始祖
アベの屋敷の前では、アベがそわそわと行ったり来たり。
その肩には、不機嫌に眉を寄せた美妖狐のムギがしなだれかかっている。
「あなたさまぁ、あんなかび臭い太古の遺物となんて会わないでくださいまし」
「ははは、そうはいきませんよ。古くからあるものというのはそれだけ力もあるのです。今回はその力をあてにしたいわけですから」
アベがなだめるように言った時、ふたりの上に声が降る。
「かび臭いとはまた言いたい放題じゃのう」
「ぎゃうんッ!」
格上相手の気配をとらえて、ムギが獣じみた悲鳴をあげた。
悲鳴ついでに人化が解けて、巨大な狐の本性が現れている。
ムギは狐の手で長い鼻先を押さえるけれど、時すでに遅し。
悪口じみた言葉はすべて相手の耳に入っている。
鳥居からではなく、空を飛んでやってきたオリジンに気づけなかったのだろう。
空を飛んできたオリジンに抱えられていたナマリは、少女の腕から飛び降りた。
そうして空を振り仰げば、オリジンが宙で羽根をしまい、地に足をつけないままナマリの腕に飛び込んでくる。
よほど抱っこが気に入ったらしい。
もぞもぞと座り心地を整え、手のなかに握り込んだシキの形代をほいと放つ。
ひらり、小麦色の毛が結びつけられた白い紙が舞ったのは一瞬。
瞬きの間に紙はシキへと姿を変えて、身軽に地に足をつけていた。
「そこな狐の怪しの物とて、人の生から見ればじゅうぶん年寄りじゃろうて」
オリジンは軽く言いながらも、半目でじとりとアベとムギとを見やる。
オリジンの視界に入っていないシキまでも獣の耳をぺったりと伏せさせて震えているのは、不穏な気配に当てられたのだろう。
ムギは毛を逆立て、アベは「あら~」と口元を引き攣らせている。
凍りつきそうな場の雰囲気を知りながら、ナマリはあえて平常通りに声を上げた。
「俺から見ればムギさんはきれいな女性で、オリジンは美人な子だよ。シキはかわいい」
さらりと告げた途端、時が止まったかのように静まり返る。
「ひょえ……!」
妙な声をもらしたのはシキ。顔が真っ赤だ。
その顔を見て、ナマリもいまさら気恥しくなる。
「んんっ」
咳払いをしたのはアベ。
手のひらで隠した口元はこっそり笑っている。
「……ふむ」
神妙にうなずいたオリジンは、自身を抱えるナマリの首に腕を回し額を合わせた。
「そなた、凡庸な見た目をしておる割に男前じゃのう。惚れてしまいそうじゃ」
「そう? ありがとう」
シキを相手に頬を赤らめたナマリだったが、始祖の浮かべた蠱惑的な笑みを受けても、さらりと笑顔を返すのみ。
相手の強大さを知るその場の面々は絶句するばかりだが、ナマリにとってはオリジンの言葉は幼児の「お兄ちゃん好きー!」と大差ない。
少し気に入った相手にすぐ好意を伝えるのは幼児、とくに女児によくあること。
ナマリもカスミや村にいた同年代の女児に結婚しようと言われた記憶は数えきれないほどあった。
そんな、ある意味で百戦錬磨のナマリの反応に、アベがこらえきれずに噴き出した。
「しっ、始祖のお誘いを『ありがとう』って! 世界中の権力者が膝をついて請うても得られなかったものを『ありがとう』の一言で蹴っ飛ばすって!」
おかしくてたまらない、とばかりにアベは腹を抱えて笑う。
笑い転げる主にシキは「ご主人……」と引き気味だ。
ムギはもうあきらめたかのように、獣の姿でそっぽを向いている。
そして言葉を軽く流されたオリジン本人はと言えば、不機嫌になるでもなく、にかっと笑ってみせる。
「良い良い。そのうちわしのかっこ良いところを見せて、ナマリのほうから求婚したくなるよう仕向けるのもまた一興」
機嫌よく笑うオリジンといっしょになって笑っていたアベは、ふと思い出したように笑いをおさめて首をかしげる。
