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迷子の少女

 山のようにそそり立っていた暗雲はうすくうすく引き伸ばされ、広い空を淡く覆いつくしていく。

 ルネの雨女の力とカイトの晴れ男の力がせめぎあっているのだろう。


 間もなく降り始めたのは、霧のようにやわらかな雨。

 肌に触れたかどうかもわからないほど優しい雨は、ゆっくりと地面に染み込んでいくだろう。

 数日もすれば水を得た種は春の日差しに包まれて伸びていく。

 ほころんだ若葉に気づいた人びとは微笑むだろう。その笑顔を作るのは雨と晴れをもたらすルネとカイトのふたり。それに対して俺は何ができるのか――。


 ナマリは空から視線を引きはがしたけれど、ひとりきりになって改めて襲ってた自身への無力感は、よりいっそう大きくなって帰ってきた。

 しとしとと降る雨は、山のふもとにも降り注いでいる。


 神域のそばだからか、それともアベの言っていた結界のせいか人の姿はない。

 おかげで遠慮なくきららを傘がわりに広げられる。


 とはいえ、行くあてはない。

 どうしたものか、と立ち尽くしたナマリの耳が「にぁ」と鳴くかすかな音を拾い上げた。


「猫、か?」


 反射的に見回してみたけれど、周囲にふわりとした毛並みの獣の姿は見つからない。

 代わりに見つけたのは人影だ。


 山すそを流れる細い川の前にしゃがみこむ小さな影。

 雨のなか、傘も差さずに、服の裾が濡れるのも気にせずしゃがんでいるのだ。


「……あんた、なにしてるんだ」

「おお、人の子! ちょうど良いところに来たのう」


 顔をあげ、うれしげに言ったのは幼い少女だった。 

 抜けるように色の白い肌と月のように煌く金の瞳がひどく蠱惑的な少女だ。

 恐らく、いやきっと、普通の少女ではないーーただ人であるにはあまりにも美しすぎる。


 そう思いつつもナマリは彼女に近づく。

 野生の獣と遭遇した時に、背を向けて逃げ出すのは一番の悪手だと知っていたから。

 それから、幼い弟妹を持つ兄として少女が迷い込んだただ人である可能性を捨てきれなかったから。


「小川になにかいるのか? ひとりで来たのか、保護者とか」


 ナマリと少女とはちょうど川をはさむ形になっていた。ほんのひとまたぎで越せる距離だ。

 魚でも見ているのか、と川をのぞきこむけれど、降らせたばかりの雨水が集まって流れる程度の小さな川だ。


 神域だからか生き物の姿は見当たらない。それよりも周囲に大人の姿が見えない事が気にかかって、ナマリはあたりを見回した。

 いつの間にか雨が止み、遠くまですっきりと見通せるようになった牧歌的な景色のなかに人影はない。


「保護者などおらんぞ」


 少女がひとりきり、周囲に他に人の姿はなく、保護者はいないと当人も言う。

 その声に敵意は無いようで、ならばやはり山に迷い込んだだけの少女なのだろうか、と鉛は首をかしげた。


「迷子?」


 けれど少女は呆れたように肩をすくめる。

 見た目とは裏腹にひどく大人びたしぐさだ。


「迷っておるのはそなたであろう、人の子よ。わしは、古来より人の抱く暗闇を恐れる心から生まれ出でし吸血姫の始祖。現状に迷っておるのならばそなたの心の闇ごと食ってやろうか」


