黄昏時の招かれざる客
「さあ、お前で最後です。せいぜい遠くへ飛んであの化け物を引きつけてください」
男の手から放たれた鳥が、黒い雲の影を横切って遠ざかって行く。
暗い色をまとった鳥だ。
いや、見る目を持つ者ならばそれが鳥自身の色ではなく、まとわりつく霧めいたものの黒だとわかっただろう。
からみつく黒い影から逃れんとするかのように高く高く羽ばたいた鳥は、雲の向こうから射す陽光をきらりと跳ね返して、山の彼方へ飛び去った。
その方角が自身の進む先とは真逆であったことに、男は薄く笑う。
「良い子ですね。これでしばらくあの化け物の鼻を誤魔化せます」
つぶやいた男には、そのあとを追うようにぞろりと動いた天鬼たちの姿までは見えなかったのだろう。
天鬼の形相をナマリが目にしていたなら、そこに浮かぶ憎悪にも似た表情に背筋を凍らせたかもしれない。
鳥を追うように集まりはじめた暗雲を眺めていた男は、ふと興味を無くしたように鳥の消えた山に背を向けふらりと歩き出す。
男の視線の先には帝都があった。
日暮れを前にして足早に帝都を目指し、あるいは帝都を後にして歩きだす大勢の商人や旅人の群れに紛れた男は、山向こうの民らしい。
色素の薄い肌とひょろりと長い体をしている他は、特筆するところのない商人に見える。
あるいは質素な身なりの旅人か。
けれど、人混みのなかふと立ち止まった男が見せた表情を目にしたものがいたならば、そのどちらでもないと断言しただろう。
無。
賑わう街道を、遠くに見える街並みを、行き交う人々を視界に入れておきながら、男の顔はあまりに無感情であった。
そんな表情を淡い微笑みの下にするりと隠して、男は再び歩き出す。
行き交う牛や馬が男を嫌がるように足を止めたり首を降るのを飼い主たちが不思議がるその合間をぬけて、男は帝都の門をくぐる。
ひと目見ただけでは記憶に残らない凡庸な顔に虚無を浮かべた男は、ふと手にしたトランクケースを持ち上げた。
山向こうの国でよく使われる物入れだ。
長く男と共にあったのだろう、艶を失くした古いトランクケースに耳を寄せ、彼は笑った。
「良い子ですね。そう、あちらの方角ですか」
ささやいた男が顔を向けたのは西。
すでに日は落ち、けれど未だ夜を迎えてはいない空はじわりと赤く焼けている。
不穏さを漂わせる空をみあげて、男はぽつり。
「超常を映す目をこの身に植え込むことができれば、どんなに良かったでしょう。八百万の神がいると言われるこの国ならば、きっと研究試料がそこかしこに見えたでしょうに」
男のつぶやきは、周囲のざわめきにかき消えた。
無数の人々がこぼれ落ちる水のように道路にあふれている。
ある者は家へ、ある者は店へ。
それぞれの意思を持って蠢く人の群れに流されるようにふらりと歩き出し始めた男は、けれど耳に届いた声に足を止めた。
男の後ろを歩いていた人々は迷惑そうにちらりと顔をあげるものの、何を言うでもなくするりと避けて遠ざかっていく。
「天候を操るなど、人の身に許される所業ではありません。それは神の領域! だというのにお上は、帝国の上層部は神の領域に踏み込もうとしている。ならば今こそ我々は行動せねばなりませんっ」
男の耳に飛び込んできたのは道端で演説する男の言葉。
唾を飛ばす壮年の男の額の鉢巻きには『神を信じよ』の文字。
周囲には、同じ文字が描かれた濃い桃色の法被をまとう女性が数人立っている。
ひどく目立つ姿であるが「神々ために!」「愛を示しましょう!」と呼び掛ける声に耳を貸す者はいない。
帝都の人々が神を信じていないということではない。
単に、男たちが私欲のために神の威光を利用していると、知っているのだ。
足を止めるものもないなか、ただひとり、トランクケースを持った男はまっすぐに彼らに向けて歩き出す。
「かみ、を……? 帝国語を読み取ることはむずかしいものです。何と書いてあるのでしょう。教えてはいただけませんか?」
通り過ぎる群集をかき分けて目の前に立った異国の男に、法被を着た女性はたじろいだ。
そこへ腹を揺らしてやってきたのは、額に汗を光らせた壮年の男だ。
「やあやあ、ご興味を持っていただけましたかな!」
「あ、会長さま。こちらの方、法被になんて書いてあるのか知りたいそうなのですが」
女性が控えめに伝えると、会長と呼ばれた男は笑みを深めた。
頬の肉がさらに押し上げられ、ただでさえ細い目が線のようになる。
「ああ! 『神を信じよ』ですよ。ここ帝国では、神とは万物に宿るもの。その神々を信じ敬おうということですな。昨今の帝国人には神々の恩恵で暮らしているという自覚が足りない。我々は神の手のひらで暮らす生き物の一員であるというのに、このごろは天候を操る者を育てる学び舎を作ろう、などと宣う不届きものが現れましてな。そんなことは神の領域に踏み入る恥ずべき行為! そのような者は滅ぶべきだ、というのが我々の考えですな」
