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イケメンチャラ男とポンコツチョロイン

シュヴィップボーゲンを覚えてる

作者: 空原海




「そんじゃ、クリスマスマーケットに行こうぜ」


 これまで二人の間に漂っていた、忍耐や鬱憤に不満なんていう重苦しいものは、最初から少しも存在しなかったかのように。

 (たかし)さんは軽やかに言った。






 日が暮れてから家の外に出れば、目の前にすぐ、光の洪水。

 庭に置かれた雪だるまやトナカイ、シンボルツリーや壁に光の雪を投影するプロジェクター。ベランダや窓を飾るLEDのツララ。

 気合いの入った自宅イルミネーションを通り過ぎれば、駅へ近づくにつれて街路樹が青いLEDで光り輝く。

 電車に乗り込むと、吊り広告や窓上ポスターといった広告が、百貨店やアミューズメントパークのクリスマスの商品にイベントを見せびらかし、車内ビジョンでもクリスマスソングが流れる。


 街中がクリスマスの色を帯びている。


 充さんもあたしも、そのことにはとっくに気がついていた。だけど口にはしなかった。

 やるべきことが、あまりに山積み過ぎたのだ。

 一度クリスマスの存在に目を向けてしまっては、途端に投げ出してしまう。

 獣の本能のような感覚で、お互いに理解していた。


 充さんは土日休み。あたしは木日休み。

 日曜日が二人揃う休日で、充さんは休日出勤も珍しくない。

 仕事の延長線上の交友関係もあるし、その逆もある。そしてそれらすべてがとても大事。

 私的時間の切り売りとは毛色が違うけれど、充さんはできる限りの誠実さでもって友情を示す。


 二人何も予定のない休日は、ついこの間まで、終わりの見えない打ち合わせが、ひたすら詰め込まれていた。

 資金計画に始まり、その他、とてつもなく楽しくて気分が高揚すること。とてつもなく面倒で、うんざりして投げ出したくなること。意見が合わずに不穏になること。全部混ぜこぜのグチャグチャ。

 理想と現実の妥協点を探って落ち着くまで。

 それから、これでいいと納得するまでの、ありとあらゆる話し合いに時間を費やしてきた。


 それでようやく、一つ目の登頂の旗を立てたところ。


 登り始める前までは、気軽なハイキングのつもりで。ティーシャツにジーンズ、履きつぶしてソールのすり減ったスニーカーといった出で立ち。

 登り始めて早々に、ベースレイヤー、ミドルレイヤー、アウターレイヤーに登山靴を身に着けるべきだったと後悔する。

 それから登山用ザックにレインウエアも水筒に行動食、非常食に絆創膏、コンパスに地図、トレッキングポールにグローブを用意しなかったことに泣きを見る。


 万事がその調子だった。

 お互いクタクタ。

 何か別の、楽しくてウキウキすることが必要。それも急いで。


 輝かしい『二人の未来』を夢見て始めたことのせいで、すっかり消耗してすり減り、色あせ始めた『二人の未来への展望』。

 麗しく匂い立つような希望に戻さなければいけない。

 さぁ、()()()




