はじめまして、の11月③
ちらり、と洗面所の方を見てみたが、まだ出て来る気配はないようだ。小雪の借りているアパートは、玄関から入って突き当たりがお手洗い、そして左手にある扉を開けるとリビング、その奥が寝室へと繋がっているタイプの1LDKだ。
洗面所と浴室に繋がる扉もリビング内にあるため、着替えを終えて扉を開ければ、すぐにリビングに出られる構造となっている。
まず迷うことはないだろうと判断し、下着を取り出したまま放置していたコンビニのレジ袋を開けて、すぐに食べられそうなもの以外は冷蔵庫へと片付けた。
そのまま冷凍庫を開けて、先週末スーパーで購入した冷凍うどんを1食分だけ取り出してそのままレンジに入れる。
余談だが、小雪はこの5食入り冷凍うどんを愛している。お湯で茹でなくても良い上に、袋ごとレンジに入れられる手軽さ。味のアレンジがしやすく、そして美味しい。
平日は疲れて自炊をする元気がなく、コンビニ弁当で済ませてしまうことも多いが、同じくらいの頻度でこの冷凍うどんにもお世話になっていた。
小鍋を取り出して水とめんつゆを入れ、二口コンロの片側を使用して火にかける。その後野菜室で少しだけ萎びているネギを発見し、使おうかどうかを迷っていたところで。
ガラリと、洗面所の扉が開いた。
そろりと中から出てきたこども、もとい少年の姿を見るに、小雪の用意したスウェットは問題なく着れたようで、少し大きいかなというぐらいの着用感だ。しばらくの間着るくらいならば十分だろう。
やはり先ほど見た光景は夢ではなかったようで、相変わらず特等の美少年ぶりだが、入浴したからか血色も良くなったようでほっとする。
「あ、髪乾かさないとね」
濡れた髪のまま、所在なさげに立ち尽くしていた少年の手を引いてローソファへと座らせ、そのまま棚から取り出したドライヤーを手渡した。手に触れる際、先ほど洗面所で遭遇したことで怖がらせていないだろうかと心配したが、注意深く瞳を観察しても、怯えや嫌悪が滲んでいないことにほっとする。
付近のコンセントにプラグを差し込み、これで準備完了だ。
ドライヤーをまじまじと見ながら、使い方が分からなそうな少年の姿に、本当にどこの国から来たのだろうかと不思議に思う。
少年の手からドライヤーを抜き取って、スイッチの場所を見せるようにしながらドライヤーの電源を入れた。
ぶお、と温かい風を出すそれを、少し離れたところから側頭部に当ててみると、少年はびくりと肩を揺らして目を丸くした。
「ふふ、大丈夫だよ」
なんだか無防備なその姿がかわいくて、思わず笑みが溢れる。
小雪に弟妹はいないが、弟や妹がいればこんな感じだったのだろうか。
ドライヤーの風に靡く髪は、近くで見てもやっぱり綺麗なミルクティー色だ。一本一本の髪が細いのか、櫛を通していないはずなのに驚くほどサラサラと風に揺れている。
前髪は瞳に少しかかるくらいの長さで、邪魔なのか先ほどは横流しにしていた。横髪や後ろ髪は肩につくほどの長さは無いが、街で見かける男の子達よりは少しだけ長めだと思う。
(やわらかい髪だな)
手触りの良い髪を、温風が通るように時折かき混ぜながら乾かしていく。
それから暫く同じ動作を繰り返し、半分ほど乾いたかなというところで、ドライヤーを少年に手渡した。
「あとは自分でできる?」
意図が伝わったのか今度はこくりと頷いて、少年は小雪の手からするりとドライヤーを受け取ってくれた。よしよし。
加熱したままの出汁の様子を見に行くと、ぐつぐつと少し温めすぎたくらいには煮えているようだった。
とうにレンジでの加熱が終わったうどんを取り出して、温め直すつもりでそのまま鍋に投入する。冷蔵庫から取り出した卵を一つ割り入れて、少し待ったら完成だ。
小鍋から大きめの椀に中身を移し替えて、リビング中央にあるローテーブルへと運ぶ。