「ところでナマリくん、なぜ君がここに? 腕のなかの御大層な御方のこともですけど、他のふたりはどうしたんです」
咎める響きはない。
純粋な疑問として投げかけられたアベの言葉に、ナマリは居心地の悪さを覚えて腕のなかのオリジンを抱えなおす。
「ふたりで天候を操る勝負をはじめたので、ちょっと散策に出たんです。俺がいたところで何ができるわけでもなし……」
言い訳めいて尻すぼみになった声に、眉を寄せたのはオリジンだった。
抱える腕の中からひょいと飛び降りた彼女は、ナマリの頭に乗る小さなクラゲを見上げる。
「む? そなたの天妖は飾りではなかろう?」
「飾りじゃないけど、きららは空を晴れさせることも雨を降らすこともできない。雷獣の生み出した雷を防いではくれたけど、戦うことはでないだろうから」
ナマリとて、懐いてくれているきららはかわいい。
けれど現状では気象操作において役立たずの自覚があるだけに、擁護の言葉は控えめだ。
己の立場は理解しているとばかりにまぶたを伏せるナマリを前に、オリジンは腕を組み目を細めた。
「ナマリよ、そなた気象について何を学んだ」
「え、っと。まだ、あれこれほんの導入部を学んでいるところだけれど」
「導入部か。それはつまり何も学ばないまま、実地に向かわせたと」
呆れたオリジンの視線の先にはアベがいる。
「帝国の者は情報を詰め込むことをこそ好むと思うておったが。そなたの師はずいぶんとまあ、現場主義であることよ」
「あは。それはその、ナマリくんならおいおい自分で自身の力について理解していくだろうから良いかなあ、なんて思ってた次第でして」
九尾の妖狐でさえ尾を巻く相手ににらまれながらも、アベは弁明を口にする。
けれどオリジンはもう良いとばかりに視線をはずし、ナマリの横に立つと頭上を指さした。
「そなた、あの雲が見えるか」
「ああ、見えるけど」
晴れた空のなか、ナマリたちの頭上にはやや濃い雲が広がっている。
けれどそれだけだ。
雨が降るほどの雲にも見えず、かと言ってナマリが見上げていたところで雲が流れ、輝かしい晴れ空に変わっていくわけでもない。
ただ、広い空のなかでナマリたちの頭上にだけやんわりと広がっている。
「天候というのは晴れ、雨、雷の他にもあろう」
挙げてみい、と促す視線にナマリは空を見上げた。
「晴れ、雨、雷、それから雪。嵐に台風、濃霧に……曇り?」
つぶやいたナマリの頭上で、きららが触手を天に伸ばす。
左右に広げた触手の動きに沿って、固まっていた雲が粘土のように広げられていく。
ひと塊だった雲をふたつに分けたかと思えば、きららは傘をぽふぽふと収縮させはじめる。
その動きと共に小さかった雲の塊が、みるみるうちに膨れ上がった。
きららが雲を操れることはわかっている。
けれど増えても減っても雲は雲。
空の片隅にちいさくまとめてしまえば晴れさせることもできるだろうけれど、カイトがするようにさっと陽光が射すわけではない。
雲を生み出せばやがて雨が降るのかもしれないが、ルネのように泣けば降るわけでも「リュウちゃんお願い!」のひと言で雨の加減ができるわけでもないだろう。
能力が判明して、けれど結局何も変わらない。
そんなナマリの諦観を知ってか知らずか、オリジンはナマリを見上げて問いかける。
「さて、陽の光を遮るのは何かわかるか?」
「雲だな」
単純だ。ニビやカスミにだってわかる答え。
「ならば、雨はどこから降ってくる?」
「雲だ」
続く質問も考えるまでもなくナマリは答える。
ルネが降らせる雨粒が、重く垂れこめる雲から落ちてくるのを見たのだから間違いない。
「では、その雲はどこからやってくる?」
「雲がどこから……?」
度重なる問いに、ナマリは口ごもる。