 週末はどうしようか。何かしなければならないこと、したいことはあるか。

 夕食時に互いの予定を確認すれば、お互いに特に何もなかった。


 久しぶりにお互いが一日まるまるフリーな休日。

 久しぶりにデートらしいデート。


 だから充さんは、二人に必要な、楽しくてウキウキする、二人のこれからが明るくしか見えなくなることを提案した。

 それが「クリスマスマーケットに行こうぜ」


 充さんの素晴らしく愛すべき長所。たくさんあるうちの一つ。

 (かじ)を切るタイミングを見逃さない。






 そしてやって来ました。クリスマスマーケット、イン・ジャパン。

 クリスマスマーケットは、ドイツやオーストリア、プラハなどを中心に毎年開催される、年末の夢のような一大イベントだ。

 ヨーロッパのクリスマスマーケットでは移動遊園地がつきもの。ここにはない。


 とはいえ、それでも目の前には、ドイツ、ニュルンベルクのクリスマスマーケットによく似た景色が広がって、キラキラと夢を振り撒いている。


 クリスマスマーケットといえば、屋外。

 もちろん、寒い。

 とてつもなく寒い。

 最強クラスの大寒波到来だって、天気予報で聞いてしまった。

 今夜は雪が降るそうだ。平野部でも積もるらしい。

 そんなの寒いに決まってる。


 西ヨーロッパ風のきらきらクリスマスは大歓迎。西ヨーロッパ風の寒さはノーセンキュー。


 それだから、(たかし)さんは黒ビールにニュルンベルガー。あたしはグリューワイン。

 お昼を食べてからそれほど時間は経っていなかったけれど、着いてすぐに買った。


 紙コップに口をつけると、スパイスと柑橘類の香りが鼻腔をくすぐる。

 口に含み喉を伝うと、温かなグリューワインが、その通ったところ、くちびる、喉、胸元、と順々に体をほっこりと温めてくれた。


「クリスマスマーケットといえば、レープクーヘンにシュトレンだろ。あとはマジパン巻き込んだ揚げパン。どっかにねぇかな」


 直火で焼いた、香ばしい薫りのするニュルンベルガーをぺろり。

 添え物のザワークラウトもすべて食べ終えると、充さんは紙皿を小さくたたみ、キョロキョロとあたりを見渡した。

 その様子は、クリスマスに浮かれた少年のようで、がっちりと大きな体との対比が、とてつもなく可愛い。


 でも、そのラインナップ。ちょっと食べ過ぎじゃない?


「そんなに食べるの?」

「レープクーヘンもシュトレンも日持ちする。レープクーヘンの焼きしめたやつはオーナメントにもなるぜ。お菓子の家(ヘクセンハウス)。あれもそうだろ。揚げパンは――まあ、食うかな」


