必死の抵抗
すごいな、と思った。
女は目の前で眠っている少女の髪を撫でる。自分が毎日手入れをしているだけあって艶やかな髪はさらりとしている。今は閉じてしまっているまぶたが開けば、黒と赤の瞳が強い意志を示す。
少女がこの場所に来てからもう一か月経っていた。彼女は毎日研究されている。体の再生、毒への耐性、魔力の流れ、精神の影響。
その為に行われる実験は酷く凄惨で、喉がつぶれてしまうんじゃないかと心配になるほどの悲鳴を、女は何度も聞いてきた。臓器を抜かれ、傷をつけられ、毒を飲まされ、魔法をかけられ。身も心も多大なダメージを負っている。吐しゃ物や血に塗れ、虚ろな顔で横たわる少女を、女は毎日見ていた。
しかし少女は、依然その強い意志を瞳に湛えていた。初日には何も映していなかった瞳は、翌日、確かに前を見ていた。疲弊し、光を失っても、また回復する。
気が狂ってしまいそうな生活をこれほど続けて、彼女はなお、壊れてはいないのだ。
何が彼女をここまで強くあらせるのか。女にはわからなかった。
「おや、もうほとんど回復しているね」
柔らかい声がした。女の主人だ。
「そうですね。日々治りが早くなっているような気がします」
「なってるんだよ。何度も死にかけて、そのたびにドラゴンの魔力が解放されていっているんだ。ああ、素晴らしいね」
うっとりと微笑んだ主人は、そうっと少女の顔を撫でる。少女の肌を滑るその手は、つい先ほどまで彼女の血に塗れていた。
「……主人、大丈夫ですか?」
「何がだい?」
主人のその微笑みが、既に歪んでしまっているのだと女は気づいている。それはある出来事について知っているごく一部の人間にしかわからないだろう。
この人がこうなってしまったのは、やはりこの少女のせいだ。
今の状況を哀れには思えど、故に女は少女を逃がしてやろうとは思わない。主人の与える痛みを受け止めて、その責任を取ってもらわねばならない。
*
ジルトは目を覚ました。
もう慣れてしまった白い天井に、気を失う前の傷が見当たらない体。そして目の前に立つ、フードを被った女性。
「おはようございます。さぁ、行きましょう」
最初は抵抗していたが、彼女に大人しくついて行かなければ、痛いことをされる。ジルトは大人しく彼女の後に続く。
「食事はどうします?」
「要らない」
今日は何をするのか知らないが、たいていの場合、ジルトの胃に収まった食べ物は数時間後に吐き出されてしまう。わざわざ食事をとりたいとは思わなかった。
「今日は何をするの?」
「本日は実験は行いません。準備が整ったので、あなたの体に魔法を埋め込みます」
「魔法を埋め込む?」
ジルトが首を傾げると、女は口だけでにっこりと笑う。
「つまり、あなたの体にいくつか制限を設けるのですよ。例えば、あなたが逃げたいと思っても、体が動かないようにするとかね」
ジルトは思わず足を止めた。
彼女がここまで意識を保ってこられたのは、いつかレオ達の元に戻るという目標があったからである。実験の際に魔法を教えられることもあり、自分の持つ魔力も感じられるようになった。それが増してきていることにも気づいている。だからいずれここから逃げるのだと、その時まで耐えるのだとそう思って生きてきたのに。
正確な時間はわからないが、かなりの日が経過しているのはわかっていた。そのせいで最近は焦りを感じてもいた。そこに止めを刺そうというのか。
「い、いやだ」
「嫌と言われましても、ここではあなたの意志は関係ないのです」
ジルトの腕を引っ張って、女はジルトを部屋に放り込んだ。もうお馴染みとなってしまった、あの男のいる部屋だ。
「出して!」
無情にも閉じたドアに縋りつくも、その願いが聞き入れられないことは知っている。
「いらっしゃい、ジルニトラ」
「あ、ああ」
悪魔のような男が、笑みを浮かべながらジルトに近づく。
逃げたい。この男を前にして、正常な思考を保つことは不可能だった。
逃げたい、逃げたいと、その一心でドアの取っ手をがしゃがしゃと引っ張るが、鍵のかかったドアが開くはずもない。
「今日はいつにもまして怯えているね。今からすることを聞いてしまったのかな?」
ジルトの前にしゃがんだ男が、彼女の震える体を抱きかかえる。そしてそのまま部屋の中央に向かい、ジルトを枷付きの椅子に座らせる。震えたままのジルトは一切抵抗ができない。いや、抵抗しても無駄だと教え込まれていた。
「大丈夫だよ、すぐに済むからね。さ、まずは慣らしといこう」
男がジルトの前髪を持ち上げ、その下の竜の瞳と、右頬を晒す。そしてその肌に、爪を当てた。黒い光を纏った指先が動くと、その下のジルトの皮膚がぷつりと裂けて赤い血を流す。
「い、ああああああああ!」
普通の傷ではない。傷が尋常でなく熱く、痛く、冷たい。体ががくがくと震えるが、彼女の手首足首は椅子に拘束されており、そこから離れることができない。
男の手が止まった時には、ジルトは気を失っていた。さらに、その頬にはℱという文字が刻まれていた。
「まぁまぁだね。さて、まずはここかな」
ジルトの上衣をめくり、ズボンを少し下げ、彼女の左足の付け根の辺りに指を添える。
「さぁ、ジルニトラ、目を開けて」
指示に従ってぼんやりとした目を向けるジルトに、男は満足そうに笑った。
あれ?とジルトは思う。
私は今、何をしているのだろう。
目の前には怖いあの男がいる。何かを喋っているが聞こえない。
――あなたが逃げたいと思っても、体が動かないようにするとかね――
先程の女性の言葉が脳内で流れ、ジルトは嫌だと強く思った。それにより靄がかかっていた思考が晴れ、ジルトはがたりと体を揺らす。
「嫌だ!」
男の顔から笑みが消える。
「驚いた。催眠を解いたのか?!」
今の内だと思った。
嫌だ、逃げたい。その思いでいっぱいだった。
「レオ!モーリ!」
皆に会いたい。
会って、一緒にいてもいいよと言ってもらいたい。
ジルトはぎゅっと目を閉じた。
「これは、想像以上だ」
空になった椅子に、男は一人言葉を漏らした。
まだ力に目覚めたばかりの、小さな少女が、高度な魔法を使って逃げた。その魔法を使えるのは、この国で十人にも満たない。
「あ、は。あはははは!!素晴らしい!素晴らしいよジルニトラ!!」
一頻り笑って、男は恍惚の表情を浮かべる。
「ああ、もう一度君の体を隅々まで調べたいよ!」
男は鼻血を出して床に倒れ込む。体がびくびくと震え、口からも血が流れ出す。
「主人!!」
慌てて部屋に飛び込んで来た女が男に駆け寄る。心配そうな女とは裏腹に、男はうっそりと微笑んでいる。
「しばらく魔法は使えないかな。ゲホッ、呪いの魔法は魔力の消耗が激しい上に、こんな風に途中で破れらたらしっぺ返しを受けちゃうからね、ゲホッ」
ごほりと咳をするたびに男の口から血の塊が噴き出す。
「主人!しっかりしてください!」
「あはは!うぐっ、でも一つはかかった!ジルニトラ!また迎えに行ってあげるよ!」
狂ったような男の笑い声が反響し、その部屋は異様な空気に包まれていった。
続きます。




