロイの方を向いて叫んでしまった。こんなに美味しいクッキーを食べたのは初めてだ。

 喜んでもらえてよかった、とロイが満足げに微笑む。

 そこからは自然と、授業などに関するおしゃべりが始まった。


「僕がとっている授業では、グループワークって少ないかもな。見ていると楽しそうだなと思うけど」

「実技系では少ないのかな。座学だとグループワークは結構多いよ。楽しいことだけじゃないけどね」

「へえ。何か大変なの?」

「うん、真面目な人ばかりじゃないから、協力してくれない人の分も担当しなきゃいけなかったりとか。今受けてる授業でも、五人グループなのに三人はほとんど授業にも来ないし、やる気がなくて。二人でやってるんだ」


 美味しい紅茶とクッキーに加えてロイの聞き上手さもあいまって口が軽くなり、愚痴のようなことをこぼしてしまう。

 もう一つクッキーをつまんだ。アーモンドの風味と、サクサクほろりという食感が楽しい。

 ネガティブなことばかり言うのもどうかと思い、グループワークの楽しい部分も話そうと口を開く。


「だけど、一緒にやってくれてる子は協力的だし、賢くて。この前も『発表用の原稿は俺に任せろ』って。頼もしいよね」


 クスクスと笑いが漏れる。

 アリシアは単に授業での出来事を話しただけなのに、彼はなんだかムッとした表情で、少し機嫌を損ねたようにみえた。何か悪いことを言ってしまっただろうか。そう思って眉を下げるアリシアに、彼はこう聞いてきた。


「仲良いの? その男子と」

「仲がいいってほどではないかな。授業で話すだけだし……」


 話の流れが読めないが、そう素直に答える。


「そうなんだ。でもアリシアが家族以外の男のことを話題に出すのって、珍しいから。何か……特別な感情でもあるのかと思って」

「え? いや、別にそんなことはないけど。特別仲がいいわけじゃないよ」

「本当に? 誤魔化してるわけじゃなく?」


 探るような目で見られて、アリシアは困惑してしまった。

 そもそも誤魔化す必要性が皆無だし、仮にその男子と特別仲が良かったとしても、こんなふうに厳しい口調で追求されることではない。なんだか理不尽だ。

 一体、どう答えれば納得するっていうんだろう?


「……誤魔化してなんかないよ。何が言いたいの?」


 彼の顔をじっと見る。彼は珍しく不機嫌そうに唇を引き結んでおり、それでいて、どこか焦っているようにも見えた。普段の冷静さが全くない。

 先程からの彼の行動といえば、落とし物を届けたついでに少しだけ言葉を交わした生徒との会話内容を詳しく聞いてみたり、グループワークで一緒になった生徒との仲を何やら疑ってみたり。全くらしくない。アリシアは首を傾げた。


「なんだかさっきからロイくん、変だよ。どうかしたの?」


 彼の妙な言動に腹を立てるよりも心配になってしまい、そう尋ねた。

 すると彼は気まずそうな表情になり、俯いてしまう。それからボソリ、と何か呟くが、声が小さくて聞き取れない。


「え、なんて?」


 聞き返すと、彼はさっきよりもほんの少しだけ大きな声で、


「君が他の男と話していて、嫉妬したみたいだ。……ごめん」


 そう言って顔をあげ、アリシアの顔を正面から見つめた。

 嫉妬。……嫉妬?


 意味がよく理解できず、アリシアもまた男の顔をまじまじと見つめ返す。一瞬、時が止まったかのように二人は見つめあっていた。

 それから、だんだんと彼の発した言葉の意味をはっきりと認識し始めると同時に、アリシアの顔が赤みを帯び始める。アリシアが他の男と仲が良さそうで嫉妬した、なんて。それってまるで。まるで。


「それって……」

「君と一番仲がいい男は、僕だと思ってたから。他の男とも楽しそうに話しているんだと思うと、気に入らなくて」


 それは……どういう意味で?

 もしかしたら、と気持ちが期待で揺れる。恋愛感情からくる嫉妬心であるのか、それとも仲良しの友達をとられたくないという幼い女児の如き独占欲であるのか、さっきの言い方だと判別がつかない。


「……ええ、と」


 どちらであるとも確信が持てず、おろおろと視線を彷徨わせる。ロイはアリシアの頬に手を伸ばし、するりと撫でると、顎を掴んで上を向かせた。

 突然の接触に驚いて目を見開く。間近で目があった状態で、再びじわじわと頬が熱を帯び始める。同じくらい熱がこもった眼差しをアリシアに向けながら、彼は囁いた。


「……嫌?」


 顔が熱くて、頭がふわふわして、深く考えることが難しい。まるで夢を見ているようなぼんやりとした心地で、アリシアはかろうじて口にした。


「いや、じゃない」


 二人の距離はますます近づき、アリシアは静かに目を閉じた。

 唇が重なる。触れるだけの優しい口づけ。


 ――このまま、時が止まってしまえばいいのに。


 現実味のない幸福の中、アリシアはひたすらにそう願った。

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