ローテーブルの目の前に配置したローソファに座る少年は、ちょうど髪を乾かし終えたようでドライヤーの電源を切っているところだった。知らない物は多いが、少年は頭の回転が良いのか理解が早い。
「うどん、食べる?」
出会ったばかりの腹の音を思い出すに、おでんだけではなくもう少し食べた方が良いのだと思う。けれどカロリーの塊のようなものではなく、消化の良いものから順に食べた方が無理のない気がしてうどんを用意してみたのだ。
勿論少年が、今日はもうこれ以上食べられないという反応をした場合には、小雪が完食するつもりで。
箸は難しいかなと判断して、フォークを手渡してみる。
ドライヤーを傍に置いて、フォークを受け取ってくれた少年は、そのままうどんを食べ始めた。うどん麺はつるつるとしているため少し食べずらそうだが、パスタを食べるようにくるくるとフォークに絡めて、器用に食べているようだ。
とりあえず大丈夫そうかなと判断し、小雪もコンビニで買った弁当をレンジで加熱してローテーブルに置いた。
ローソファは一応2人掛け用だが、会ったばかりの女が真横に座るのも怖いかなと思い、部屋の隅にあった座布団を引っ張り出して少年の対面に座る。
ローテーブルの方は2人分のご飯を置いても余裕があるくらいの大きさなので、同席しても問題はないだろう。
弁当と共に持って来た小皿に、小雪の弁当に入っていた唐揚げと卵焼き、そしてサラダを半分取り分けておく。うどんもうどんで美味しいが、目の前で違うものを食べる人間がいれば、そちらも食べたくなるものなのだ。
これも良かったらどうぞ、と少年の前に小皿をスライドさせておき、小雪もようやく食事にとりかかった。
残業からくたびれて帰路に着いた20時過ぎに少年を発見してから、なんやかんやでもう21時半になろうとしている。お腹もぺこぺこになるわけだ。
(これからどうしようかな)
空腹に染み渡る炭水化物をもぐもぐと食べ進めながら、これからのことを考えてみる。
あまりの状態に思わず連れ帰って来てしまったが、勿論少年をこのままにはしておけない。
もしかすると少年の親族が捜索願いを出しているかもしれないし、そうではなかったとしてもきっと、一時保護や然るべき機関との連携を取ってくれるだろうから、やはり警察に相談するべきなのだろう。
(通報するときっとすぐに来てくれるだろうから、少年が一通り食べ終えてから電話しよう)
ちらり、と少年の方を見てみると、もぐもぐと小皿に取り分けた唐揚げを食べているところだった。リスみたいでかわいい。
「おいしい?」
小さい子にそうするように聞いてみると、少年は綺麗な顔を少し傾げた。やはり言葉は通じていないらしい。
おいしいですか、のジェスチャーは難易度高いなと思ったところで、そういえばこの子はどこの国の子なのだろうと改めて思う。
警察を呼ぶにしても、ある程度意思の疎通ができないと状況説明が難しいだろう。警察側で特定してくれるのかもしれないが、できることならバイバイする前に小雪だって少年からの言葉を聞いてみたい。
ご飯中にお行儀がわるいと自覚はしつつも、卵焼きを口に入れながらもう片方の手でスマートフォンを手にした。
翻訳アプリと検索して一番上に出て来たものをダウンロードし、分かりやすい方が良いだろうとチョイスした「おはよう」という言葉を、目についた外国語から順に変換していき音声出力させてみる。
科学の進歩ってすごい。
翻訳した言語をスマホに発音してもらうたび、少年は意味がわかるというよりも、スマホから音声が出ることに驚いたような顔をしている。
髪や瞳の色からなんとなくここの国かな、と思っていた国全ての翻訳に対して、どれもピンと来てはいないようだった。むむむ。
まずはもう少し範囲を絞ろうと思い、眉を寄せながらスマートフォン上で「世界の髪色 瞳 国」というワード検索をかけたところで。
「ーーー、ーーーーー?」
低すぎず高すぎず、心地よいテノールの声が聞こえた。
(少年の声?)
