お礼の魔紙
(うわぁ、どうしよう)
ジルトは固まった手足を無理やり動かしながら家を目指していた。
レオと別れた後、また凍った池に倒れこんだジルトはそのまま眠ってしまった。ぐーっと腹が音を立てて目を覚ませば、辺りは薄暗くなっていた。
これではレオに怒られてしまう。暗くなる前に帰れと言われたが、ぎりぎりのところで約束を破ってしまいそうだ。森の池から家までは遠くない。レオの判定が厳しいのだ。イルなら笑って許してくれるだろうが。
一刻も早く家にたどり着きたかったはずのジルトの足が急にぴたりと止まった。目の前に、人が倒れていたからだ。
「だ、大丈夫ですか?!」
最北端に人は来ない。それはこの土地の厳しい寒さを知っているからである。それをこの時期に懐炉もなしになぜ訪れたのだろうか。
ジルは駆け寄って、その人の手首に指を当てた。こうやって脈をはかることができるのだとイルが教えてくれたのだ。脈があれば、死んではいない。僅かながらも脈を感じ取って、ほっと息をつく。次いで、ポケットから取り出した革袋を開き、未使用の懐炉を取り出す。それまで濃い灰色だった石は、急にオレンジに光り始める。柔らかい光に泣きそうになりながら、その懐炉をその男の手に握らせた。
ひとまず応急処置を終え、ジルトはその人物の横に膝を抱えて座り込んだ。
懐炉は直ぐに効き始めるが、それによって意識を取り戻すのには時間がかかる。イルの作る懐炉は人の体を癒すという点でも特別だ。
ジルトはその人物を観察してみた。薄い金色の髪の輝きはレオに及ばないが、相当な魔力を持っているのだろう。この国の住人は基本的に黒髪に黒目、もしくは茶色が多いのだが、膨大な魔力を持つ貴族は金髪に青い目をしている。同様に、魔力の量が多い者や魔法を極めた者は髪や瞳の色が変色するとイルが言っていた。レオも金髪に青目だが、レオは貴族ではなく、外国の血が混じっているのだという。
顔に刻まれた皺から高齢であることはわかるが、それならなぜわざわざ寒いこの地に身一つで足を踏み入れたのだろうか、ますます謎である。
「はっ!」
「わ!」
急に観察対象が起き上がって、ジルトは思わず立ち上がった。
彼はジルトに気づいて何か言いかけたが、自分の左手を見て言葉を飲み込み、もう一度ジルトを見た。
「君が、助けてくれたのか?あ、いや――」
「そうだよ。どうして此処まで来たの?おじいさん、寒かったでしょう?」
ジルトが男の言葉を遮って問いかける。実は彼女はさっきからずっと気になっていたのだ。北部での生活は人とのつながりは強いけれど、その数は多くない。まして、金髪の人など中央でも珍しかったのだ。つまり好奇心が抑えきれなかったのである。
「君、言葉がわかるのか?」
「言葉?私だって喋れるよ」
「そうではない。私は異国から来たのだ。君はアグノードの言葉以外もわかるのかね?」
ジルトは困って眉を下げた。
「おじいさんは外国の言葉を話してるの?」
「ああ、そうだ。わからないかい?」
ジルトは首を横に振った。何も変わった言葉をしゃべっているとは思えなかった。
「そうか。不思議なものだな」
「それで、おじいさんはどうしてここに?外国の人だから知らなかったのかもしれないけど、ここは懐炉がないと死んじゃうよ。特に冬は」
ジルトが男に渡した懐炉を指さすと、男は感嘆する。
「おお、これかね。やはりアグノードには変わったものが多いね」
「おじいさんの国にはないの?」
「ああ、ないね。お嬢さん、楽しいお話を続けていたいのだがね、私は約束があってね。夜になる前に市場に戻らなければならないんだ。よければ家に帰るついでに私を案内してくれないか?」
ジルトの家と市場は反対方向であるが、この男にしてみれば、こんな寒い地の更に奥地に住む人間がいるなど考えられなかったのだろう。ジルトも、異国から来た老人の話を聞きたかったので、家の方向は隠して一つ返事で頷いた。
「ありがとう、とても助かるよ」
男の名はセダム・ベンケといった。この国の遥か南に位置する国から、アグノードの研究をするためにやって来たのだという。研究が趣味で、仕事の拠点になる中央から離れた北部の市場を訪れた際、森が広がっていることに驚き、そのまま奥へ奥へと進むうちに寒さに耐えきれず意識を失ってしまったらしい。
ここまでジルトが質問を続けても、彼は嫌そうな顔一つしなかった。助けてくれたお礼になればいいと、わざわざジルトに案内役をさせたのかもしれない。
「あ、もうすぐ市場につくよ」
「おお、本当だねぇ。いやいや助かった。今日は本当にどうもありがとう。お礼といってはなんだが、君のその右目、右頬かな?もし傷跡などあれば治してあげられるが、どうだろう?」
