始祖の手を取る
雨はまだ止まない。
ナマリとカイトのふたりだけになった学舎のなかは静かだった。
弱まった雨の音が遠く聞こえるせいで、室内の静寂が余計に耳につく。
なにか話しかけるべきだろうか――ナマリが膝を抱えた快人にちらりと視線を向けた時。
コンコン。
窓の外で軽やかな音が鳴る。
「?」
ナマリは顔を上げ、部屋の窓に目をやった。
雨の夜はまっくらで、庭も見えない。
近寄ってみても暗く濡れた夜に動くものは無い。
「ナマリくん、どうしたの」
「いや、何か音がした気がしたんだが」
気のせいだったみたいだ。そう告げるより早く。
コンコンコン。
今度は確実に音がした。
カイトもまた、視線を音のほうへ向けていることから、ナマリの聞き間違いではないらしい。
ふたりの間ににわかに緊張が走る。
「いまの、ノックだよね?」
「ああ。きらら、来てくれ」
屋敷にいるのはナマリとカイトのふたりだけ。
アベは強力な結界を張り直してから出かけたはずだ。
ならば、窓の外にいるのは誰なのか。
ナマリはタクトを取り出して、自身の天妖を呼び出した。
ふよん、と宙に浮かクラゲが肩にとまる。
カイトもまた震える手をタクトに伸ばしたが、唇を噛んで手をだらりと落とす。
「アベ先生の可能性は……」
「先生なら壁なんて叩かずに玄関から入ってくるだろう。ムギさんなら勝手に入り込むはず」
「だよね」
アベやその関係者ならば玄関から入ってくるだろう。
ムギが双子だけを家に帰すはずもない。
わかりきってはいても、カイトは他の可能性を探したくてたまらないのだろう。
「じゃあ、誰か迷子のひとだったり。ほら、どこかの鳥居とこの屋敷がうっかりつながってしまったとか、あるかもしれないだろう?」
迷い込んだ一般人の可能性はないだろうか。
そう訴えるカイトに、ナマリはゆるゆると首を横に振る。
「カイトも見ただろう、この敷地は先生が結界を張り直したばっかりだ。今はもう鳥居を介しても通れないと言っていた。万一、迷い込むことがあったとしたらアベ先生よりもはるかに強い力を持ってる相手しかありえない」
ごくり、唾を呑む音をたてたのはカイトか、ナマリの喉か。
ひりつく空気をかきわけるようにして、ナマリは窓のそばに寄る。
クラゲのきららが守るように広げたその傘に隠れて、暗闇に向けてそっと呼びかけた。
「……誰か、いるのか?」
「わしじゃ」
間髪入れず返って来た声にナマリはぱちりと瞬いた。
聞き覚えのある声であった。
アベの身内ではなく、かつアベよりはるかに強い力を持った相手の声だ。
彼女ならば強固な結界を潜り抜けたとしても何ら不思議ではない、とナマリの意識が訴える。
窓を開け、顔を突き出すと屋敷の窓のすぐ下に立っていたのは思い描いた通りの姿。
「オリジン!」
ほっとして叫んだのは、吸血鬼の始祖の名前。
どおりで誰の姿も見えないわけだ、とナマリは納得した。
小柄な彼女の頭は、窓の桟のその下にある。
単純に、窓から顔を出すには背が足りないのだ。
「そうじゃ。ところで、ほんの少しの間にこの辺りの守りがずいぶんと堅牢になっておるな。やはりあの男が来たのであろう」
鼻をひくつかせたオリジンは顔をしかめる。そこに浮かぶ嫌悪は夜目にもわかるほどだ。
ノーギルと知り合いなのか、と瞬いたナマリのそばに恐る恐るカイトが寄ってくる。
「ナマリくん、彼女は……?」
「ああ、オリジンだ。アベ先生と知り合いらしくてな、すごく強い吸血鬼の始祖らしいんだけど」
ナマリの説明を最後まで聞かず、カイトは窓に背を向け駆け出した。
「お、おいカイト?」
