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 この世界には「魅了魔法」というものが存在する。他人を自分の虜にし、意のままに操ることすら可能な、恐ろしい魔法。

 この魔法は、最初は小さな好意を相手に植え付ける程度の効果しか持たない。けれど継続的にかけ続けることによって、その好意はどんどんと大きく膨れ上がり、次第に相手は自分にのめり込む様になっていく。

「傾国の美女」として歴史に名を残す女性の多くはこの魅了の力を有していた可能性が高いと、最近の研究でわかってきた……らしい。




「国を傾けるほどの美女じゃなくて、魔法で人の心を操る悪女だったなんて。夢がないよね……」


 アリシアはため息をついて、首につけている銀の首輪に手を添えた。繊細な装飾が施された華奢な首輪は、一見すると身を飾るためのアクセサリーの様だけれど、これには魅了魔法を抑え込む力が込められている。

 魅了魔法は普通の魔法とは違い、魔力を持った人間が自分の意思で使用する、という類のものではない。魅了の力を持った人間は常時発動させている、ある種の特殊体質の様なものらしい。

 自分の意志とは無関係に発動するので、そうした体質を持つ人間は、魅了魔法を封じ込めるための道具を身につけることが義務付けられているのだ。

 そしてアリシアも、その「魅了の力を有する人間」の一人だった。


 魅了の力を持つ人間は少ない。一説では数万人に一人とも言われている。

 アリシアの所属している魔法学園でも、入学したのは彼女が初めてらしい。と言っても、魅了魔法の存在が明らかになったのは最近のことなので、それよりも前にはいたのかもしれないが。ともかく、記録に残っている限りではアリシアが学園創立以来初の「魅了持ち」であるということだった。


 ──あなたの振る舞いが、魅了持ちに対するイメージを形づくり、あなた以降の魅了持ちが受ける待遇をも左右することになるのです。それをしっかりと自覚し、品位ある行動を心がけるように。


 この学園に入学してから、そのような忠告を何度受けたかしれない。

 つまりは「面倒ごとを起こすな」という意味だ。学園側としても、魅了持ちの生徒を受け入れることで何か問題が起きた際に責任の一端を負わされるリスクを負っている。


 稀有で強大な力と聞けばなんだかすごそうだけれど、この力を持って生まれたことで得をしたことなんて、記憶の限りたったの一度もなかった。そもそも使うことを許されていないのだから当然だ。逆に損をしたことといえば、そちらは数えきれないほどに次々と思い浮かぶ。

 魅了持ちに対する世間からの風当たりは強いのだ。例え力を抑える首輪を身につけていても「勝手に好意を植え付けられる」と警戒されてしまうことが多く、不躾な視線を向けられたり、嫌な言葉を投げかけられたりは日常茶飯事だ。

 もちろん、精神を操る魔法に対する恐怖心は理解できるけれど、だからと言って傷つかないわけでもなかった。


 ──私だって、好きでこんな体質に生まれたわけじゃないのに。


 アリシアは暗い気分で、俯き加減に廊下をとぼとぼと歩く。その隣に、後ろから追いついてきた人影が並んだ。


 人の気配を感じて隣を見上げると、こちらを覗き込む男の子と目が合った。


「アリシア。どうかした? なんだか、暗い顔をしていたみたいだけど」


 柔らかな金髪に吸い込まれそうな青い目をした彼は、物語の中の王子様みたいに綺麗な顔をしている。


「ロイくん」


 ロイの顔を見た瞬間、自然に笑みが浮かんだ。

 彼はアリシアが魔法学園に入学してからできた、一番仲がいい友達だった。元々男の子が苦手だった彼女にとっては、初めてできた異性の友人でもある。

 学園に入る前は、異性の友達ができるだとか、ましてこんなふうに行動を共にするようになんて、想像もしていなかった。人生というのは、時々思いもかけないことが起こるものだ。


「もしかして……誰かに嫌なことを言われたりした?」


 なんだか怖い顔をしてそう言ったロイに、アリシアは「ううん」と首を振った。


「そんなんじゃないよ。ただ、さっき魔法史の授業で、傾国の美女は魅了の力を持っていたという説が有力だって聞いて。それで、国を傾けるほどの美貌ってどんなだろうと思ってワクワクしてたのに、なんだかちょっとがっかりかも……って」


 アリシアがちょっと肩をすくめてみせると、ロイは「そっか」と微笑んだ後、しばらく黙り込んでしまった。そして、言葉を選びながら話している人特有のゆっくりとした口調で、こんな風に言った。


