ただいま、の12月①
「今日のお昼はこれを食べてね」
朝ごはんと一緒に調理して冷蔵庫に入れておいた焼きそばを指し示し、そのまま「では行ってきます」と声をかけて、慌ただしくアパートを出る。
こくりと頷いて見送るのは、彼氏などどいう存在したことのない人ではなく、先日からの同居人である少年だ。
何もかもを知らない彼が、せめてその魔法のような力がこの世界では特異である、ということを理解するまで。
それまではここにいた方が安全だろうと判断して、そうしてその旨を説明しようとしては失敗しているのが今の現状だ。
会社の最寄駅まで電車に乗り、改札から外に出るとピュウ、と音を立ててビルの隙間を抜ける風がやけに冷たく感じた。
「さむ」
駅には大きなクリスマスツリーが飾られていて一度首を傾げたが、そういえば今日から12月に入ったことを思い出す。
(一応暖房はつけてきたけど、ノワは寒くないかな)
ノワを拾ったのが月曜日、そして本日が金曜日なので既に4日が経過している。
その間小雪に出来たことといえば、エアコンの温度調整方法とレンジの使用方法、そして留守中の暇つぶしとしてテレビのチャンネル切替方法を教えられたくらいだ。
肝心の彼への忠告については、何度かジェスチャーと共に説明を試みたが「あなたのその力は人に見られるととても危険です」も、「その力は物語では魔法などと呼ばれており、空想上のものとされています」も、あまりに表現が難しすぎて頓挫した。
身振り手振りで表現するには具体性が無さすぎるのだ。結局は手をバタバタさせた小雪にノワが目を丸くする、という流れが3回を超えたあたりで一旦諦めた。
ジェスチャーが駄目なら、あとは絵か言葉で説明するしかないのだろうが、絵心のない小雪の選択肢としては実質言葉での説明しか残っていない。
けれどノワの言葉を覚えようにも、こちらの言葉を教えようにも、どちらも平日では難しい。
少年を拾ったからといって仕事がなくなるわけではなく、朝から晩まで働いて、くたくたになって帰宅したところで晩御飯を食べて、そして早朝に起きて2人の朝食とノワの昼食を作る。
何をしようにも、あまりにも時間がないし元気もないのだ。
ちなみに下着の類は取り急ぎコンビニで5日分を買い足して、ノワとは同じ布団で寝ている。
来客用の布団でなどという素敵なものは無いし、かといってどちらかがソファで寝るにしても、この季節では絶対に風邪を引いてしまうだろう。
そう思ってノワを拾って初めての夜、まずは小雪が布団に入り、立ち尽くしているノワを呼び寄せて布団に入れた。
怖がられたり嫌がられたりするようであれば、もう風邪を覚悟で小雪がソファで寝ようと思っていたが、心配とは裏腹に、ノワは一度目を丸くした後は何の拒絶も無かった。疲弊していたのかその後はすうすうと寝息をたてており、本日に至るまでも毎日眠れているように見える。
小雪としても、いくら特等の美少年とはいえ、流石にこどもと同衾してやましいことを考えるほど倫理観も道徳感も壊れていないので、特に何の問題もない。
というわけで、暮らし自体は特に何も問題なく、そして何の進展もないまま本日に至るというわけだ。
⬜︎⬜︎
「おはようございます」
物思いに耽っている間に到着した会社で、挨拶をしながら自席へと向かう。
おはようございます、と反射で返してくれている同僚たちの間を抜けながら、パソコンの電源を入れた。
ちらり、と誰もいない隣の席を見ると、その視線に気がついた所長から「川本さんは今日もお休みだよ」と声がかかる。
「やっぱり暫くは難しいみたい。ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げた所長に「分かりました。ありがとうございます」と言いながら会釈をして、内心で溜息を押し殺した。
小雪の働く会社は、東京都内に本社を置くソフトメーカー会社である。
大企業と呼べるほど規模は大きくないが、本社の他にいくつか支社と営業所を設けており、小雪が所属しているのは都内にある営業所の一つだった。
本社や大きな支社だともっと社員数は多いらしいが、小雪の営業所は営業所長である部長職が1人と、営業職が15人、そして小雪を含めた事務職が2人という編成になっている。
もう1人の事務職が川本さんという女性の先輩だったのだが、先月妊娠が発覚して以来、悪阻が重いようで一度も出社していない。
なんとか2人の事務職で回していた営業所から1人長期欠勤が出ると、当然その分の仕事は小雪が担当する他なく。
所長も営業社員も仕事内容が全く異なるうえ、それぞれの仕事で既に手一杯だ。
誰も悪くないのだ。
分かっている。
7年先に入社した川本さんは、20歳に入社したばかりの何も分からない小雪に、丁寧に接してくれた尊敬する先輩だ。
妊娠が発覚した段階でも、「皆には安定期なってから言うつもりなんだけどね」と前置きして、一番に電話で教えてくれた。
結婚してから4年間、なかなか子供ができないと悩んでいた川本さんの姿も知っていたため、嬉しくて嬉しくて涙が出たことを覚えている。本当におめでたいし、心から母子ともに無事出産が終わることを祈っている。
そしてその後も、何も心配せずゆっくりと育休を取ってほしいとも思っている。