 途中までよどみなく答えていた充さんは、目があったところで、少しバツが悪そうに肩をすくめた。

 そして片方の眉と片方の口の端をあげる。


「いますぐ食べたい?」

「いや。すげぇ腹が減ってるってわけじゃない」

「それじゃ、色んなもの、ぐるーって見て回ろう。そのうちに見つかるよ。それでどう?」

「それでいい。部屋に飾るもんも探そうぜ」

「うん」


 ビールを飲み終えた充さんが、あたしの残ったグリューワインを飲んでくれた。


「そんじゃ行くか」


 紙コップと紙皿を屋台前のゴミ箱に捨てると、充さんが手を差し伸べてくれる。

 手袋をしていない手同士。指を絡めてぎゅっと握る。






 隣りを見上げれば、光によって表情を変える神秘的な色合いの目を細め、形のいい口元までほころばせている充さん。


 まっすぐな鼻筋と長いまつ毛。すっきりとした頬。

 出会った頃よりすっかり短い髪の毛は、あちこちメッシュを入れたダークブロンドではなく。就活にあたって黒染めしたときのような、不自然なくらい真っ黒でもなく。

 ザッハトルテみたいな焦げ茶色。生来の髪の色。


 チカチカと点滅するカラフルな灯りに照らされた横顔を眺め、つくづく綺麗な顔をした男だと改めて思う。


 賑やかで華やかなクリスマスマーケットの景色の中。

 溶け込むようでいて、完全に存在の際立つ男。

 彼を目にした女性が繰り返し振り返って、目を丸くしては微笑んだり、うっとりとしたり。友人に囁きかけ、小さい歓声をあげたりする。

 まるでそこだけ、映画の世界。

 スクリーンに切り取られたかと錯覚しそうになる程度には、優れた美貌の男。


 彼の容姿が日本人の母親ではなく、ドイツ系アメリカ人の父親に酷似していること。

 それもきっと、このクリスマスマーケットを急設特別シアターに変えてしまった理由の一つ。





 さっきのあたしの台詞。

 感じが悪かったかもしれない。かもしれないじゃない。きっと悪かった。


 もう一度ちらりと横目をやると、充さんは目をキラキラさせてあたりを見渡している。

 ちっとも気にしていなそうで、こっそり胸を撫で下ろす。

 あたしはいつまで経っても、小さいことを気にしいだ。




『そんなに食べるの?』


 責めたかったわけじゃない。

 可愛いな。もしかしたら浮かれてるのかなって思った。それだけ。


 普段、脂質と糖分はそこそこ控えている充さんは、可能な朝は出来るだけランニングして、毎晩筋トレして。休日の合わない日にはジムに通っている。

 つまり、それなりに体型に気を使っている人だ。


 ホストを辞めてからも、彼の美意識が急激になくなるということはなかった。

 スキンケアはきちんと続けているし、ファッションはアクセサリーが少し減ったのと、かちっとした装いもするようになったくらいで、やっぱりお洋服も小物も靴も、たくさん揃えている。

 ホスト時代のように、クローゼットを開ければ、次々に新顔さん、あらこちらも新顔さんね、はじめましてこんにちは、というわけではないけれど。


 彼のエースだったランさんが、メンズメイクが好きではなかったのと、彼のキャラクターとして似合わなかったから、もともとホストとして出勤するときのメイクは、ごくごくシンプル。

 スキントーンと眉を整える。それだけ。

 今は眉のカットくらい。シェービングと同じ。


 つまりここまでのまどろっこしい説明は、次の言葉を繰り返すため。

 充さんの根本的な美意識は変わらない、ということ。


 だから、充さんがクリスマスマーケットで勢いづいて甘い物を買い占め、暴飲暴食してとんでもないことになりそうだなんて、そんなことは全然思わない。




 BGMに合わせて、小さく口ずさむ充さんは、目の前の光景に夢中。

 そんなところで水を差すのは野暮。

 だけどモヤモヤするし、「なんでも言え。くだらねぇって思うことでも、気になるなら吐き出せ」と小さな子供に教え聞かせるように、何度も言ってくれるから、あたしはその優しさに甘えることにする。