「だけど……そうした事例って、実際には魅了魔法以外の要因も大きかったんじゃないかと、個人的には思っているんだ。アリシアも知っているように、魅了魔法っていうのは世間で思われているほど強い力じゃない。もともと美人だったり、人の心を掴むのが上手い人だったから、魅了の効果が強く現れたということなんじゃないかな」

「……なるほど」


 アリシアは関心してなんども頷いた。実際のところはよく知らないけれど、ロイが話すと説得力がある主張に聞こえるのだ。


「それに……人の感情を魔法だけで説明しようとするなんて、あまりに短絡的じゃないかって気がするんだ。だって、恋ってそれだけで人を狂わせるものだろう。魔法の力なんかなくても」

「そうなのかな」


 ロイの妙に実感のこもった言葉に首を傾げる。

 アリシアもロイも、まだ生まれてから16年しか経っていない。けれど、ロイはその16年で、そんなふうに自分が自分でなくなる様な熱烈な恋をした経験があるのだろうか。そうだとしたら、相手はどんな人だったのだろう。

 それとももしかして、今も恋をしている最中だったりするのだろうか?


 ちらりと彼の表情を窺うと、なぜかこちらを見ていた彼と目が合い、びっくりして一瞬固まってしまった。

 笑いかけられて恥ずかしくなり、慌てて目を逸らした。




 ロイとの初対面は、魔法学園の入学式だ。

 保護者は参加できない決まりのため、知り合いのいないアリシアは一人で会場に入ってきた。

 魅了の力を封じるための首輪は会場で目立ったらしく、他の新入生からジロジロと見られたり、何か噂されているのを感じた。後から思えば、「魅了持ち」が入ってくるという情報はすでに他の新入生たちに届いていたのだろう。

 不躾な目線や噂されることには慣れていたつもりだったけれど、見知らぬ人ばかりの場所で、守ってくれる両親もいない状況では、強気に堂々としているのも難しくて、とても心細くて怖くなってしまった。


 とにかく自分の席まで急ごう。そう思い足を早めたその瞬間、会場の敷物に足を取られ、その場で転んでしまった。


 ──痛い。


 実際は地面しか見えていないのに、多くの人の目線を背中に感じた。嘲笑うような声は聞こえてこないけれど、きっと周りの生徒は声を出さずに笑ったり、驚いたり、呆れたり、または心配そうにしながらこちらを眺めているに違いない。そう想像すると、もう、居た堪れなくて仕方がなかった。

 足が痛くて、恥ずかしくて、立ち上がれない。この場から消えてなくなりたいと願いながらじっと倒れ伏していたアリシアだったが、「大丈夫?」という優しい声に、ゆっくりと顔を上げる。そこには、心配そうな顔でこちらに手を差し伸べている男の子の姿があった。

 これがアリシアとロイとの出会い。大切な思い出だけれど、同時に恥ずかしくてあまり思いだしたくない。──乙女心は複雑なのだ。




 彼は、ほとんど泣き出しそうなアリシアの手を優しく引いて、彼女の席まで連れて行ってくれた。そしてお礼を言うアリシアに「気にしないで」と笑った。

 男の子にそんな風に親切にされたのは生まれて初めてだったので、しばらく彼のことが頭から離れなかった。

 人前で転んだ恥ずかしさが吹き飛ぶほど印象的な出来事だった。なにせそれまで同年代の異性には、無視や意地悪をされた思い出しかなかったのだから。


 そして彼は入学式以降も、アリシアと顔を合わせるたびに声をかけてくれた。

 一年生は受ける授業がほとんど固定なので必然的に彼とも同じ授業を受けることになる。何かと話しかけたり、色々と気にかけてくれる彼と自然に仲良くなり、気づけばいつも一緒に行動する様になっていた。




 ところで、男女が仲良くしていれば、そこに色恋を期待されるのは世の常というもの。

 アリシアも、周囲の女の子たちから「彼と付き合っているの?」とか「好きなの?」とか、聞かれることはよくあった。けれどもそういう時はこう答えることにしている。


「ううん、大事な友達だよ」と。


 アリシアにとっては、そう答える以外の選択肢はなかったのだ。だって、間違っても彼を煩わせるようなことはしたくなかったから。


 魅了持ちで周囲から浮いているアリシアに気を遣って、声をかけてくれた、優しいロイ。

 勉強についていけなくて落ち込んだ時はつきっきりで教えてくれた。男子生徒に嫌なことを言われて泣いてしまった時は慰めてくれた。ロイは出会った時から今までずっと、いつだって優しかった。