驚いたナマリが追いかけた先では、カイトが玄関扉にかけられた鍵を外そうとガチャガチャ音を鳴らしていた。
一見するとただの内鍵だが、「敷地の結界と学舎自体への結界、二重にかけておきますね」と安アベが念入りに術をかけた鍵は、開く気配もない。
「どうしたんだ、カイト。先生が封印したからその扉は開けられないって」
説明の場にいたはずの相手の奇行にナマリは戸惑うが、カイトは一心不乱に鍵を開けようと足掻き続けている。
「強いんでしょう!? 強い人がいるなら、いっしょに居てもらおうよ! だっていつまたあの男が来るかわからない。鉛くんのクラゲじゃどこまで守れるかわからないじゃないか!」
彼を止めようと伸ばした腕を悲痛な叫び声と共に振り払われてやっと、ナマリは気が付いた。
カイトもまたアベと同行すべきだったのだ。
ルネの能力が雨を降らせるために彼女の不安定さばかりが目についていたが、カイトもまたひどく傷ついていた。
晴れ男の力が発揮されずに大雨が降っていた時点で気づくべきだったのだ。
もしかしてカイトはタクトを使えなくなっている? いや、天妖を呼び出すのが怖いのか――見ず知らずの人外にすがろうとするくらいには限界を迎えていたカイトの心中を思って、ナマリは言葉に詰まる。
重苦しい沈黙が落ちたのは一瞬。
「鍵など開けずとも一言で良いのじゃ。わしの入室を『許す』と言ってくれればよい」
「許す……?」
よくわからないながらもナマリはオリジンの言う通りにつぶやいた。
すると。
「邪魔するぞ」
声とともにオリジンが玄関にするりと入ってくる。
扉は閉じたまま。それどころか、アベのかけた鍵が解かれた形跡すらない。
人が入れるはずはない。
だというのにどうしてか室内に現れた当の彼女は、何事もなかったかのようにたたずんでいる。
突然の不可思議に、錯乱に近い状態にあったカイトもぽかんとオリジンを見つめていた。
「吸血鬼はの、初めての家には招かれぬと入れんのじゃ」
驚く少年たちを眺めたオリジンは満足気に目を細める。
場違いな彼女の表情にあてられて、ナマリは心が凪いでいくのを感じていた。
「不思議な決まりだな」
「何事も、自由が過ぎればうまくゆかん。ゆえにわしが生じたおりに設けた決まり事じゃ。わしが定めたからには、わしが守らねばこの身も定まらんからのう」
答える彼女はどこか遠くを見ている。
遠い記憶を眺めるような表情をオリジンくるりと切り替え、鋭い眼光が少年たちを射抜く。
「さて。手土産もなしに来て申し訳ないが、聞かせてほしい。ここに気色の悪い男が来たな?」
「気色悪い……ノーギルとかいう男なら、来た。先生が結界を張り直したのはそのせいだ。けど、オリジンは普通に入ってきたな?」
「ほう、アベの小僧がのう。悪くない、強固な守りの意思が込められておるわ。とは言え、夜の闇を取りこぼさぬ鳥かごなど作れるわけもなし、わしを防げるものではないの」
ふふん、と得意げに腕を組んだオリジンだったが、すぐにその表情を曇らせる。
「やはり、この不快な臭いは奴じゃな。奴の手にある力を奪い返してやったと思うたが、己の自由になる力を求めてそなたらの根城を襲うとは……すまんな少年」
オリジンの視線と声はカイトに向けられた。
「わしが奴を仕留め損ねたせいじゃ。思い出の残渣に惑わされおめおめと逃げられてしもうた」
「そんな、俺は……」
カイトは反論を口にしようとしたのか、何かを言いかけて押し黙る。
暗く沈んだその顔を見て、オリジンはことさら呆れたような声をあげた。
