痣の痛みと浮かび上がる傷
「クラム、今日は痛まなかったね」
もう遅いからとトーチを家まで送っている途中、不意にその話題になった。
クラムはどきりとしたが、顔には出さず、そうだなと返す。
「川の近くはやはりいいらしい。最近は家にいることも増えたしな」
「あの子が心配だから?」
少し不満気に訊ねられる。
「そうかもしれないな。魔力の使い方はまだよくわかっていないらしいから、もし獣に襲われでもしたらと考えると。そろそろここを出ると言っているし、万全の状態で送り出してやりたい」
「そうなんだ。クラムは優しいね」
ぽつりと吐き出された言葉は、悲しみをはらんでいた。
「どうした?」
「ううん。クラムは誰に対しても平等で、優しいなぁって、それだけ」
クラムが心配をすると、トーチは何でもなかったかのように笑顔で答える。素直に感情を表に出すと思っていたトーチは、大人になって自分の内に秘めるということを覚えたらしい。
「俺は優しくなんかないさ。誰に対しても優しいのはお前の方だろう」
「やだなぁ。私だって誰にでも優しい訳じゃないのよ」
「どういうことだ?」
「何でもなーい。送ってくれてありがとう、クラム」
いつの間にかトーチの家まで来ていた。トーチはじゃあねと手を振って家の中に入っていく。扉を閉めてすぐ、彼女が泣きそうな顔をしていたのを、クラムは知る由もなかった。
今日のトーチはいつもより元気がなかったなと考えていたクラムだが、自分の家に近づくごとに、その思考は霞んでいってしまう。
――今日は痛まなかったね――
トーチとしては何気ない一言だったのだろう。別に彼女と一日中一緒にいたわけではない。ただ、それは事実であたった。クラムは、今日一日の間ずっと呪いの痕が痛まなかったのである。今日だけではない、ジルトが来てからずっとだ。
呪いの痛みに規則はない。ただもう数年も前から一日に数度は痛むようになっていた。それなのに、この数日間、一度も痛みがやってこないのだ。嬉しい気持ちと一緒に妙に不安や焦りに駆り立てられる。
これはジルトが来てから起こったことだ。彼女はいったい何者なのか。聞けずにいたが、どうして研究所なんかに捕らわれていたのか。知りたいと思った。ほんの少しだけ手放したくない気持ちもある。だが自分の探求心、平穏のためだけに帰る場所のあるジルトを引き留めることはできない。
なんとか彼女が帰ってしまう前に、この謎を明らかにしたい。
自然と歩調が速くなる。勢いのまま家の扉を開けると、机に地図を広げていたジルトが驚いたようにこちらを向いた。
「お、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
驚かせてしまった。落ち着いてから戸を閉め、ジルトの向かいの席に座る。
「何を見てるんだ?」
「クラムさんが連れて行ってくれるところから、図書館までどうやって行くのかなって」
クラムたちの性質上、ここの正確な場所をジルトに教える訳にはいかなかった。どこでもいいから中央の図書館に行きたいというジルトを森の出口まで連れていく手はずとなてっいたのだ。
「もう出るのか?」
「明日にしようかな。もう体も大丈夫だから」
「もしまた傷が現れたらどうすんだ」
「あれはびっくりしたなぁ」
ジルトは苦笑して済ませるが、クラムにしてみては笑い事ではすまなかった。
クラムの前にジルトが現れて二日目、ジルトは驚異的な回復力で普通にご飯を食べられるようになった。その代わりとでもいうのか、前日までは何もなかった肌に、夥しい数の傷が現れたのである。深い傷から浅い傷まで存在し、酷いところはだらだらと出血し、痛みをも伴った。クラムも例にもれず回復魔法は苦手で、苦しそうにするジルトにしてやれることは少なく、もどかしい思いをしたのを覚えている。
正しく処置すれば、通常に比べて傷の治りは早かったが、またあれが起こらないとは限らない。もうしばらくいてほしいが、それは単純にジルトを心配する気持ちからなのか、自分の都合故なのか、クラムには判断が難しく、言い出すことはできなかった。