 にたり、彼女の浮かべた笑みはその愛らしさとは裏腹にひどく陰惨だ。

 常人ならば思わず気圧され、後ずさるだろう。

 けれどナマリは困惑ぎみに首をかしげる。


「と言いつつまったくこっちに近寄ってこないのは、何か理由があるのか」


 少女の立ち位置はナマリが声をかけたそのときから一歩も変わっていない。

 脅すようなことを言いながらも、対岸でふんぞり返っている状態では怖がりようがなかった。

 そんなナマリの態度に自称、吸血姫の祖である少女はむっとむくれる。


「そなた、物を知らぬな! 我ら吸血の一族は流れる水を越えられんのだ。つまり、わしに食らわれたければそなたがこちらに渡って来い!」

「……渡れないのか、こんな小さな流れが」

「む、不可能ではない! 意識を絶ち、船に乗るなどすればたやすいことよ。なにせわしは陽の光さえも克服した闇の化身であるゆえ」

「自力じゃ無理ってだけか」


 なるほど、とひとつ頷いてナマリは両腕を伸ばす。対岸に立つ少女のわき腹を持って、こちら側へ。

 すとん、と彼女の足が地に着いたことを確かめて手を離した。


「ほら、渡れた」


 笑いかけてから、鉛は相手が自称吸血鬼の始祖だったと思い出す。

 むくれた顔が甘えてすねる弟妹を思い起こさせたせいてうっかり手を出してしまったが、相手はとんでもない美少女だ。

 途端に、バツが悪くなってナマリは頭をかいた。

「悪い、弟たちを思い出してつい……」

「もう一回じゃ!」


 謝罪の言葉をさえぎり、美少女は両手を広げる。


「永く生き、数多くの人間と会うたがそなたのような振る舞いは初めてじゃ。悪くない!」


 頬を赤らめた彼女は期待に満ちた目でナマリを見つめてくる。

 よそさまの女児に触れるのは事案だろうかーーナマリの胸にためらいが過るが、ひと気の無い場所で事案に展開する危険性よりも、今ここで目の前の少女に駄々をこねられる確率のほうが高い、とナマリは手を伸ばした。


 わき腹に手をかけ持ち上げた女児を胸に寄せ、腕に座らせる。

 きゃしゃな少女は見た目以上に軽く、ナマリの負担はほとんどない。


「高い高いも良いけど、抱っこはどうだ?」

「おおおー! 良いのう、良いのう! 飛ぶときほどの高さは無いがこの、なんじゃ。身を寄せ合っておる感じ、悪くないのう!」


 お気に召したらしい。

 はしゃぐ彼女はナマリに体を預け、細い指をぴんと伸ばす。 


「このままあっちに行くぞ! 下僕よ!」

「はは、ナマリだ。そういや、あんたの名前を聞いてなかったな」

「む」


 下僕呼ばわりは初めてだが、幼い子のたわむれのようなものとナマリは笑って名を告げる。

 ついでのように名前をたずねられた少女は眉を寄せた。

 子どもらしい表情を消し去り、大人びた目で黙り込んだのはほんのひと時。


「ズゥエン・キ・エン」


 彼女が名を告げた途端、世界が静まり返った。

 草の間にさざめく虫たちは黙り込み、遠くでさえずっていた鳥の声も聞こえなくなる。

 風の音さえ途切れ、変わらず降り注ぐはずの陽光さえも色褪せた。

 それを当然とばかりに少女は金の目をゆるりと細める。


「人はわしをオリジンと呼ぶがな。ナマリもそのほうが良い。真名は知っておくだけ、よほどのことが無ければ呼ぶでないぞ」


 頬をやさしく撫でる指の冷たさに、ナマリはハッと瞬いた。

 そして知る。自分が息をすることさえ忘れていたのだと。

 気付けば少女、オリジンの前に膝を折り頭を垂れていたことを。


 瞬いて、ようやくナマリは世界が音を取り戻し、何事もなかったかのように息づいていることを知覚した。

 そのなかでナマリは、荒い息の合間に繰り返す。


「オリ、ジン……」

「人が記録する最古の吸血姫ゆえな。時に神と崇め、時に悪魔と恐れられつつも、わしは人とともに生きてきたからのう。ゆえに、このような幼子のごとき扱いは新鮮じゃ!」


 からりと笑ったオリジンの笑顔を見て、ナマリはようやく身体の強張りが取れた。

 いまだ、胸に残る畏怖は消えず、折ったひざで立ち上がるのに、ずいぶんな気力を要した。


 少女にしか見えない相手が見た目通りではないことを理解する。

 けれど言わずにはいられなかった。


「……呼ばないほうが良いなら、教えなきゃ良いだろうに」


 ナマリのぼやきはオリジンの耳に届いたらしい。少女は口を尖らせた。


「わしを知る人間ならばここは平伏して喜ぶところぞ? 真名を口にすれば世界が揺らぎ、どこへ居ようとわしに届く。そのときは鉛の元へ行ってやろう。まあ、そなたを守る護符の一枚くらいに思うておけ。抱っこの礼じゃ」 