 繋いだ右手をぎゅっと握る。


「どした?」


 振り返った顔は優しくて、笑顔で。髪の色と同じ、ザッハトルテみたいにこっくりと甘い。


「さっきの。責めるつもりじゃなかったの。感じ悪い言い方しちゃったなって」


 さっき? と首を傾げるも、充さんはすぐに、「ああ」と頷いた。


「そんなふうに思ってねぇよ。大丈夫。安心しろ。気にすんな」

「うん。ありがと」


 ふはっと笑う充さんの目尻に、甘いシワが寄り、それからあたしの顔を映すオリーブ色の瞳が、「どういたしまして」と近づいてきた。

 冷たい鼻先がかすめる。


「溜め込まねぇようになったの、進歩だな」


 そう言って、冷たいくちびるも触れた。

 人前でイチャつくのは、進歩ではないと思った。


 ここは日本。たとえクリスマスマーケットで、西ヨーロッパ風の雰囲気が漂っていても、紛れもなく日本。


 仕事柄、渡航したり、海外の方と触れ合う機会の多い充さんには、そこのところ、ちょっと意識を改めてほしい。

 ……なんていうのは、照れ隠し。

 だって、恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。幸せ。大好き。

 胸の中、ひっそりと自分で自分に照れ隠し。

 我ながら。ほんとうに。ほんとうに。

 なんてめんどくさい女。そう思う。


 村上春樹作品の主人公みたいに、「やれやれ」と(うそぶ)いてみる。

 これでは果たして、進歩しているのか。


 充さんが「あそこ入ってみようぜ」と、可愛らしい木製のオモチャが並べられた仮設店舗に向けて、顎をしゃくった。






 クリスマスオーナメントが所狭しと並ぶ、狭い店内。

 二人で雪だるまやサンタ、くるみ割り人形といった、木製の小さなオーナメントを手に取ったり、鼻先を近づけたりして、あれやこれやと物色して回る。


 シャンシャンとスレイベルが鳴らされたり、サックスのうなるBGM。

 赤に緑、金色といったウキウキするようなクリスマスカラー。

 楽しそうな女の子達の「可愛い!」「ほしいー!」「買っちゃえば?」「うーん。どうしよう。迷う〜」と、笑い声。


 その場の全てが、クリスマスというキラキラとした定番。その非日常の高揚感で満ちていて、どれだけ歩き回っても足は疲れず。地面から数センチくらい、フワフワと浮かんでいる。


 なんといっても、繋いだ右手。その温もり。

 ぎゅっと握れば、「ん?」と振り返ってくれるのが嬉しくて、何度も握ってしまう。

 また握ってみると、暖色の光で瞳の色が茶色からオリーブになった、(たかし)さんの温かな瞳とぶつかる。


「なに?」


 慌てて話題を探し、目の前のオブジェに目を留める。


 てっぺんに羽のついた、ツリー状の木工民芸品。

 幾段かに分かれ、それぞれの台の上に天使や羊、羊飼いの子供達の人形、もみの木といったモチーフ、そしてキャンドルスタンドが置かれている。


「これ、映画かなにかで見たことある気がする。ホーム・アローンかな?」

「どれだ?」


 こちらに顔を寄せるものだから、充さんの髪が頬に触れた。

 いつものワックスの匂いと、モンタルのデイドリームの甘くて深い、スパイシーな香り。

 そこに充さんの体から立ち昇る匂いが、ぜんぶ混じり合う。


 名付けて、スウィート・タカシ・フレグランス。

 この上なく大好きな匂い。


 うっかり浸っていると、充さんが繋いだ手に軽く力を込めた。

 あたしは慌てて、繋いでいない手で木工品を指さす。


「これ」

「ああ、クリスマスピラミッドか。ホーム・アローン……どうかな。アメリカ映画だしなぁ」


 最後のほうはあたしに聞かせるというより、自分の中の記憶と対話して独り言ちているようだった。


「これはドイツの伝統工芸品。あのあたりの国のクリスマス映画なら、出てんじゃねぇかな」


 大きな手が伸ばされ、てっぺんの羽を長い指で示す。


「キャンドルに火を点けると、……なんだっけな。まぁ、とにかく火を点けると、このプロペラが回る」


 羽に触れるか触れないかのところで、充さんはぐるぐると人差し指を回す。


「火で?」

「そ。火。……あ、そうだ。火の熱。上昇気流。そんでプロペラが回るんだよ。暗い部屋でやると、陰影がキレイなやつ。気に入った?」


 ここでうん、と言うと「じゃあ買うか」になってしまう。

 値段に素早く目を走らせ、首を振った。


「ううん。場所をとりそうだから」

「ふーん。ちいせぇのもあるけど……。まぁ、円柱型だしな」


 充さんの視線がクリスマスピラミッドの隣りに移動して、留まる。

 その先には、アーチ型の木製キャンドルスタンド。

 キャンドルスタンドといっても、そこに挿されているのは、キャンドル型の電球だ。


 そして、やはり、とても高い。


 大きさや緻密さもあるのだろうけれど、クリスマスピラミッドより、高い。

 しかし充さんの目が輝いている……。


「おっ。シュヴィップボーゲンもある。こっちは? 平べったいから、場所とらねぇよ? クリスマスの雰囲気出るし、おまえの部屋にも合うんじゃねぇ? ほら、窓際。おまえの部屋、窓際になんもねーじゃん」


