はじめまして、の11月①
人間を拾った。
具体的に言うと、仕事帰りに最寄駅構内のコンビニに寄ってレジ横のおでんをしこたま買い込み、さて帰って晩酌といきますかなと帰路についていたところで。
「うわ、何あれ警察呼ぶ?」「いや放っておけよ、ホームレスか何かだろ」とすれ違った男女の声が耳に入り、反射で目を向けたその先に、泥だらけで座り込んでいる人間がいたのだ。
人間、と呼称したのは、顔を伏せて身体を小さく折り曲げていたため、老人なのか子供なのか、彼なのか彼女なのかもすぐには分からなかったからだ。
何よりも、通常の日常生活では考えられないほどに泥まみれである。街灯付近とはいえ夜の暗さがそう見せているのかとも思ったが、バケツいっぱいの泥を頭から被ったと言われた方が納得するほどに、髪にも身体にも固まった泥がこびりついている。
大通りから外れているため人通りは多くないが、そのあまりの異様さに、たまに通りがかる歩行者たちも先ほどの男女と同様、そそくさと通り過ぎているようだ。
日常には無い光景から目が離せなくて、けれども走り寄って安否を確認するほどの度胸も無くて。
家に帰るには目の前を通り過ぎる必要があったが、どうしようと逡巡している間に完全に人通りが無くなってしまった。
呼吸音だけがかすかに聞こえる静寂のなか、微動だにしなかった影がピクリと揺れる。
(こわい)
そう、本能的な恐怖を感じた。
柳小雪は、己をごく一般的な乙女であると自負している。
東京の短大を卒業して、すぐに都内の中小企業で事務として就職。趣味は読書で、特技は歌唱。
生まれて21年間、人を殴ったことも無ければ殴られたこともない、そんな非力で平凡な女だ。
あの泥の塊が襲いかかってくれば2秒で負ける自信があるし、おそらく恐怖で声を出すこともできないだろう。
けれどそのまま放っておくと死んでしまうような気がして、一旦帰宅したあとに警察に電話をして保護してもらおうと決めた。
見捨てるわけじゃないんです。
後で必ず然るべき機関に相談します、ごめんなさい。
そう誰が聞いているわけでも無いのに心の中で言い訳を重ねながら、足早に歩を進める。
やけに緊張しながら進むその道は、実際には非常に短い距離だったが、体感としては今までで一番長く感じられた。
ようやく通り抜けた、と一息ついたその時。
ぐうう、と静寂の中で響いたその音に、思わず振り返る。
振り返って、後悔した。
折角、意を決してここまで来たのに。
折角、もうすぐ家に帰れるところだったのに。
けれど。
もう一度ぐううと鳴り響いた音を隠すよう、更に小さく身体を折り畳もうとするその姿を見て、気付けば足が勝手に動いていた。
「あの、これ。良かったら食べてください」
ガサ、と晩御飯用に購入したコンビニのレジ袋を丸ごと差し出す。お茶とビールとおでん、あとはおにぎりが入っているはずだが、こんなことならもう少しお腹に溜まりそうなものを買えばよかった。
泥だらけのその人は、びくりと身体を揺らすと、ずっと膝の上に埋めていた顔をゆっくりと上げた。
現れたのは、思わず息を呑むほどにうつくしい、蜂蜜を溶かしたような、透き通る琥珀色の双眸。
夜の中であってもなお、いや夜だからこそなのか、薄暗い景色の中で一等にその宝石のような瞳が際立っている。
いやそれよりも、だ。
顔もまた、髪と同様あちこちに泥がこびりついているため造形や性別までは分からないが。それでも目元や首元周りの肌、体つきを見て確信する。
こどもだ。
見目から年齢を判別するのは難しいが、小学生くらいだろうか。いずれにしても、こんな泥まみれで一人きり、道端でお腹を空かせていても良いとは到底思えない。
声をかけたことで、先程までの得体の知れない人間に対する恐怖は霧散し、代わりにどうにかしなければ、と強く思う。
親御さんが探しているかもしれないから、やはり警察に相談だろうか。泥でよく分からないが、怪我をしていれば、程度によっては救急車も呼んだほうが良いのかもしれない。
あまりに日常には無い事態に、慣れていない頭が回らない。どうしようかとスマートフォン片手に逡巡していると、またぐう、という切実なほどの腹の音が聞こえた。