 世界が揺らぐ、という意味はほんの数日前まで一般人として生きてきたナマリにはわからないが、どのようなことが起きるかはわかる。

 先ほど、彼女が名を告げた時のことを思い出してナマリの肌は勝手に粟立った。


 けれども軽く笑うオリジンの手前、畏れを見せたくは無いとナマリが思ったのは、抱っこひとつで大喜びする無邪気な少女の一面を見ていたから。


「俺も頭を下げたほうがいいか? いや、よろしいですか、オリジンさま?」


 あえて茶化すように言ったナマリに、オリジンはただでさえ大きな目を見開いて「ふはは!」と笑う。

 

「いらん、いらん! そなたはそのふてぶてしさが良いのじゃ。言葉遣いも戻せ。誰も彼も似たような物言いばかりしおって、聞き飽きてしもうたわ」

「わかったよ。じゃあ、向こうに連れて行けば良いんだな?」


 抱きあげる前に彼女が指差した方を見て問えば、白髪を揺らして頷きが返ってくる。


「うむうむ。それで良い。さ、行くぞ!」

「はいはい、落ちるなよ」


 まるで幼児のような笑顔と振る舞いにナマリは苦笑しながら歩き出した。けれど。


「おっと、きらら!」


 身じろいだナマリの頭のうえ、大人しくしていたクラゲがぽろりと落ちた。

 転がった先はオリジンの膝。


「む? 土着の妖しの物か?」


 柔らかなクラゲをつまみあげてオリジンが珍しげに顔を寄せた。

 途端にきららはぶるりと震え上がり、跳ねるようにしてナマリの頭のうえへ逆戻り。

 黒い髪に触手を絡ませてぷるぷると震えている。


「きらら、お前もしかしてずっと固まっていたのか」


 おとなしく無機物に徹しているものと思っていたナマリは、しっかりとくっついて離れない自身の天妖に呆れつつも、オリジンが名を告げた瞬間の身がすくむ感覚を思えば仕方ないとも思ってしまう。


「なんじゃ、そなた妖しのものを使役する部類の者か。わしを知らんから表の人間かと思うておったが」

「表?」


 オリジンに言われたナマリが瞬いたとき。


「始祖さま、どうしてこの地へ!? 先ほどの力の揺らぎ一体……!?」


 少女を呼んだのは聞き慣れた声。

 朝からアベの言いつけで姿を見なかったけれど。

 顔を向けたナマリは知った相手を見つけて瞬いた。


「シキ?」

「なっ、ナマリさん!? な、何してるんすか! 何でそんなの抱えてるんすか!? お、おろして、ぺってしてくださいっす! 相手は神レベルの化け物っすよ!!」


 目が合うなりシキは叫び声をあげ、狐の耳をぱたつかせる。

 慌てて近寄り、けれどナマリが抱える少女に触れるのは畏れ多いとばかりに手をうろつかせ、右往左往する。

 混乱のあまりかなり失礼な物言いをしていると気づいていないらしい。

 止めるべきだろうかーーそう思ったナマリが声をかけるより早く、口を開いたのはオリジンだ。


「そなた……」


 金の瞳に映る自身の姿に気づいて、シキは「あ」と青ざめる。

 ようやく、本人を目の前にして失言をしたと気がついたのだろう。

 畏れ敬うべき相手の反応が思い描いたシキが喘ぐように口を開け閉めするなかで、けれどオリジンはにぱっと楽しげに笑った。 


「畏まらんほうが良いぞ! わしの好みじゃ」


 手足をぱたぱたとご機嫌に振り回し、神と呼ばれた少女はひとり「うむうむ」と頷きながら続ける。


「私的な場ではそのように振舞え、わしが許す!」

「うえぇ、神級に心が広いっすぅ……!」


 青い顔のまま涙目でつぶやくシキに、ナマリは首をかしげるばかり。

 憂鬱な気持ちはいつの間にかうすれていた。

 はるか頭上では、うすい雨雲がゆるゆると空を流れていた。

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