所長だってそうだ。
営業所事務の要であった川本さんの体調が悪化して、出社するのも難しいと分かった段階で、すぐにどうにかしてくれようとしたのを知っている。
「柳さんには苦労をかけると思う、ごめんね」と眉を下げながら、本社に事務職の応援を呼べないかと相談したり、臨時で事務職を採用しても良いかと掛け合ってくれていることも知っている。
ただ、まだ産休に入るには早いため欠員扱いではなく、欠勤になるため補充や応援は出せないと主張する本社に押し返され、現状何も改善されていないというだけだ。
営業の人たちだって、そう。
以前は遅くても19時には退社していた小雪が、最近では22時を超えても会社にいることを心配して「何か手伝おうか?」と時折声をかけてくれる。
けれど毎日昼間は営業に出て、帰社してからも事務処理に追われる忙しそうな彼らに、頼むことなどできないというだけだ。
誰も悪くない。
この営業所のことも好きだ。
世の中にはもっと仕事が大変なひとがたくさんいて、小雪が恵まれている方だとも、分かっている。
ただ、2年目とはいえ分からないことも多く、所内の人たちから「川本さんがいれば」という落胆を感じるたびに。
昼休憩の合間を惜しんで仕事をしても、日々遅くなっていく帰宅時間に。
少しずつ心がすり減って、けれど誰も悪くないなんてことは分かっているから、そんなことを相談できる人もいなくて。
始業のベルを聞きながら、今日は何時に帰れるのだろうかと、もう一度内心で溜息を押し殺した。
⬜︎⬜︎
ただいま、と小声で自室の扉を開けられたのは、結局22時を回った頃だった。
一人暮らしをはじめてから「おかえり」の返事が返ってきたことは一度もなかったが、それでも長年の染みついた習慣は変えられず、帰宅時には無意識に「ただいま」と口にしてしまう。
カチャリと家の施錠をして、リビングへと向かう。
外出時にも施錠をしているが、決して軟禁したいというわけではないので、ノワに鍵の開け方は伝えていた。
家の扉を開けるたびに、今日こそは居なくなってしまっているかもしれないと勝手に心配して、そうして大人しく部屋でテレビを見ているノワを視認してほっとする、というのを三日繰り返している。不毛だ。
そろり、とリビングの方のドアを開けると電気は点いており、テレビを見ていたらしい琥珀色の瞳がこちらを向いた。
今日も元気そうだ。よかった。
「ノワ、ただいま」
これも無意識に言ってしまっているが、返答がないことは分かっているため、そのままキッチンへと向かう。
昼用に作ってあった焼きそばと、冷凍庫に入れていた冷凍専用のお弁当セットを食べた痕跡があり、ひとまずほっとする。
小雪の帰宅が20時よりも遅くなる時には、必ず先に冷凍庫に入れてあるものを好きに加熱して食べていてほしいと伝えてあったのだ。
勿論それ以外にも、どんな時間でもお腹が空けば家の物は何でも食べていいと、小雪なりのジェスチャーを駆使して説明していた。
明日はようやく待ち望んでいた休日なので、冷凍ではない美味しいものをノワと食べて、ノワの服を買いに行って。
(そうして、ノワにもう一度忠告を試みて、成功したら今度こそ警察に相談しよう)
こんな毎日くたびれてろくに話もできない女のところでは無く、彼は彼の家族と幸せに生きるべきなのだ。
うむ、と決意を新たにして、それはそうと自分も何か食べなければと冷凍庫を開ける。
「コユキ」
珍しい、とまず真っ先に思った。
この4日間、こくりと頷くことはあっても、ノワがその声で小雪の名を呼ぶことも、そして何か言葉を口にすることもほとんど無かったのだ。
「ノワ?」
どうしたの、と慌てて振り返ると、座って静かにテレビを見ていたはず少年は、思いの外すぐそばに立っていた。
「おかえ、り」
その心地よい声で紡がれた言葉の意味が、すぐには分からなかった
おかえり?
「ノワ、?」
日本語はおろか、ドライヤーもペットボトルも見たことがなかった少年の口から、突然聞き覚えのある言葉が出てきた。ような気がした。
(夢?)
聞き間違えだろうかと混乱した小雪に、ノワはテレビを指差した。テレビで聞いて覚えた、ということなのだろうか。
小雪が毎日口にしていた「ただいま」を覚えて、その返答を学んだということなのか。頭の回転が良すぎるというか、天才だろう。
「コユキ、おかえり」
まともに返事も出来ずにいた小雪に、もう一度紡がれたその言葉は、いつぶり聞いたのかも分からない懐かしい響きだった。
「おかえり」の意味を、理解しているというよりは、きっとテレビで「ただいま」の返事は「おかえり」なのだと音で覚えただけなのだとは分かっている。
分かってはいるけれど。
一人暮らしをしてから久しく聞いていなかったその言葉は、小雪自身でも驚くほどに、疲弊した胸の奥に染み渡った。
悲しくもないのに何だか涙が出そうになって、あわてて目元を拭う。
「コユキ?」
違った?と言いたげなノワの瞳に、大きく首を振って努めて笑顔を浮かべる。
「ただいま、ノワ」
この頭の良い生き物が、小雪の忠告を理解できるようになるまではきっとすぐだ。
とても良いことで、けれどもやっぱり少しだけ寂しいと、心の隅で呟いた。