 うん。

 声のトーンもテンポも上がった。

 これは気に入ったんだな。


 ちなみに窓際に、今なにもないのは、先日まであったガジュマルの木が枯れてしまったからだ。

 何度も充さんが悪気なく蹴っ飛ばすものだから、窓際に避難させたガジュマルの鉢植え。

 それがよくなかったのか、シオシオと元気がなくなったと思うと、あっと言う間に萎れてしまった。


「シュヴィップボーゲンは、窓際に飾るもんだからさ」


 シュヴィップボーゲンという、アーチ型の木工民芸品を手に取る充さんの横顔。弾むような声。


 毎日、贅沢ばかりしているわけじゃない。

 高すぎるってわけじゃない。


 充さんの笑顔、声、匂い。

 寒さ、BGMと人々のざわめき。

 きっとこれを見るたびに思い出すだろう。


 それはすごく、すてきなことだと思った。


「うん。すてきだね。買おうよ」


 ぐるりとこちらを向く充さんのオリーブ色の瞳が、気のせいだろうか。揺れている。


「買う? おまえ……じゃなかった。君江も気に入った?」


 言い直さなくてもいいのに。

 そう思っているけれど、名前を呼ばれることは素直に嬉しいから、充さんの努力を止めたりしない。


 仕事で充さんがLAに滞在していたとき、仲良くなったらしい中東系の男性。充さんはたまに彼とテレビ通話をする。

 そしてその彼は日本語を勉強しているらしい。「よくない。愛する人、『おまえ』と呼ぶ」と主張。

 しばらく沈黙した充さんの横顔を、あたしは紅茶を飲みながら、隣で見ていた。

 それ以来、充さんは意識してあたしの名前を呼ぶ。


「うん。木目の見える白っぽい素朴な色も好き。細い板を何層にも重ねた立体感も好き。木が重なって森みたいになってるのも、森の中に建つ小さな家も、家の中にいる家族団らんみたいな温かい様子も、全部好き」

「そっか」


 納得したように頷くと、充さんの視線は木工民芸品に戻った。

 素朴で繊細でゴージャスで大胆。

 矛盾してる言葉なのに、それらが全部しっくりくるシュヴィップボーゲン。

 誰かさんみたい。


「一番気に入ったのはね。これを見るたびに、今日のことを思い出すだろうなって思ったから」


 木工品を前に、細めていた目が見開かれる。

 充さんが息を吸うヒュッという音が耳に届いた。


 何かおかしいことを言っただろうか。

 強張ってしまった充さんの顔。

 でも繋いだ手が、ぎゅっと強く握ってくる。だからあたしも握り返す。


 目を伏せ、静かに息を吐いて。それからバチっと音がするくらい、強い目力でこちらを射抜く、オリーブ色の瞳。

 言葉の先を促している、と思った。


「充さんが目を細めて、この子を見てたこと。楽しそうにこの子の説明をしてくれたこと。充さんの横顔も声も。屋台から漂うソーセージの香ばしい匂いも、クリスマスソングも、ざわめきも全部。

「この子がタイムカプセルみたいに大事にとっておいてくれて、クリスマスシーズン、この子がクローゼットから掘り起こされる度、今日の思い出が蘇る。この子が全部抱えてくれるから」


 繋いだ手は固く結ばれ、繋いでいない大きな手はシュヴィップボーゲンを持ったまま。


「それが一番、すてきだと思ったの」


 ぎゅっと握った手を小さく前後に振り、見つめ返して充さんの言葉を待った。


「……あのさ」

「うん」


 これから口にする言葉がまるで、ビックリさせて恐ろしくて、見当もつかない惨状を引き起こす、その暴れっぷりに誰も手を出せないような。ヒステリーと暴力がセットになった、早熟ではないアンファンテリブルそのものであるかのように。

