嫌な記憶
あれは、中央での生活に慣れた夏の頃の出来事だった。
いつも一人でどこかへ行ってしまうイルの後をこっそりついて行って、結局見失ってしまった。最初はセキと二人で始めたことだったが、その日はセキは体調が悪いと付き合ってくれず、ジルトは一人で迷子になってしまったのだ。
人の往来が激しい市場で、押しつぶされないように動き回っている内に、全く知らないところに流れ着いてしまった。目の前には自分が先ほどまでいた人の群れがあるのに、ジルトがたどり着いたそこは建物と建物の間の狭い道で、しんと静まり返っていた。それが不気味に感じられたが、当時のジルトにもう一度群れに飛び込む勇気などなく、別の場所へ行ってみようと後ろを振り返った。
「わっ」
足元に倒れている人を発見して、思わず小さく声を上げた。それで気がついたのか、その人物がゆっくりと顔を上げる。
手入れをすれば綺麗に輝くであろう金髪の下から、半分瞼が持ち上がった黒い目が覗く。それは濁った黒だったが、ジルトの顔を見た瞬間、大きく目が開かれ、その目に意志が宿った。
びりびりと突き刺すような鋭い視線。煮えたぎったような熱を抱える瞳は確かにジルトを捉えている。
ジルトはびくりと体を震わせ、何とか逃げようと後退る。が、足首を掴まれ、それは叶わなかった。骨と皮だけのような手だったが、その握力は強く、ジルトは足が折れてしまうかと思った。
「おま、えが……ああ、憎い」
「いっ、や、やめて」
みしりと骨が音を立てた。
殺されてしまう。このまま足を砕かれて、逃げられなくなったところで噛み殺されてしまう。
*
「嫌だ!」
はっと目を見開く。見慣れない天井が視界に映る。真っ白い、汚れ一つない天井だ。
ここはどこだろうと体を起こそうとしたが、動かない。
ジルトの体は、大の字にされて台の上に拘束されていた。半袖半ズボンの白い服に着替えさせられており、露出した首、手首、足首に台とつながっている半円型の枷が嵌められており、わずかに身じろぐことしかできなかった。
「ああ、ようやく起きたんだね。うなされていたけど、何か怖い夢でも見たのかな?」
ずいっと天井を遮るように現れた男の顔に、ジルトは目を背けたくなった。それは、夢の中にも出てきたいつかの男だった。動けないジルトが目をぎゅっと閉じると、頬に柔らかく手が添えられる。
「ああ、俺のことかな?ごめんね、前は怖かったろう。でも今は大丈夫だよ。さぁ、目を開けて」
優しい声に恐る恐る目を開くと、たしかに、そこにあった男の顔はひどく穏やかで、以前の面影はまったくなかった。
「ほら、ね」
するりと頬に置いていた手を這わせ、ジルトの長い前髪を上げる。そこに現れたはずの人とは違う独特な瞳を見ても、その男は驚かなかった。
「君の瞳は綺麗だね、ジルニトラ」
まただ、とジルトは思った。
「私、ジルニトラじゃないわ。似てるけど、違う」
「ん?ああ、ジルトって呼ばれてたね。それは偽の名だよ。君はジルニトラ。もし慣れないようならここでの名前としてくれてもいいけどね」
何でもないように男は言うが、ジルトは理解できなかった。ジルトが偽の名で、本当はジルニトラなのだと言われても、余計に混乱するだけだった。
「ここはどこ?私、帰らなきゃ」
「帰る?」
急に男の声が低くなる。
「何を言ってるんだい?君の帰る場所はここだよ。ここは俺の研究施設。君の家だよ?」
「ち、違う。放して!帰りたい!」
奇妙な空間に呑み込まれてしまいそうな恐怖に、ジルトは必死に逃げようとするが、がんがんと体が枷に打ち付けられるだけだ。
「あーあ、痕になっちゃうよ。ジルニトラ、いい子だから、やめるんだ」
「私はジルニトラじゃない!」
無駄だとわかっていても、めちゃくちゃに手足を動かすしかなかった。
このままずっとここにいてはおかしくなる。ジルトはそう直感していた。
早く逃げなければ、じわりじわりと蝕まれて、自分じゃない何かになってしまいそうだ。それこそ、男のいうジルニトラとやらに。
「物わかりの悪い子だね」
枷が取れて、ジルトの体が自由になる。急な解放に驚きつつも逃げようと台を下りたところで、男に捕らえられて抱きしめられる。逃れようと男の胸板を両手で押しても、少女の力が大人の男に敵うはずもなかった。
ジルトは抵抗をやめる。
どうして、いつもこうなってしまうのか。ドラゴンの娘で、強大な魔力を所有しているのに、暴走が怖くて咄嗟に魔法も使えない。誰かに捕まって、また助けを待つんだろうか。
知らずの内に涙が頬を伝う。
泣いてばかりだと思う。あの孤児院を出たあの日から。自分の、帰るべき場所を失ってから。
「ああ、逃れたい相手でさえも、殺してしまうことを恐れて魔法が使えないんだね。かわいそうなジルニトラ。でもね、悲しむことはないんだよ。ここが君の居場所になる」
ジルトの涙を拭って、男は優しくジルトを見つめる。
「君は何もわかっちゃいないんだ。ドラゴンの娘というのはね、研究者にとってとても魅力的な存在なんだよ。この魔力を湛えた目はもちろん、血も、肉も、皮も、骨も。全部貴重な資料なんだよ」
ジルトの肌を、男の手が滑っていく。
「君はきっと人間として扱われない。研究材料だけ切り取って、君という存在は消されてしまうかもしれない。でも俺は君を殺したい訳じゃない。君を知りたいだけ。外の世界は危ないよ、君を殺そうとしてくる人がたくさんいる。ここなら安全に暮らせるよ」
優しく頭を撫でられながら、ジルトはぼんやりと男の声を聞いていた。
思い浮かぶのはイル、アン、レオ、モーリ、セキ。共に孤児院で暮らした家族。シュレイ、バンダ、ライヤ。途中から一緒に行動している仲間たち。イーリス。好かれてはいないが、悪い人だとは思わない、同じ魔力を使える女の子。
もう会えないのだろうか。こんな気がおかしくなりそうなところで、生きていくしかないのだろうか。
「ねぇ、ジルニトラ。君ももう戻れないだろ?戻りたくないだろう?迷惑をかけられないものね?君のせいで誰かを傷つけたくはないものね?」
悪魔の囁きがじわりじわりとジルトを蝕んでいく。
「だから君は、あの子の後を追わなかったんだろう?小さな目印に、気づかないふりをしたんだろう?」
(ああ、そうだ)
(あの場所にいてもいいか、わからなくなったんだ)
ジルトの意識は泥の中に引きずり込まれていった。
何も映さなくなったジルトの目を確認して、男は満足そうに微笑んだ。