ニビやカスミが無邪気に問いかけるような問いは簡単なようでいて、言葉にして答えるのは難しい。
ナマリの視線が空の雲から山の端に移り、風の吹きつけてくる方へと動くのを見てオリジンはにいっと笑う。
「さて、素直でかわいいナマリにはもうすこし足がかりをやろう」
とん、とナマリの胸を叩いて彼女は意識を自分に向けさせる。
「雨を呼ぶ者はどのようにして雨を降らせておった? 陽を招く者はどのようにして光をもたらしておった? そのとき、風は、雲はどう動いておった? 疑問を持て。よく考えろ。答えがわかればそなたは無能などではなかろうよ」
言い聞かせるように伝える金の瞳に嘘はない。
慰めもなければ、誤魔化しもない真っすぐな視線は、うつむきそうになるナマリを捉えて離さない。
「そなたは答えを見ておるはずじゃ」
言うだけ言って、オリジンは軽く地を蹴った。
途端、小柄な少女の背中から黒い翼がひらりと飛び出し、彼女を空の住人へと変えてしまう。
「あっ、ちょっと始祖さま! ご用件はなんです!? その辺はっきりさせとかないと、偉い人から怒られちゃうんですけど!」
慌ててアベが声をあげても、すでにその身は空の高み。
「わしはわしの欲しい情報を探しておるだけじゃ。安心せい、ナマリがおるうちはそなたらと敵対することは無いと約束してやろう」
ふふんと笑ったオリジンは、ナマリにひらりと手を振った。
「ではな、次に会うときまで精進せい」
「ありがとう、オリジン。気をつけて!」
何かが掴めそうだ――そのきっかけをくれたオリジンに感謝と、心配を。
ナマリにとっては当然の見送りの言葉に、吸血鬼の始祖と呼ばれる少女は目を見開き、くすぐったそうに笑うとひらりと舞い降りてきた。
「本気で惚れたら、責任を取ってもらうぞ?」
笑いまじりの声と共に、ナマリの頬をくすぐったのはオリジンの吐息。
「え?」とナマリが瞬いたときには、風切り音を残して彼女の姿は掻き消えていた。
「……異国の女の子は積極的だな」
驚きと共に感じたのは、感心。
ナマリは頬にのこるやわらかな感触を手で抑え、彼女の消えた空をぼんやりと見上げるのだった。
始祖の行動に誰もが唖然とするなか、一番に動き出したのはシキだった。
懐から手拭いを取り出したシキは、さくさくと歩いてナマリの前へ。
無言で始祖が口付けたナマリの頬をぬぐいはじめる。
「あの、シキ?」
「妙な匂いをつけていては、屋敷内の妖たちが驚くかもしれませんからね。それだけっすから。他意は無いっすから」
他意は無い、と言いつつもシキの手にはけっこうな力が込められていた。
ぐいぐいと遠慮なく拭われてちょっと痛いくらいだったが、それ以上にナマリが気になったのはシキの真顔。
だいたいにおいて楽し気に、笑うときには目を猫の細める彼女の真顔を目にしたナマリは、これは抵抗しないほうがいいやつだ、と察しておとなしく頬を差し出しておいた。
すると、いつの間にか硬直から回復したアベがにまにまと目を細める。
「おやおや、シキは新しい感情を覚えましたね? それはね『嫉妬』というのですよ」
「他意はないんす。放っておいてくださいっす」
ぷい、とそっぽを向くシキの動作はムギに似ていたが、妖艶さが勝るムギよりもシキはかわいらしい。
そう感じたナマリは、弟妹を誉めるノリで口を開いていた。
「シキはやさしいな。ありがとう」
「んむ!」
ぼふ、とシキの尾がふくらんだ。
顔を拭う手の力が弱まったすきに、ナマリはアベに向き直る。
「先生、学び舎で調べたいことができました。カイトたちと別行動になるけど、行っても良いですか」
「はいはい。もちろんですよ~。シキ、案内してあげなさい」
「はいっす。行きましょう、ナマリさん!」
アベとムギの見送りを受け、ナマリはシキを伴って学び舎へと足を向けた。