 だから、そんな彼を困らせるようなことはしたくない。周囲に私との仲を噂されたり、囃し立てられたりすればきっと彼も迷惑だろう。


 魅了持ちと恋愛をしようとする人間など、いるはずがないのだから。




 魅了の力を持つ人間であっても、首輪をつけていれば魅了の力は発動しない。それは何年もかけて実験で証明された事実だ。けれど、周囲の人間はその事実で完全に安心できるわけではない。

 日常生活で関わる分にはいいだろう。けれど、恋愛になればどうか。首輪で力は制御されていると頭ではわかっていたとしても、本当に自分の心は自分のものだと信じられるだろうか。相手に惹かれる心は魔法によって作られたものではないかという疑念を、抱かずにいられるだろうか。

 そんな疑念を抱いてしまう相手と、恋愛をしたいと思うだろうか?


 答えは否だ。アリシアはそう思う。


 だから、アリシアはきっと一生、恋愛をすることはないだろう。それでいいとも思っているし、受け入れている。だって恋人がいなくたって、優しい家族に大好きな友達がいるのだ。アリシアは決して不幸ではないし、恵まれている。


 ──今だって、十分に幸せだ。




 ◇




 魅了魔法は、使い方次第では一国の政治すらも左右しうる、野放しにしては危険な恐ろしい力。現代ではそうした認識が一般的であるが、しかし、この魔法の存在が明らかになったのは、つい50年ほど前のことだそうだ。


 発見のきっかけになったのは、王侯貴族の色恋沙汰だったという。

 とある王国で、高位貴族のご令嬢を婚約者に持つ王子が、平民の女性と恋に落ちた。そして衆目の前で自分の不実を棚に上げて婚約者の容姿や能力を罵り、平民の恋人を虐めたと責め立て、婚約破棄を叩きつけたらしい。


 この件は王室の、それは大きな醜聞となった。

 当然婚約は破談になり、王子の婚約者だった貴族令嬢には多額の慰謝料が支払われることになるはずだった。しかし、当の被害者である貴族令嬢がそこに待ったをかけた。良からぬ魔法の気配を王子や少女の周辺から感じ取ったので、一度きちんと捜査をするべきだ、と主張して。

 そうして、最新の魔法研究にも精通する才女であった貴族令嬢と、魔法学の権威たちが協力して調査を進めた結果、驚くべき事実が明らかになった。


 王子は未知の魔法による精神干渉を受けている状態であり、その魔法をかけていたのが、恋人であった平民の少女だったというのだ。


 この事実の発覚により、王子の問題行動は魔法の影響が大きく本人には責任がないと認められ、貴族令嬢との婚約は継続。平民の少女は投獄されることとなった。

 そして王子の治療後には婚約者であった貴族令嬢との婚姻が成立し、この騒動は幕を下ろした。




 この話は、魅了魔法の発見についてのよく知られたエピソードだ。劇や絵本の題材になることも多いため、幼い子供でも知っている。

 だから「魅了持ち」であるアリシアは、生まれ育った町でも男の子には冷たくあたられることが多かった。曰く「近寄ると魅了にかけられるぞ」と。

 たまに普通に接してくれる男の子がいても、他の子に「魅了にかかったのか」などと揶揄われて、瞬く間に態度を硬化させてしまうのが常だった。


 けれど、町の大人たちは力が首輪で抑えられていることを理解して普通に接してくれていたし、女の子たちも優しかった。だから決して惨めで不幸な幼少期だった、というわけではないのだけれど。

 それでもやはり今でも同年代の異性は少し怖くて、同性と一緒にいる方が安心できるというのは確かだった。それなのに学園で一番行動を共にすることの多い相手が異性のロイだというのは、なんだか不思議なことだと思う。




