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ふたごは陽当たりの悪い愛

作者: 式森悠馬

『まだ?どこにいるの』と妹は訊いた。

『いまエレベーターの中』

姉は応えて、腕時計に目を遣り、今が午前九時であることを確認した。また妹が訊いた。

『まだ?』

『いまエレベーターが動き出したところよ』

『早く来て。時間がないの』

『わかってる。焦らさないで』

姉はそう言い返した。しかしその声は実際の空間には伝わらない。エレベーターの中には彼女以外誰もいなかったが、たとえ混雑したスクランブル交差点の真ん中に彼女が立っていたとしてもこの会話が他者に聞かれることはない。彼女たちふたごは、別々の場所にいたとしても意思を通じ合わせることができる不思議な能力を生まれつき具えていた。彼女たちは両親にすらこの特別な能力について一切語らず、二人だけの唯一の秘密として隠してきたけれども、やがて何だか特異なことでもないように思えて二人は何食わぬ顔でそれを使っていた。

エレベーターはかなり長い間移動を続けているように姉には思えた。また妹に急かされると待ち構えていたが、それから妹は何も言ってこなかった。

人を乗せているのを今思い出したようにエレベーターは止まり、彼女が降りるとほの暗い通路は前方と左方に分かれていて、それぞれの通路の側壁には類型的な扉が並んでいた。心はもう妹のもとへ歩き出しているのに、彼女の華奢な二本の脚はなかなか前に踏み出そうとはしなかった。前方の通路を渡った先にあるルーム042で妹は姉を待っている。そこまでの道のりで、引き返してしまいたいという思いと妹に会って役目を果たしたいという思いとが何度も彼女の中でせめぎ合うことになった。もちろん、彼女の心の中ではもう答えは決まっていた。自分に逃げるという勇気がないことも分かっていた。それでも前に進むには、押しのけていく空気の分の抵抗があり、そしてその空気はこの場合とてつもなく重々しく、また刺々しくもあった。

だが、ルーム042とこうして向き合うと、彼女のもつれ合った雑念はどこかへ消え去った。彼女は扉に刻まれた『042』の番号を右手の人差し指でなぞり、その扉の鍵をポケットから取り出して、鍵にも刻まれたその番号を三回抑揚をつけて読み上げた。それから、彼女の右手は食虫植物のようにその小さな鍵を手のひらの内に包み入れた。彼女は「親族です。彼女と会いたいのですが」と受付に話し、名前を言っただけでこの鍵を取得した。受付の女性は「どうぞ」と落ち着いた口調で鍵を渡した後、事務の作業に戻っていった。

なぜ自分の右手がそこまで強く鍵を握りしめていたのか、彼女は理解できなかった。手のひらに乗った鍵は、弱い電灯の不安定な光の下で凹凸の表面が赤黒い光沢に変わっている。ルーム041の扉とルーム043の扉は隣りの彼女に鈍い眼差しを向けたまま、沈黙を貫いていた。まるで死の静寂に怯え、束縛されているかのように。


彼女は扉の前で顔の筋肉を入念にほぐし、妹と会うのに自然な顔つきをつくった。彼女の熱い右手はおもむろに伸びて冷たいドアノブを掴み、扉はゆっくりと開いた。通路の光がルームの入り口付近の暗がりをさらった。ルームの中央にベッドがあったが、中央はまだ闇の中だった。かろうじて姉は俯いた妹の右手だけが見えた。花束を携えている。

妹は姉が入ってくると、すっと立ち上がり姉が妹の容姿を認識するよりも先に姉の顔の前に花束を差し出した。

「プレゼント」

姉はルームの空気の匂いより先に花束のむせるような匂いを嗅いだ。姉はその匂いをまったく芳しいと感じなかった。花弁の向こうに妹の冷たそうな顔があった。薄いまぶたが眼球の上半分を覆い、避雷針のようなまつ毛が生え立っている。眠たそうに見える表情だったけれど、右目の瞳孔が開ききっているのを姉はそのとき視認することができた。