視線を戻すと、こどもは感情の読めない瞳で、小雪が差し出したレジ袋を眺めているようだった。
「これ、食べてていいからね」
レジ袋の中からおでんが入った容器と、割り箸を取り出して渡してみる。
しかしこどもは、受け取らないし喋らない。相変わらず、宝石のような瞳からは何の感情も読み取れないままだ。
まるで何を言われているのか分からない、と語るような沈黙に、ようやくこちらの言葉が通じていない可能性に思い至る。瞳の色からすると、ハーフか外国籍の子供なのだろう。日本語が分からない可能性は十分にあった。
なるほど、と回らない頭で妙に納得しながら、容器の蓋を開けて、割り箸の外袋を開封する。もわ、とまだ温かい湯気とともに、出汁の良い匂いが鼻腔をくすぐった。
お腹空いたな、と思いながら、けれどもこちらの何倍も空腹だろう目の前のこどもの前で、大根に箸を入れる。一口大に切り分けたそれを、こどもの目の前に運んだ。
近づくとツン、と鼻腔に届いたのは、暫く風呂に入っていないような、汗と泥の入り混じった臭い。
口周りにも固まった泥が付着していたが、構わずにそのまま口元まで大根を差し出してみる。
「はい、どうぞ」
「…」
たっぷり3分ほどは黙り込んでいたこどもが、やがて諦めたように口を開けた。よかった、1分を超えたあたりから手がプルプルと震えていたので助かった。
雛鳥にご飯を与えるように、えい、と大根をこどもの口に放り込む。まだ容器の底は温かいが、コンビニで購入してからここまでの時間で少し冷めている大根は、そのまま食べても火傷はしないだろう。
はふ、と大根を咀嚼するこどもを観察する。
相変わらず泥まみれで、顔の造形や表情はよく分からない。それでも何の感情も灯していなかった瞳に、少しだけ生気が戻ったような気がした。
言葉が通じないほど日本に慣れていないのであれば、容器ごと渡しても箸を使えないかもしれないと判断し、そのまま二口目、三口目と一口大にしたおでん達を口に放り込んでいく。
途中手渡したペットボトルのお茶を、これが何か分からない、というような反応をするものだから、キャップを開けた状態で手渡してみた。地理に明るくない為どこの国かは分からないが、ペットボトル飲料の無い国から来たのだろうか。
ジェスチャーでペットボトルを飲む真似をしてやると、恐る恐る口をつけて飲み始めたようで、ひとまずほっとする。
お茶を挟みながら、容器いっぱいに買ったおでんが無くなるまで、ひたすら切って与えてを繰り返し、ようやく一息ついたところで。
(これからどうしよう)
追加で手渡したおにぎりをガツガツと食べているその必死さを横目で見ながら、最早他人事とは思えなくなったこどもの今後を思案する。
挙動を見ている限りでは、すぐに救急車を呼ばなければいけないような怪我は無さそうだ。
警察に相談するにしても、まずは身体中にこびりついている泥をどうにかしてやりたい。
しかし銭湯に連れて行くにも泥まみれすぎて入れないだろうし、公園の水道で身体を洗うには11月下旬の今では寒すぎる。
これが物語のヒーローならば、泥まみれの人間を発見したその足で家に連れ帰り、すぐにでも温かい湯と食事を用意してやるのだろう。
しかしここにいるのは、何の覚悟も度胸もない、残業でくたびれて帰路についていただけの平凡な女だ。
だから自分なりに考えて考えて、それを即断できなかったことを恥じながら、ようやくその言葉を口にした。
「うちにおいでよ」
通じないとは思いつつ、けれどもあえて口に出した確かな言葉と共に、子供に片手を差し出した。
双眸を瞬いて、なにが起きているのか分からないような顔をしたこどもを辛抱強く待つと、やがて力の入らない手が重ねられた。
重なった手から泥が溢れ落ちる様を見て、ビクリと肩を揺らしたこどもの手を、離さないように強く握る。
蜂蜜を溶かしたような色のうつくしい双眸が、迷子の幼子のように揺れた。
もう何だって構わない。
この子が元気になるのなら。
温かい湯に浸かって、お腹がいっぱいになるまで温かいご飯を食べて。
それから、これからのことを考えよう。