気象指揮官への勧誘
じっとりと前進んを包む冷たさに体が震える。
寒さを知覚してナマリは目を覚ました。
「あ、起きたっすね!」
ぴょこんと視界に飛び込んできたのは、橙色の髪と同色の大きなとがり耳を生やした少女。
夕焼けを背負った少女に見下ろされながら、ナマリはゆっくりとまばたきをした。
誰だ、とたずねるより前に開いてが口を開く。
「自分はシキって言います! やっばいことが起きる予報だってことで帝都から来た使いの者っす」
「帝都……」
聞いたことがあった。
村の山すそを川にそってずっとずっと下っていくと、大きな都があるという。
村の周囲にある山がすっぽり丸ごと入ってしまうような大きな都には、山の木々のように家々が建ち並び、夏にはびこるつる草のように道が張り巡らされているという。
そこは村じゅうでとれた米の粒をぜんぶ集めても足りないほどたくさんの人が暮らす、ずいぶんと賑やかな場所らしい。
きれいなものもうまいものも、国じゅうからなんだって集まる場所さ。
そう語ったのは、村の誰だったか。
「そうだ、村! みんなは、ちびたちはッ」
寝起きで鈍っていた頭に惨劇が蘇る。
叫ぶように言って飛び起きようとしたナマリの額をぐっと押さえこんだのは、シキだった。
驚いたナマリが動きを止めたのを確認して、シキは額を抑えていた指を離して自分の鼻先に立てる。
「しー、っす。ちいちゃい子たちが起きてしまうんす」
「ニビ、カスミ」
「三人そろって運ぶのは、さすがにここまでが限界だったっす」
ナマリの左右の膝に、それぞれ頭を預けて眠る幼子たち。
すよすよと健やかな寝息をたてるふたりは、小さな手で兄の服の裾をしっかりと握り込んでいる。
その手を上から握り込むと、確かな暖かさが染みた。
見回せば、あたりに広がるのはススキで覆われたなだらかな丘。
慣れ親しんだ村は遠く闇に呑まれはじめた山の向こうにあるのだろうか。
丘の合間を流れる川が見える。
あの川を泥色に染める濁流と共に、自分たちも流されてきたのだろうか。
シキがひとりで丘のうえまで、引っ張り上げてくれたのか。
生き残ったことが信じられないまま、ナマリはつぶやく。
「ちゃんと、生きてる。生き残れたのか、あの濁流から……」
「そうっす」
頷いて、シキは地面にひざをつきナマリを抱きしめた。
「生き残ってくれてありがとうっす」
「な、にを……」
戸惑いは、見知らぬ少女に抱きしめられたせいだけではなかった。
何もできないまま濁流にのまれた自分が生き残ってしまったことへの、罪悪感があったから。
けれどシキは戸惑いごとナマリを抱きしめる。
「間に合わなかったこと、すまなく思うっす。自分がもっと早く辿りついていれば、避難を促すこともできたかもしれないのに……だから、あなたがただけでも生き残ってくれて本当に、本当に良かった」
シキがそう言うものだから、ナマリはわかってしまった。
生き残ったのがナマリと幼い弟妹の三人だけだということ。
村の人々は誰も、誰ひとりとして生き残ってはいないのだということが。
ぐ、と体が強張ったのが伝わったのだろう。
抱きしめてくるシキの腕に力がこめられる。
あったかい。
シキの温もりが、彼女の言葉に込められた温かな気持ちと、触れあった彼女の体から伝わってくる温もりとがナマリにじわじわと伝わってくる。
そして、冷えて固くなったナマリの心を溶かしていく。
理不尽な天災を憎むことで守っていた心のやわらかい部分がむき出しになっていくのが、自分でわかった。
ナマリの頬をつう、と熱いものが流れていく。
涙だと、シキにもわかっただろう。
こぼれた雫は彼女の胸元を次々に濡らしているから。
そうとわかっていながら涙を止められないナマリの頭を、シキが抱きしめたまま優しくなでる。
「生きていてくれて本当にありがとうっす。よく生きててくれたっす」
シキはナマリのなかにある罪悪感に気づいているのか。生き残ったことを繰り返し褒める。
けれども目の前で土砂に呑まれた父の姿を忘れることなどできはしない。
天災への憎しみも一度は薄れたけれど、消え去りはしない。