 もしくは取り扱いの危険なことは明らかなのに、肝心の取り扱い説明書も、()()()()()()()()は未知の危険物であるかのように。

 充さんは注意深く、とびきり慎重に口を開いた。


「君江にお願いがある」

「いいよ」


 即答すると「聞かねえで頷くなよ」と、コールドスリープからたった今目覚めたばかりの人みたいに、充さんはカチコチに固まった目元や頬をぎこちなくゆるめた。


「このシュヴィップボーゲン、君江に買ってもらいたい」

「よろこんで」

「二人の共同財布じゃなくて」

「もちろん」

「少しはためらえよ」

「なんで?」

「なんでって……」


 言いよどむ充さんを見て、納得した。

 あたしも大概めんどくさい女だけど、充さんも十分、ガラスの少年だ。


「まあ、おまえがいいならいいけど」

「いいよ」

「あっそ。じゃああともう二つお願い」


 充さんは呆れたように、吹っ切れたように投げやりに言った。


「たぶん、俺は毎年、『覚えてるか』って聞く。そしたら『覚えてる』って言ってほしい。おまえがすっかり忘れてても、それでも『覚えてる』って言ってほしい」

「ちゃんと言うよ。『覚えてる』って。充さんが今着てるキャメルのステンカラーコートも、モカのクルーネックのラグランニットも、カーキブラウンのセンタープレススラックスも、黒のパラブーツのミカエルも。全部『覚えてる』って言うよ」

「そこまで求めてねーよ」


 大げさに肩をすくめて、呆れたような口ぶり、眉間に寄せたシワ、への字に曲げた口。

 『強欲スクルージおじさんじゃない』と示したがっているのはわかるけれど、必要以上の拒否反応が、内心喜んでいることを強調している。


 嬉しいくせに。


 でもそれは口にしない。

 プライドの高さも知ってるし、カッコつけて強がりたいんだってことも最近は気がついてる。

 何より充さんは、あたしが()()()()()()()()()()()()()()