重そうな頬肉を揺らしてべらべらと喋る男の言葉に、周囲の女性たちが感激したように目を潤ませている。
トランクケースの男はにっこりと笑みを浮かべて「なるほど」と頷いた。
賛同者を得たと喜ぶ女性たちを背に、会長が喜色を浮かべる。その耳に顔を寄せて男は問う。
「では、あなたがたは天候を人が操るべきではないと?」
「ええ、もちろん!」
会長は自身満々にうなずいた。動作に合わせて肉の詰まった頬と腹が揺れる。
「我々は善なる心を持って神を信じ、神によって生かされる人の営みの環を守る善なる者、環善会でありますからな!」
「環善会、万歳!」
「環善会万歳!」
すかさず女性たちが唱和をし、両腕を高く振り上げるのを見てトランクケースの男はくすりと笑った。
「それはそれは」
さも楽し気な様子の男に、会長は満足気に笑っている。
女性たちも「外の国の方にも賛同していただけるなんて、さすがは会長さまだわ」とはしゃいだ声をあげる。
ひとしきり笑った男は胸の物入れからちいさな紙片、名刺を取り出して会長に差し出した。
「わたくし研究のためにこの地を訪れたのですが、到着早々にあなたのような方と出会えるとは、実に幸運でございます」
「いやあ、はっはっは。……あー、のぎると博士、ですかな?」
名刺に書かれた異国語をたどたどしく読み上げた会長に、博士と呼ばれた男は穏やかな笑みを向けた。
「ノーギル・ルソーと申します。ここより西の山向こうの国にて、ささやかな研究をしております。晴れ男、雨女といった伝承を血統や地域性から調べてしているのですが、あなたさまのようにお知り合いの多いであろう方ならば、そういった者に心当たりがおありではないかと思いまして」
「んん? 晴れ男、なあ……」
「会長さま、会長さま、あの子のことをご紹介してはいかがです? ほらあの、先日もご相談にいらした、轟さんのところのあの子」
法被姿の女性に耳打ちされて、会長は膝を打った。
「おお、おお! あれか、外に出すと雷雨を呼ぶとか言って閉じ込めておるという軟弱な子どもだな」
会長の言葉にノーギルの目がぎらりと輝く。
けれど彼はその欲を一瞬でかき消して、するり、頭を下げて会長にささやいた。
「あなたがたの教義は素晴らしい。しかし凡庸な人々にそのような素晴らしい教義を知らしめるには、力が必要では?」
会長は目を見開く。
金を出そうと声をかけてくる者は多くいた。会長が拒まず受けいれるものだから、会が大きくなるほどにそういった連中は増えていく。
中には力を与えようと言う者もあらわれていた。
非常に魅力的な誘いであったが、そのほとんどを会長は断っていた。
なぜならば、力を持てば世間の目が厳しくなることを会長は知っていたからだ。
けれどそろそろ金に飽きた会長は、力を手に入れてしまおうかと画策していた。
それらがないまぜになった一瞬のためらいをノーギルは拾い上げ、ささやきを重ねる。
「見返りは求めません。いいえ、お渡しする力を扱える者を見つけていただくことがわたくしの望み。わたくしはこの地に知人がおりませんから、あなたがたの人脈を貸していただくことが対価と思っていただければ」
「博士は人脈を、我々は力を得られる、と?」
「はい、互いの望みが噛みあうのではないかと」
ノーギルの言葉で会長の唇は否が応にも吊り上がる。
帝国に籍も縁も持たない外国人ならば、利用していざというときに切り捨てるのも容易だろう、と彼は算段をつける。
力があれば金はもっと手に入りやすくなる。金はいくらあっても良いのだから。
「……神々をたたえる、善なる心を持って」
会のもの同士で交わす言葉を口にしたに、ノーギルがほろりと笑う。
「善なる心を」
返す唇は笑みを刷いているものの、彼の目は笑っていない。
環善会の面々はそのことに気づかず、新たなる会の賛同者を迎えて笑顔で歩き出す。
肥えた男とおかしな法被に身を包んだ女たちに囲まれた異国の男に、通行人たちが送る視線は憐憫か無関心だ。
そんななか、男たちに連れられて歩くノーギルは手にしたトランクケースを引き寄せて、ささやきかける。
「試料探しにぴったりの、本当に良い出会いだ。あなたもそう思いますでしょう?」
答えはない。
ただ、古びたトランクケースの底部がじわりと赤黒く染まるだけ。
いつの間にか日はすっかり落ちていた。
異国の博士を見下ろす空は黒い雲に塗りつぶされて、瞬く星のひとつも見えなかった。