あの時、あの天鬼たちの群れが村へやって来なければ。不審な獣が天鬼を引きつれてやってこなければ……。
「っくし!」
募る恨み事は、自分の口から出たくしゃみで吹き飛んだ。
「ありゃ、冷えてきちゃったんすね。ちいちゃい子たちが起きちゃうからと思って、着替えさせられなかったもんっすから」
シキに言われて見下ろせば、なるほどナマリの全身はぐっしょりと濡れている。
目で濡れていることを認めて初めて、ナマリは自分が冷え切っていることに気が付いた。
「今から最寄りの村を目指しても、日暮れには間に合わないっすね」
ひょいと立ち上がったシキが空を見上げる。
夕焼けが刻一刻と色濃くなる空は、端のほうから藍色に呑まれていく。夜が迫っているのだ。
途方にくれた気持ちで見上げた空に天鬼の姿は見つけられない。
さっきは透けた体が折り重なって黒い渦のようになっていたというのに。
「天鬼、見当たらないな……」
「あ、やっぱりお兄さんは見える人でしたか!」
こぼれたつぶやきを拾って、周囲を見回していたシキが嬉しそうに振り向いた。
「俺はナマリだ。それよりも、やっぱり?」
同年代に見える彼女からのお兄さん呼びよりも、ナマリが気にかかったのは彼女の言葉。
一体何をもって「やっぱり」と言ったのか。首をかしげて問えば、ナマリの足元の地面を靴先で掘りながら彼女が答える。
「ナマリさん。ナマリさんっすね。うーんと、天鬼が動くと天気も変わるじゃないっすか。普通の人は雲の流れを見たり色を見てようやく『あ、空が荒れるぞ』とか『今日は晴れそう』なんてわかるんすけど」
言葉を切ったシキは、にっかりと笑う。
「まずは、火を熾しましょ。今夜は野宿っす!」
***
延焼を防ぐため丸く土を剥きだしにした地面の真ん中に、シキは拾ってきた枯れ草を置き、胸元から火打石を取り出す。
カチ、カチ、カチ。
「今回の悪天候は、あんまりにも急激にやってきたっすから。雲を見てからじゃ間に合わないと思ったんす。自分も予報を聞いて来たっていうのに、駆けつけるのが遅かったっすから……」
しょぼん、と大きな獣耳をしょげさせたシキは、気を取り直したように顔をあげる。
「だから、ナマリさんたちが助かったのは三人のうちどなたかが天鬼を見る目を持ってるんじゃないかな、って!」
枯草の上で火の粉がぼう、と踊る。
ちりりと走った赤い火はシキが差し込んだ枝へと渡り、瞬く間に大きく育ってぱちぱちと音を立て始めた。
小さくとも明かりがともり、闇が払われたことでどうしてかほっとする。
シキが差し出した乾いた着物に着替えたせいもあるのだろうか。
まだ生まれたばかりの小さい炎を育てようと、拾ってきた枯れ枝を加えるシキの横顔を眺めながら、ナマリはぼんやりと思い出していた。
「ああ……そうだ。朝は天鬼もほとんどいなくて。ほんのひとつふたつ見えたやつも穏やかな顔をして通り過ぎていくから、今日は天気が良いだろうなって思ったんだ。実際、おだやかな天気で。なのに、昼過ぎに空が急に真っ黒になるほどの天鬼が現れて。見たこともないくらい荒れ狂ったそいつらが雷雲を呼び起こして」
「他には? 天鬼の他に、何か怪しいものを見なかったっすか?」
「天鬼のほか……」
問われて、ナマリは記憶をなぞっていく。
「おびただしい数の天鬼、見たこともないほど荒んだ顔をしてて、それで……ああ、そいつらの先頭に獣がいた」
「獣っすか?」
「ああ。黒い、四つ脚の狼だろうか。よくは見えないかった。ただ、嫌な感じのする獣だった。まるでそいつが天鬼たちを引きつれているかのように、村の川上から川下へ向かって駆け抜けていって」
あの獣はどうなったのか。天鬼の群れに呑まれたのだったか。
思い出そうとするけれど、ナマリの記憶には無かった。
対岸に父を見つけて、獣のことを忘れていたから。
「嫌な感じのする獣、っすか……」
シキには何か思い当たるところがあるのか。明々と燃える炎を見下ろしながら、難しい顔をしている。
「ナマリさん、その獣とか天鬼を見たときなんか思いましたか?」