「二つ目は?」

「毎年聞くし、何度も聞くけど、毎年、毎回、つきあってほしい」

「毎日だっていいよ」

「それはさすがにうぜーわ」


 これは心からのノーセンキューだ。

 目を合わせて笑い合い、シュヴィップボーゲンをレジに持って行った。






「新居でも飾ろうな」

「うん」

「あー。楽しみ」

「そうだね。着工、いつからだっけ」

「その前に地鎮祭もある」

「うん。初穂料と、近隣の方々に挨拶回りもしなくちゃ。――充さん、初めての戸建て住まいだね。楽しみ?」

「それもだけど。おまえ……君江と俺の家ってのがさ」

「うん」

「人数増えてもいいし」

「準備、整えたもんね」

「そ。あと単純に、もうすぐゴムつけなくていいの、すげー嬉しい」

「そうだね」

「だろ?」

「うん」

「早く家帰りてぇな」

「そうだね」

「わかってる?」


 持参したエコバッグいっぱいの荷物と、それでは足りなくて、店頭で購入した大きな布製の、イベントロゴがプリントされたショッピングバッグ。

 それらを両手に持った(たかし)さんが、あたしの顔を覗き込む。


 オリーブ色の瞳に映るあたし。

 充さんもあたしも、瞳の奥に情欲を灯している。


「わかってるよ。でも引っ越しするまでは、()()()ね」

「君江〜。君ちゃん! 好きだよ。すげぇ好き」

「あたしも充さんが大好き!」

「あー、やっぱ浮かれてる。今日」

「うん」

「荷物が邪魔。今抱きしめる場面だったろ」

「だから持つって言ったのに」

「ヤダ。かっこつけさせろよ」

「じゃあ、あたしがぎゅーする」

「おー。しとけしとけ」


 充さんへのプレゼントのシュヴィップボーゲン。レープクーヘンにシュトレン。

 ドイツの瓶ビールを数本に、トロッケンとトロッケンベーレンアウスレーゼを一本ずつ。

 それから充さんがプレゼントしてくれたマイセン磁器の天使のオーナメント。


 充さんの腰に腕を巻きつければ、大荷物達がバッグの中で、ガチャリと心臓に悪い音を立てた。


「抱きつくの、禁止だね」

「……早く帰りてぇ……」


 大荷物を抱えて、人の溢れかえる電車に乗り込んだ。






「そういえばさ。最近聞かねぇな、変質者」


 何を思ったのか、じっとあたしのコートを見て、充さんが言った。

 いくつもの駅を通り過ぎ、車内の人がまばらになって、ふたり並んで椅子に座ったところ。


「そう?」


 残念ながら、その手の話題が消え去った記憶はなく、首を傾げる。

 充さんはあたしのコートの襟ぐりを掴むと頷いた。


「コートの前を手でおさえてさ。突然声かけてきて、ガバーって前開けたら全裸ってやつ。あれ、今でもいんのかな」

「あー。それは確かに聞かない……」


 同意するものの、いったい何を言い出すのか。

 いたずらっぽく光る目と、片方だけあがる口の端。


「やっぱ、もう一つお願い足していい?」

「えー……」

「なんだよ。即答しろよ」


 だって笑顔がうさんくさい。


「家帰ったらさ。おま――君江、裸コートやってよ。俺、玄関で待ってるからさ。俺がリビング入ったところで『モモンガー!』って」

「モモンガ?」


 なんだその珍妙なおたけびは。


「そのコート。モモンガみてぇだから」


 身幅と袖幅がたっぷりとしていて、ころんと丸いシルエット。

 襟元と折り曲げた袖が黒。全体はライトグレー。バイカラー。

 手を広げるとモモンガみたいだから、確かにこの手のコートはモモンガコートと言われている。らしい。

 だけど。


「そんな変態行為するためのコートじゃありません」


 だいたい、そんなのぜったい寒い。

 いろいろと寒い。


「なんだよ。好きなくせによ」


 いやらしく笑う充さんの顔を目の当たりにして。

 充さんがスクルージおじさんとの差別化を訴えたとき。ニヤけそうになる顔をこらえるために、不自然なくらい厳めしい、しかめっ面をこしらえていたとき。

 あのとき。

 物分かりよくわかったふりをせず。心のままに。


「嬉しいくせに」


 そう言ってやればよかった。


 うらみを込めてじとりと()め上げると、大荷物から解放された、充さんの大きな手が頬へと伸びてくる。

 クリスマスマーケットでは、繋いでいても冷え切っていた手。電車内に長らく留まったことで、すっかり温まっている。

 あたしの頬をひとなですると、そのまま流れるように、充さんの親指と人差し指が、頬肉を軽くつまむ。

 そして(のたま)うことには。


「怒った顔も可愛い――って言ってほしいんだろ?」


 今日の充さんは、やっぱり浮かれてる。どうしようもないくらい。

 だけど、あたしも浮かれてる。どうしようもないくらい。


 帰宅したあとの流れ。その映像がまるで予知夢のように、鮮やかな様子で脳裏によぎる。

 あたしはコートの黒い襟元を深く重ね合わせ、ぎゅっと掴んだ。







すてきなクリスマスを!


「ハルシュタットの青い傘(https://ncode.syosetu.com/n4999hj/)」の対になるクリスマスストーリーです。

併せてご覧いただけると幸いです。

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[良い点] メリークリスマス(いまさら) [一言] 本編の後で二人がまったりと幸せな時間を過ごす光景が見られて楽しかったです。 やり取りもちょっと変わっていると言うか(モモンガとか)二人だから通じるも…
[良い点] ついに来てしまったーー。シリーズ最終話!! うわーん。シリーズロス半端ないです!! でも、この二人がトロットロに幸せになっていて、嬉しかった!! なんかもう甘い甘い!! クリスマスマー…
[一言] 愛し愛され。いつまでも必要やと感じました。 そしてモモンガコート、裸コート(笑) ボクも彼女にしてもらおうと思いました(笑)
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