「まったく、情けないことよな。己の力で戦う度胸もないような者を相手に良いようにしてやられるとは。じゃが、次は逃さん。必ず捕えて息の根を止めてくれる。いいや、それでは生ぬるい、闇の底へ引きずり込んで、この世の闇が潰えるそのときまで出来る限りの苦痛を与えてやろうか」
情けない、と肩をすくめながら言い、閉じた目を開いたオリジンの瞳孔が怪しく光る。
そこに宿る怒気の重さにナマリは思わず息を呑んだ。
ナマリの抱いた根源的な感情に気付いたのか、オリジンがふわりと笑い、重苦しさはあっけなく解ける。
「そのためにも情報が必要じゃ。悪知恵ばかり働く奴での、わしの力でもってしても捕えられぬよう小細工をしておるのよ。まったく腹立たしいこと。ゆえに奴に関することなら何でも構わん、聞かせてくれ」
「なんでもと言っても、先生も居場所はつかめていないようだし。俺たちはここから出られないから調べようもないしな……あ」
「なんじゃ、何か思い出したか?」
ずい、と身を乗り出したオリジンに迫られてナマリは後ずさりつつも記憶を探る。
「ノーギルに捕まってた学生がいたんだ。雷を操る子なんだけど今は入院してるから、話を聞くのも難しいかもしれないな……」
言ってはみたもののあてにはできないだろう、とナマリの声は尻すぼみ。
けれどオリジンは「ふうむ」とあごに手をあてて思案する。
「ナマリよ、何かその生徒の私物は無いか?」
「無いな。その子は入学前に捕まったらしくて、まともに会ったことも無ければ今日もアベ先生がすぐ病院に運んだから触った物もないし……せいぜい俺が手を握ったくらいか」
請われてもナマリに差し出せるものはない。せめてもと伝えたせいいっぱいの情報に、オリジンは目を輝かせた。
「おお、でかしたぞナマリよ! 手を出してみい。これで奴が追える!」
「手を? いやでも紫電さんの手を握ったあとに手を洗ってしまってるから、格別匂いとかは残ってないと思うんだが」
「構わん、わしが追うのは人の鼻で拾える匂いとは違うからの」
言って、彼女はナマリの右手を捕まえる。
細い指を鉛の手にひたひたと這わせ、鼻を寄せた。
すん、すんと鼻をひくつかせる動きはどう見ても匂いを嗅いでいる。美少女がまぶたを伏せて、異性の手のひらの匂いを嗅ぐという光景はなかなか見るものではない。
形の良い鼻が触れるか触れないかのところを移動する熱を感じて、ナマリはどうしてか罪悪感に襲われた。
「ん……んぅ……見つけた」
にたり、笑ったオリジンは目を細め瞬きのうちに窓枠へ。
開け放したままであった窓の外を臨む彼女の背中に広がったのは黒い翼。
オリジンが窓枠にかけた脚をぐっとたわませ、飛び立とうとしたその時。
「「待って!」」
呼び止める声はふたりぶん。
ナマリはカイトの横顔を見た。自分以上の必死さがこもった彼の顔にナマリは思わず口をつぐむ。
「行かないで! 朝まで……ううん、先生が戻って来るまでここに居てよ!」
窓の下に駆け寄ったカイトは、自身よりも小柄な少女の脚にすがりつく。
「怖いんだ。夜は怖い。どこからあの男が来るかわからないし、もしもヤタが居たとしても夜の闇は晴らせない。だったらせめて、夜が明けるまであなたがそばで!」
「すまんな」
しがみついた少年を振り払うことはせず見下ろしていたオリジンは、けれどカイトの言葉を遮って告げる。
「わしには成さねばならぬことがある。若人の命を守るにやぶさかではないが、わしが居らずともここは安全じゃ」
「でも! あなたは入って来れた。だったら他の悪意を持つ誰かだってっ」
ちゅ、とオリジンがカイトの額にくちづけた。