すぐに顔を上げて少年の方を見ると、少年はこちらを指差し、もういちど「ーーーーー?」と形の良い唇から、さきほどの心地よい声で言葉を発した。
二度聞いてもさっぱりなんの言語なのか分からないし、何を意味しているのかも全く分からない。
けれど、ずっと沈黙を守っていた少年の声を聞けたことが、少年が言葉を発しても良いと思ってくれたことが、なんだか無性に嬉しかった。
しかし意味は分からない、と首を傾げる小雪に、少年は小雪の方を向けていた人差し指を自身へと向ける。
「ーーーーーーーー」
うむ、分からない。
分からないというか、耳慣れない発音が多すぎるというか、言葉を聞き取ること自体がまず難しい。
引き続き分からない、という顔をした小雪に、もう一度少年の言葉が向けられた。
「ーーーーァーーワ」
もう一度同じ言葉を、今度はゆっくりと発音してくれたからか、先ほどよりは聞き取りやすくなった。
ただ前半部分が特に難しい。
「ほにゃらららアーワ?」
聞き取れたニュアンスで復唱を試みた小雪に、少年は呆れたように目を細めた。
折角口を開いてくれなのにごめん。どうか見捨てないでほしい。
「ノワ」
「のわ!」
短い単語をゆっくりと発音してくれたため、今度はよく分かった。
嬉しくなって笑顔で復唱した小雪に、少年はこくりと頷いた。
少年はもう一度自身を指差し「ノワ」と口にしたあと、そのまま小雪を指さして首を傾げた。
なるほど、名前だ。
ここまで丁寧に表現してくれると、流石に小雪でも分かる。少年は自身の名前をノワだと教えてくれて、そして今度は小雪の名前を尋ねているのだ。
先ほど教えてくれて、けれども小雪が聞き取れなかった言葉は、恐らく家名やミドルネームを含んだ彼のフルネームだったのかもしれない。
なかなか聞き取れない小雪に、その中から名だけを取り出して教えてくれたのだと思う。
(うれしい)
少年が名前を教えてくれたこと。
少年が名前を聞いてくれたこと。
心がほわほわとして、なんだかとても嬉しいと感じた。
「小雪」
自身を指差して、少年…ノワがそうしてくれたように、ことさらゆっくりとした発音を心がけた。
「コユキ」
「合ってる!」
少しカタコトっぽいが、難なく復唱してみせたノワに感動する。
例えるなら、ずっとそっぽを向いて話したこともなかった親戚の子から、突然話しかけられて名前を呼んでもらったような、そんな感じだ。とにかくうれしい。
ノワ。
もう一度小さく口にすると、すんなりと馴染んだその柔らかな音の並びは、琥珀色の瞳を持つ宝石のような少年にぴったりだ。
保護して身元を探してくれるのであろう警察側ではその限りではないかもしれないが、小雪にとっては、言葉は通じないがこうして名前を呼んでくれるのであればもう十分な気がした。
気がつけばノワの目の前にあった食事は綺麗に無くなっていて、もう少し食べるかとジェスチャーで聞いてみるも、お腹が膨れたのかノワは小さく首を振った。
泥を落として、お腹いっぱいになるまでご飯を出して。
小雪にできるのはここまでだ。
自分でノワが食事を終えたら警察に保護を頼もうと決めたのに、いざその時が来るとなんだか寂しい。
身元が分かったら教えてもらえるだろうか。彼が落ち着いた頃にもう一度だけ会いに行って、元気な姿を見たいと思う。
一晩預かった子猫を飼い主に返す人は、きっとこんな気持ちなのだろうとよく分からない感傷に浸りながら「ノワ」と声をかける。
「今から、ノワの家族を探してくれる人たちを呼ぶからね」
ジェスチャーでの表現は難しくて諦めたが、警察に電話をする前に一言声をかけて、スマートフォンを取り出した。
まだ出会って少ししか経っていないけれど、どうか彼の家族が見つかって、そして幸せになってほしいと心から願う。
「コユキ」
「ん?」
そういえば人生で警察に電話したことって無かったなと、やけに緊張しながら110まで入力して、あとは発信ボタンを押すだけとなったタイミングで。
名前を呼ばれたからどうしたのかなと顔を上げると、宝石のような瞳を伏せたノワが、小雪の左手にそっと触れた。
男性が女性をエスコートするようにして、小雪の左手をノワの手のひらでそっと支えている。
「ノワ?」