 ◇



 魔法史の授業が終わり、アリシアは女友達と話しながら教室を出た。

 難しい授業が終わり昼休みになった開放感で、みんなの表情が生き生きとしている。自然と、話題はこれから食べるお昼ご飯のことに移った。


「お昼どうしよっか」

「今日は食堂に行かない? 限定メニューのチーズデミグラスハンバーガーが食べたいんだけど」

「いいねー! 行く!」


 そんな風に盛り上がっている彼女たち。食堂では定期的に限定メニューを提供しているのだが、どうやら今回はそれがハンバーガーのようだ。

 アリシアはチーズデミグラスハンバーガーという魅惑の響きに心惹かれつつも、断りを入れた。


「ごめんね、私は約束してるから」

「あー、またロイくん? 本当、仲がいいよね」


 また今度一緒に食べようね、と約束し、手を振り合ってみんなと別れた。

 今では随分と仲良くなったけれど、彼女たちと話すようになったのは二年生になってからだ。

 一年生の時はほとんどずっとロイと一緒に行動していたけれど、彼に頼りきりなのはよくない気がして、密かに悩んでいた。だから二年生になって別の授業をとることが増えたのを機に、頑張って声をかけて女の子の友達を作るようにしたのだ。

 幸いにも彼女たちは優しく、やや浮いた存在であったアリシアを快く受け入れてくれた。


 だから、一年生の時ほどロイとべったりというわけではないし、お互い別の友達と行動することも多くなった。


 二年生になって他の友達を作ろうとした時は「僕だけじゃ不満なの」とか「他の子にできて僕にできないことって何? 僕がなんでもやってあげるのに」とか言ってなんだか不満そうにしていたことを覚えている。けれど、彼も他の友達と一緒にいるのをよく見かけるようになったので、お互い交友関係が増えて結果的にはよかったのではないかと思っている。




 友達と別れてからしばらく歩くと、待ち合わせをしていた校舎の入り口付近で、ロイの姿を見つけた。


「ロイくん、お待たせ」


 彼と合流して、お昼ご飯を食べるために中庭に移動する。

 今日はよく晴れており風もあって涼しいので、外で食べたらきっと気持ちがいいだろう。


「今日はアリシアが料理を作ってきてくれたんだよね? 楽しみだな」

「そんなに期待されると、緊張しちゃうな」


 中庭のベンチで、アリシアが持ってきたランチボックスを広げる。今日はお昼ご飯を作ってくる約束をしていたので、いつもより早く起きて準備をしてきた。

 実家ではたまに料理をしていたと話したら、ロイに食べてみたいと言われ、話の流れで作ってくることになってしまったのだ。そんなに凝ったものは作れないからと一度は断ったものの、それでもいいからと食い下がられてはそれ以上拒否することもできなかった。


「大したものじゃないけど……」


 アリシアはそう予防線を張った。

 実際、そこまで手の込んだものは入っていない。薄く切ったパンに具材を挟んだものを何種類か持ってきたけれど、その具材も茹でたじゃがいもを潰して野菜と和えたもの、肉を甘辛く味付けしたものなどで、さほど複雑な調理を必要とするものではない。

 もちろん、丁寧には作ったし味見もしたから、食べられないほどまずいってことはないと思うけれど。


「すごく嬉しいよ。それに美味しそうだ」


 そう言ってパンを一口食べたロイが「うん、おいしい」と笑ってくれたので、ホッとしてアリシアも笑い返した。


「よかった」


 アリシアもバスケットの中のパンに手を伸ばし、ぱくりと口に含む。

 うん、確かになかなか美味しくできてる。そうそう不味くならないタイプの料理を選んでよかった。


「やっぱり、外で食べるとおいしいよね!」

「そうだね。今日は天気もいいし」

「中庭ってあまり来ないけど、いい場所だよね。この学園って広いし、他にも行ったことない場所とか探検してみたいなぁ」


 なんとなくそんなことを言うと、ロイは「いいね、楽しそう」と返したが、ふと思い出したようにこう言った。


「あ、でも……上級生が使っている校舎の裏が、素行不良の生徒の溜まり場になってるらしいんだ。普通に生活していたら関係ないだろうけど、そっちには近づかないように気をつけて」


 私が「魅了持ち」であることは学園では有名で、ただでさえ知らない生徒から興味本位に絡まれることが稀にあった。上級生の校舎は私たちが普段使う建物から離れているけれど、学園内を歩き回って探検するなら覚えておかなければ。


「わかった、気を付けるね」


 そう答えながら、サンドイッチを食べる彼の横顔をそっと眺めた。手や口を決して汚すことなく食べ進めていくその仕草には、何処か品がある。


「ロイくんって、食べ方が綺麗だよね」


 ふとそんな感想を漏らすと、彼は「え、そう?」と困惑したような反応をみせた。


「自分ではよくわからないけど……うーん。まあ、マナーとかは割と厳しく躾けられたかも」と小さく呟いた。


「そうなんだ。お家が厳しかったり?」

「まあ、そんなとこ」


 アリシアから目を逸らし、今度は大きくパンに齧り付く。

 その様子を見て、この話はもう続けて欲しくなさそうだと察したアリシアは、会話を一度止めて自分も食事を再開することにした。水筒の蓋を開け、ゆっくりと水を喉に流し込む。