その途端、はたと止んだ悲痛な叫びにナマリは驚いた。
黙り込んだカイトを見下ろすオリジンの目には慈愛がにじんでいた。
「すまんの。今は子守りをしている時間が惜しい。代わりにもならんが、夜の化身が夢を見せてやろう。辛いことはない、悲しいことも恐ろしいことも何も起こらない。ただ優しく抱き止める闇に身をゆだねて、深く深く眠りなさい」
優しい声は夜の闇のようにじわりと胸に染み込んでくる。
そばで聞いているナマリまでも誘う声に身を任せ、眠りのなかにとろけていきそうな声だった。
その声の導きを真正面で受け止めたカイトの身体からふうっと力が抜ける。
ナマリは慌てて駆け寄り、傾いだカイトを抱きとめた。
「寝床に運んでやるがいい。朝日を浴びるまでは起きぬようにしておいた。悪い夢も近寄らぬよう力を込めたからの、ゆっくりと眠れるじゃろう」
言い置いて、闇に溶けて行こうとするオリジンの背中にナマリは呼びかける。
「なあオリジン、俺を連れていってくれ」
「……足手まといじゃ」
振り向きもせず、短く切り捨てられてもナマリはめげない。
「それはわかってる。闘いの邪魔はしない、ただあいつに聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
思わずといった様子で振り向いたオリジンに、ナマリは頷いた。
「理由が知りたい。あの男、ノーギルがシデンさんを攫った理由。俺たちを狙っている理由」
「ろくなものではないぞ。聞いたところでそなたのような真っ当な人間には、到底納得できん理屈をあやつは持っておる。そなたよりずいぶんと長く生きてきたわしにも理解のできぬ理屈じゃ。あれは人として欠陥があるのじゃ」
「それでもいい」
ナマリの答えに迷いは無かった。
「それでもいいから、知っておきたい。どうして平気でひどいことができるのか」
「…………聞いて、後悔しても遅いぞ」
「知る機会を永遠に失って後悔するよりはましだろ」
すべてを見透かすような金の瞳を見つめ返す、ナマリの黒い瞳はあまりにも真っ直ぐだ。
怯えも、誤魔化しも何もないただただ深い闇のようなその瞳の奥に、星にも似た瞬きを見てオリジンは深く、深くため息を吐く。
「はあああぁ……本当に後悔しても慰めてやらんぞ?」
「ありがとう、オリジン」
にこ、と笑って返すナマリを見るものがいたならば、ナマリの豪胆さに目を瞠っただろう。
アベがいたならば「神レベルの化け物を相手にこの振る舞い……ただ者じゃ無いですね」とでも言ったはずだ。乾いた笑いも付いたかもしれない。シキは青ざめ震えただろう。
大それたことをしているつもりのないナマリは、いつもの調子で続ける。
「あの男に対して死ねば良いとまではまだ思えないけど、オリジンが許せないと思うほどのことをしたのも本当なんだろ。だからこそ話を聞いて、それでもオリジンの答えが最善なら、俺は止めない」
「むぅ。信頼がくすぐったいのう」
口を尖らせたオリジンと笑いあったナマリは、カイトを自分の部屋に運んで寝床に寝かせた。
ぐっすりと眠っているのだろう。半ば引きずる形で運ぶ間も、ベッドにやや乱暴に下ろしても彼は穏やかな寝顔を崩さない。
「カイト、おやすみ」
規則正しい寝息を邪魔しないよう、ナマリは静かに部屋を出た。
足音を殺して向かった先で、窓枠に腰掛けたオリジンが迎えてくれる。
「さて、そろそろ行こうかの」
「ああ。頼む」
オリジンと手を繋いだナマリの体がふわりと浮かぶ。
肩に相棒のクラゲを乗せて、懐にはタクトを忍ばせて、ナマリは学舎を後にした。