老人は立ち止まり、ゆっくりとジルトに手を差し伸べた。しかしジルトはさっと後ろに飛びのく。隠している右目を暴かれると思ったらしい。
「すまない、驚かせたね」
「ううん、ごめんなさい。でも、家の人に人に晒しちゃだめだって言われてるの」
「そんなに酷いのか」
「わからない。私も見ちゃだめだって、言われてるから」
「そうか」
老人は顎に手を当て、うーんと唸った。
命を救ってもらった上に案内もさせたのだ。彼自身このまま何もなしという訳にはいかなかったのだろう。何か思いついたのか、老人はがさがさとポケットを漁った。そこからでてきたのは小さな紙切れだった。
「これを渡そう。くしゃくしゃになってしまって申し訳ないが、これは魔法を込めた紙でね、もし魔物に襲われそうになったら助けてくれる。一度きりの効果だが、ないよりはましかもしれない」
「いいの?!ありがとう!」
ジルトはその紙を受け取って、大事にポケットにしまった。魔物と出くわす機会はそうないだろうが、魔法を使えないジルトにとっては嬉しいプレゼントだった。
「喜んでくれてなによりだ。ではお嬢さん、今日はありがとう」
「こちらこそありがとう、セダムさん」
お互いに別れの言葉を交わして、ジルトはセダムを見送った。彼が見えなくなったところで、彼とは反対の方向に走り出す。来た道を引き返すのにどれくらいかかるだろうか。これではイルにも怒られてしまうと、さっきまでの楽しい時間との落差を考え、ジルトは反面家にたどり着きたくない気持ちで必死に足を動かした。
*
「ただいま!」
はぁはぁと息を切らしながらジルトが叫ぶと、開けたドアの先には同じく息を切らしたイルとレオがいた。どうしたのと訊く前に、レオが飛びついてきた。小さい頃は同じだったはずが、大きく開いてしまった身長差に見合った体格のレオを受け止めることはできず、ジルトは盛大に尻もちをついた。
「うっ」
「どこ行ってたんだよ!」
ぎゅうっと抱きしめられて、息が詰まりそうだった。レオの髪が湿っている。イルもそのようで、二人がジルトを探しに走り回っていたのだということはすぐにわかった。
「ごめんなさい……」
行先も告げず、自分の好奇心だけで行動してしまったことを、ジルトは心から反省した。自分の勝手な行動で心配をかけてしまう人がいる。逆の立場を考えて、もしイルやレオが急にいなくなってしまったらと思うと、胸がきゅっと痛くなった。
「帰って来てくれてよかったよ、ジル。ずっと外にいたんだ、疲れたろう。詳しい話は明日聞くから、今日は夕食を食べておやすみ。ほら、レオ、ジルトを中に入れてあげて」
レオは腕の締め付けを弱め、無言で優しくジルトを抱き起こすと、すたすたと家の中に入ってしまった。遠くでバタンと音がして、お風呂場にいったのだと理解した。
「レオは相当心配してたからね、一緒に連れて帰ってくればよかったと後悔していたよ」
「ごめんなさい。イルさん、私――」
「ああ、ほら、中に入って。そういうのは明日って言っただろう。アンさんが料理と一緒に待ち構えてるからね。今日は彼女のお小言でお腹いっぱいになるだろう」
イルはジルトを家の中に入れ、ドアのカギを閉めた。切れかけの懐炉は効果が薄く、部屋に入った瞬間、知らずと冷えて固まっていた体がじわりと溶けていくような暖かさに包まれる。
キッチンを覗くと、青い顔をしたアンに一通り怒られる。いつも穏やかな彼女はこの家で怒ると一番怖いのだ。お小言が終わった後は急にわっと泣かれ、ぎゅうっと抱きしめられる。レオの癖はアンから譲り受けたのだろう。気が済んだアンはジルトを席につかせ、火を入れ直したスープを置いてくれる。自身はジルトの向かいの席に座り、ジルトが食べ終わるまで優しく見守った。
ご飯を食べ終えると急に眠気が襲ってくる。今日は市場と家を二往復したのだ。疲れていないはずがない。眠気を我慢して風呂に入り、寝間着に着替えてイルに髪を乾かしてもらう。それが終われば歯を磨き、あとは眠るだけだ。
ジルトは部屋に行き、ふかふかのベッドに倒れこんだ。あっという間に瞼が閉じてしまいそうだった。しかし隣に誰かがもそもそと入って来たので、すぐに夢の世界という訳にはいかなかった。
「モーリ」
「僕だって心配したんだよ。探しには行けなかったけど」
「うん、わかってる。ごめんね、モーリ。ありがとう」
頭を撫でると、モーリは嬉しそうに頷いた。
「おかえり、ジル」
「ただいま、モーリ」
ジルトの記憶はそこで途切れた。眠気が最高潮に達していたのだ。
暖かい孤児院、優しい人達に囲まれてジルトは眠りにつく。こんな安らかな夜を迎えることは、もうできないとは知らないで。
続きます。