「なんか?」
問いかけが漠然とし過ぎていて、意図がつかめない。
「えっと、嫌な感じのほかに怖いとか。あっち行けー、みたいなことっす」
「獣に、というか天鬼の群れに向かってかき消えてしまえ、とは叫んだな……」
「それっす!」
我ながら愚かなことだ、とためらいがちに話したナマリに対して、シキはなぜか顔を輝かせた。
大声に驚いたのか、膝で眠る幼児たちがむずかるように身動ぐその背を撫でてなだめる。
ふたりの寝息が落ち着いたのを見計らって顔をあげ、自分の口を両手でふさぐシキを視線でうながした。
「……黒暗が村の真上に来たとき、自分は見たんす」
おさえた声でシキが話しはじめる。
「とんでもない数の天鬼たちが突然、散り散りに去っていくのを。あれがナマリさんによるものだとしたら……」
うつむいていたシキは不意に顔をあげ、ナマリの手を握った。
「ナマリさん! 気象指揮官にならないっすか!」
「気象……?」
「はいっす! ご存知ないのも無理はないっすね。つい最近、ようやく名称が決まったんですから」
「最近? 名称?」
シキはさっきから何を言っているのか。
さっぱりわからず首をかしげるばかりのナマリに気づいたのだろう。シキが「ううーん」と唸りながら口を開く。
「ええっと、どこから話すといいっすかね。ナマリさんは晴れ男や雨女って聞いたことあるっすか?」
「ああ」
それならば覚えがあった。
「ずいぶん前、俺が幼いころに村に居た年寄りに晴れ男と呼ばれているじいさんがいた」
遠い記憶だが確かに覚えている。
晴れ男と呼ばれる老人の姿を見ると、ゆるゆると雨雲を呼び集めていた天鬼たちが眩しい物でも見たかのようにそそくさと去っていくのだ。
それと共に雨雲も掻き消えて、あとに残るのは穏やかな晴れ空。
さすがに暴風雨のときに老人が外へ出ても晴れわたることは無かったけれど、多少の雨なら追い払ってしまうその様を不思議に思って眺めたものだ。
「そういう天鬼に影響を与える人のなかから特に力の強い方を集めてですね、気象を操る力を持つ者。すなわち気象指揮官を育てようということで、このたび帝都に学び舎が開かることとなったんっす」
「そうか」
ナマリの返事はひどく簡潔。
なぜならば帝都に用はないからだ。
それよりも明日から双子を抱えてどうやって暮らしていけばよいものかについて、意識をやっていた。
「学び舎は能力さえあれば誰にでも開かれてるっす」
「素晴らしいことだな」
「大事な生徒たちを守るため、全寮制っす」
「大層なことだ」
「在学中の衣食住は国が保証するっす」
「衣食住の保証?」
シキから貸し与えられた着物は、質素ながらもしっかりとした作りをしている。
幼い弟妹の体に合うものはさすがにすぐには出てこない、と大きな着物で包むようにして寝ているけれど。それだって生地の肌触りが良く、村の誰が着ていたものより上質だとわかる。
こんな衣や食力や住まいが、保証される。
思わず反応したナマリに、シキがにぱっと笑う。
「部屋は広いっすから、三人で寝るにもじゅうぶんだと思うっす。ナマリさんがお勉強してる間、ちいちゃい人たちは寮が面倒みてくれるはずっすよ」
子ども好きだからきっと大丈夫っす。そう言って差し出されたシキの手をじっと見つめて考える。
村に戻ったとして、住む場所はない。
保存しておいた食料も収穫間近だった畑も泥の下だろう。
生まれ育った村を捨てることはできないけれど、あそこで幼児ふたりを抱えて暮らしていけないことはわかっていた。
帝都はずいぶん大きな人の営みの集まりだと聞く。
シキの慰めを真に受けられるほどナマリは幼くはないけれど、どこででも生きていけるほど大人でもない。
ならば、ナマリのような者でも働ける場所があるかもしれない帝都へ行ったほうがましだろう。
なにより、ナマリの背中を押したのは最期に聞いた父の声。
「……いつか、村を建て直すためにも今は生き延びなきゃ、な」
「そう来なきゃ、っす!」
差し出された手を握れば、シキが笑った。
薄雲が月明かりをやさしく包み込む、おだやかな夜だった。