 そういえば、と思う。

 ロイからは、自分の実家の話や両親の話をあまり聞いたことがない。話す機会がなかったわけではないはずだ。アリシアは度々両親や兄弟のことを話題にしたが、彼はそうした話を興味深げに聞いたり、笑ってくれたりしながらも、決して自分の話に繋げはしなかった。

 両親と折り合いが悪かったりするのだろうか。それとも私には家のことをあまり知られたくない、とか?

 気にはなるけれど、詮索はできなかった。事情は人それぞれだし、人と仲良くやっていくためには、それぞれの事情に対する相互の配慮が不可欠だと知っているので。



 会話がなくなってしまい、黙々と昼食を終える。

 アリシアが空になったランチボックスを片付けようと手を伸ばすと、ロイはその手を下から包み込むように取り、ほんの少しだけ引き寄せた。

 突然の接触に驚いて顔を上げると、彼はアリシアの手にじっと視線を落としていた。


「指、怪我してるね」

「あ……」


 左手の人差し指に走った一筋の切り傷。そういえば、野菜を切っている時に、誤って指を傷つけてしまったのだった。一応消毒はしたけれど、その後は特に痛くもなかったので忘れていた。


「もしかして、今日のお昼を作るときに切っちゃった?」

「うん、まあ……。でも大したことないよ」

「君が怪我をするんなら、お昼を作ってきてほしいなんて頼むんじゃなかったな」


 するりと指を絡められて、どくりと心臓が跳ねた。思わず反射的に身を引くも離してはもらえず、ぐらりと傾いた体を支えられてる形で逆に接近してしまった。間近で彼と目が合い、そのまま反らせなくなる。触れ合った手から伝わってくる体温を感じて、顔が熱くなった。

 彼はじっと視線を合わせたまま、「大丈夫?」と問いかけてきた。


「……え?」


 あまりの近さに混乱して、上手く言葉の意味が理解できず、聞き返す。


「後ろに倒れるところだったから」

「う、うん! ありがとう……」


 そう答えると、ロイはアリシアの背中を支え起こしてから、すっと離れてくれた。そこで、アリシアはやっと普通に呼吸ができるようになった。


 びっくりした……。


 きっと彼は純粋な親切心でアリシアを助けてくれただけなのだろうけれど、あまりに心臓に悪い距離感だった。多分、あの状態がもう少しだけ続いていたら、頭に血が上りすぎて失神していたんじゃないだろうか。

 呼吸を整えてから彼の方に視線を戻すと、彼はアリシアの指の切り傷を再びじっと見ていた。


「僕が頼んだから君が怪我をしたって考えると心苦しいけど」

「そんな」

「でも、君がそれだけ一生懸命作ってくれたんだと思うと、それはすごく嬉しい。ありがとう」


 そう言って笑いかけた彼に、


「うん、どういたしまして。喜んでもらえてよかった」


 アリシアはそう返し、しばし二人で微笑み合う。

 料理に自信はなかったけれど、頑張った甲斐があった。アリシアは心からそう思った。

 その後はお互いの友人のことや、授業の話など、何気ないお喋りをしながら、和やかな空気の中でこの日の昼休みは過ぎていった。




 それにしても──と、アリシアは思う。

 さっき体を支えてもらった時は、驚いてしまった。あんなふうに至近距離で見つめられたら、焦ったり意識したりしない方が難しい。女子相手なら、相手を勘違いさせてなんらかの期待を持たせてもおかしくないほどの近さだ。


 けれど、思い返せば地元にも、なにかと距離感の近い友達はいた。ある幼馴染の女の子は、アリシアや他の友達に抱きついたり、手を繋いだりすることを好んでいた。だけど、もちろんそれは相手に恋愛感情がある故の行為というわけではなく、単に親しい人とくっつくのが好きだったのだろう。

 ロイも、同じようなタイプなのかもしれない。元々人との距離感が近くて、仲がいい人相手だとそれが過剰になってしまう。きっと、アリシアに特別な好意があるわけではない。

 勘違いしないようにしなくては。アリシアはこっそりと自分を戒めた。

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