返事のないノワの視線を辿ると、彼は小雪の人差し指を見ているようだった。
じわりと血が滲む切り傷に、そういえば先ほど段ボールで切ってしまったことを思い出す。
折角コンビニに行ったんだから、その時に絆創膏でも買ってくれば良かったなと、まるで他人事のように思う。
(心配させてしまったのかな)
見た目は痛そうだが少しピリリとするくらいで、実はそんなに痛くはない。ノワのことで頭がいっぱいで、実際今の今まで忘れていたくらいなのだ。
「ーーーーーーーーーーー」
何かを話している、というよりは、まるで詠唱のような朗々としたその音の響きに聞き惚れていると、ふいに左手に温かさを感じた。
寒い日に温かいお湯に手を浸けたような、そんな心地よさを不思議に思って自身の左手を見てみる。
すると人差し指にあった切り傷が、少しずつ塞がっているではないか。
「っ」
びくりと肩を揺らし、反射で手を引き抜こうとするもノワの手がそれを阻む。
しっかりと掴まれた左手を、小雪は言葉も出せないまま眺めることしかできない。
夢を見ているのではないだろうか。
だってこんなの信じられない。
ゆるゆると塞がった切り傷は、傷跡になることもなく、元の健康な皮膚に戻っていく。
これで終わり、と言わんばかりにノワから解放された左手を見ると、もうどこに怪我をしていたのかも分からないほど、傷一つとて見当たらない。
それこそ、魔法でも使ったとしか思えないほどに。
「ノワ、」
これは、本当に現実なのだろうか。
ノワは、"どこ"から来たのだろうか。
どくり、と己の心臓が大きく音を立てるのがよく分かった。
わあすごい、なんて呑気に思えないのは、これが物語の世界ではなく現実だからだ。
魔法のようなそれをすぐに受け入れることを、小雪の生きてきた21年間の常識が許さない。
(こわい)
魔法なのか超能力なのか、その力を何と呼称するのが正しいのかは分からない。
ただ何れにしても、傷を無かったことにできるその力が露見すれば、どうなってしまうのかは小雪にだって想像できる。
秘密裏に研究されるのか、それとも公になりどんな傷も治す救世主として祀られるのか、世界の要人の専門医として囲われるのか。
どこからその力が露見するのか、にもよるのかもしれないが、どうしたってこの言葉も分からないこどもに負荷がかかり、そしてこの先の自由が奪われるのは間違いないだろう。
そんなの絶対にだめだ。
勿論その力を何に使うのかは、ノワの意思で決められるべきだが、よく分からないままに周りの色んな大人から自由を縛られるのは絶対に違う。
警察に連絡して本当の保護者を探してもらうにしても、その過程でこの力が露見すれば、日本の常識がひっくり返ってしまうだろう。
科学で成し得ないことを、可能とする力があると。
ジェスチャーで伝えるには難しすぎるその忠告と理由を、言葉を介さずにどう伝えればいいのだろうか。
「コユキ?」
しばらく小雪が黙り込んでしまったからか、ノワが不思議そうにこちらの瞳を伺っている。
それはそうだろう。
彼は明らかに善意で傷を治してくれたのに、こちらは感謝するどころか怯え、そして途方に暮れているのだから。
ごめんね、と小さく口にする。
「治してくれてありがとう、ノワ」
まだ信じられない気持ちの方が大きいけれど、それでも傷を治そうとしてくれたその気持ちが嬉しいこと、ありがとうと思っていることは本当だ。
気持ちが伝わるようにと、ノワの手をぎゅっと握りながら、もう一度「ありがとう」と伝える。
守らなければ。
少なくとも、この現代世界では、人前でその力を使ってはならないと彼が理解できるまでは。
「ノワ。もう少しだけ、私と一緒にいてくれる?」
人間を拾った。
具体的に言うと、仕事帰りに最寄駅構内のコンビニに寄ってレジ横のおでんをしこたま買い込み、さて帰って晩酌といきますかなと帰路についていたところで。
そうして連れてきたのは、ミルクティー色の髪に蜂蜜を溶かしたような琥珀色の瞳がよく似合う、宝石のように美しい少年で……ーーそしてどうやら、魔法使いのようだ。
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