「もう大丈夫だと思うよ。心配してくれてありがとう」
「そうか。なら早く寝なさい。俺は昼に戻ってこないといけないから、明日は朝が早い。かなり歩くから体を休めておかないと」
「うん、そうだね。おやすみなさい」
素直にベッドに向かうジルトの背中を、クラムは何とも言えない思いで見つめた。
クラムの朝は早い。日の出には家を出て、森の中の動物を狩りに行く。それを捌いて昼の集まりに持っていくのだが、相手は自然だ、大した収穫もなく終わることも少なくない。家を空ける時間は長く、帰った時にはジルトが迎えてくれるのが普通だった。だからこの状況は初めてだった。
もぞりと体の向きを反対にすれば、すやすやと眠る少女が目に映る。つやのある長い前髪が、彼女の秘密を守るように顔にかかっていた。いつもならジルトの顔を特に注意深く見ることなくベッドから抜け出すが、彼女と同じ寝床につくのは今日で最後だ。
しばらく悩んだ末、クラムはジルトの右頬に手を伸ばした。彼女を起こさぬよう、慎重に、丁寧に前髪を耳にかけてやる。小さく息を漏らした彼女に動きを止め、再びゆったりとした寝息が聞こえたところで胸をなでおろす。初めて見たジルトの顔の右頬にはℱという文字が刻まれていた。自らつけたわけではなさそうなそれが、ジルトが髪で顔を隠す理由なのだろうか。そっとそこに指先が触れた時、ぱちりとジルトが目を覚ました。
「あ――」
現れた右の瞳は黒い赤色をしていた。縦に長い瞳孔に、左目とは違う輪郭。
「ドラゴン」
思わずこぼれた言葉を、起きてすぐのジルトは聞きもらさなかった。
はっと大きく目を開いてから、右手で彼女自身の目を覆う。そのままベッドから飛び降りると、未だ動けずにいるクラムに向き合った。
「クラムさん、私――」
何か言いかけたジルトは、数秒目を閉じたあと、またクラムを見据えた。
「今までありがとう。あと、トーチさんに、みんなに、ごめんなさい。私のせいで――」
ぎゅっと眉根を寄せた少女は、今にも泣き出してしまいそうだった。すぐにでもそばにいって大丈夫だと頭を撫でてやりたい衝動にかられながらも、クラムは動けない。
「クラムさん、本当にありがとう」
丁寧に礼をしたジルトは、元々まとめてあった荷物を抱えて、家の外に飛び出して行った。
走っていくジルトを窓から見送って、クラムはベッドに大の字に転がった。
赤い獣の目。あれは間違いなくドラゴンの目だった。あれが魔女の生き残り、己の仇。
クラムの想像していた魔女のイメージとはかけ離れすぎていた。
もっと利己的で、傲慢で、自身に満ち溢れた巨大な力の使い手だろうと。他者の心を解さない、誰にも傷つけられない強さを備えた女だろうと。そう、思っていたのに。
出会った時には食事すらとれなかった少女。ベッドを一人で使うことを拒んだ少女。同じ年頃の同性と楽しそうに話す少女。
やわらかで、太陽のようにあたたかくて、愛おしい存在が、自分の一族を苦しめ続けてきた魔女の末裔だとは信じられなかった。
――ごめんなさい。私のせいで――
去り際に残した言葉は、見せかけでも何でもない。
彼女は出会った頃から彼女の存在について申し訳なさそうにしていた。
――そうなんだ。助けてくれる人が、いるんだね――
嬉しそうに微笑んだあの子は、
――ありがとう。でも、私はここには居られない――
――私は、ここにいちゃだめなの――
複雑そうに表情を歪めた。
「そういう、ことか」
なぜ気づいてやれなかったのだろう。いや、気づいたところでどうだというのだ。結局は一族の仇として酷い目に遭わされるだろうに。
つまり、クラムにしてやれることは何もないのだ。
魔女の生き残りを恨み、憎んできた者の一人として、彼女に慰めの言葉をかけることなど許されない。
ずきずきと頬の痣が痛む。まるでクラムを責めるように、今までにない痛さで、長さで、クラムを苛んだ。
痛みとは別の思考で、このベッドはこんなに広かったのかと、少し寂しく感じた。
続きます。