「遅いよ。四十分はかかってる。もうすこし速く行動できないの。そんなに都合悪かった?」

「ごめんなさい。考えごとをしてたの」

「ふん、まあ、いいわ。大事にされてるのね」

姉の顔を見て、妹はきちんと言い直した。

「冗談よ。そう不機嫌にならないでよ。暇だったんだからすこしは付き合って」

妹はにんまりした。

「それよりこれ、あげる。要らないんだ。はなむけか、たむけか知らないけど、こういう頼んでもないものを添えられると頭に来るね」

妹はそう言ったものの、特別怒っているふうには見えなかった。

「分かったわ」

「大事にされてるお礼に、彼にでもあげるといい」

「からかわないで」

妹はまたにんまりと笑った。姉は花束を丁重に受け取って扉のすぐ側に置いた。自分たちふたごについて顧みると、姉にとってやはりこうして妹と再会できるのは他の何にも優って嬉しかった。どのような場所であれ、どのような境遇であれ。彼女は今一度妹の目を見つめた。

「あいさつが遅れたみたいね」

「あいさつ?いや、あいさつはやめてよ。今、あいさつなんか口に出したら別れのあいさつも言わないといけなくなるじゃない。きっとそっちのほうが辛いよ。あなたの気持ちとか正直こちらの立場からするとどうでもいいはずなんだけれど、なんだかちょっとね」

妹が話す様子から姉は目を逸らさなかった。そこにいるのは確かに妹だった。しかし、彼女が知っている妹とは異なっていた。まず彼女は何も身にまとってはいなかった。その裸体は余分な脂肪がすべて削ぎ落とされていて、輪郭と細部が不鮮明で、肌は早朝の誰もいないスケートリンクのようにほのかに青白く光っている。

姉は妹の身体について訊くのは憚られたので、視点を変えて一つ尋ねた。

「ねえ、わたしはふたごの姉だから分かっていたけれど、あなたそんな態度を人に見せなかったでしょう。今のあなたはなんというか」

魔性的で韜晦的、と姉は言葉の続きを心の中で呟いた。

妹は微塵も変わった素振りを見せず、またにんまりした。姉は今日妹と会ってからもう三回ほどその表情を見せつけられていたが、生きていたころの妹の顔がそんなふうに形作られたのを姉は見たことがなかった。妹はむしろ姉の質問を待っていたような、神妙とも言える口調で言った。

「だってもう装う必要はないもの」

妹は首をひねって、つづけて言った。

「とにかく中で話そう。言ったでしょう。あまり時間がないのよ」

妹は手招きしてベッドのほうへ戻っていった。姉は息を整え、慎重に足を踏み入れた。冷気が彼女の肌に触れる。ことさら寒いというわけではなかったが、うっすら不安を煽るような気温だった。扉を閉めるとルーム内はまた何も目視できなくなるほど暗闇が充満した。姉は壁にある照明のスイッチを入れようとしたが、妹が制した。

「五分待って。そうすれば目が慣れてくる」

闇の向こうから妹の声が聞こえる。実際、彼女の目が順応するのに五分もかからなかった。彼女はルーム全体を見回した。奥の壁に何か立て掛けてあるのが見えた。妹に伝えると、それは二脚のパイプ椅子だと教えられた

「良かった。椅子があると助かる。疲れてるの」

姉はベッドの端を触って確認しながらパイプ椅子を取りに行った。彼女はその二脚をベッドの前で向かい合わせにして置いた。姉がまず鞄を椅子の脇に置いて座った。次に妹が座ったが、音はなかった。妹の裸体は暗闇の中でもぼんやりと光を放っていた。

「驚かないんだ。あなたやはりおかしいね。ふつうある程度前もって情報を得ていたとしても、多少はびっくりするものだよ。これは世間一般的にはありえない状況なのだから」

姉は言った。

「今のわたしと今のあなた、おかしいという言葉を使うのならよっぽどあなたのほうがおかしいわ。ベッドに横たわっているのはあなたの身体、椅子に座って話しているあなたは何?幽霊の類いかしら」

「おおむね間違いないね。けれど今のわたしは、なんというか、望んでここにいるというわけではないの。何か未練があって、とかね。未練を悔やむ隙もなく死んでしまったもの。残留意思、とでも言えるのかな。そういうちょっと馴染まない言い方が相応しいと思う」

姉は口元に手をやり考え込んだ。妹は言葉をつづけた。

「それにしてもよく来たね。まさかわたしたちのテレパシーがどっちかが死んでも使えるなんてね。どうしてわざわざ来てくれたの?」

「あなたを信じているからに決まってる」

「それはそれは、嬉しいお言葉」

妹はベッドの上に横たわっている自分の身体を伏し目気味にちらりと見た。姉はもちろんその動作を見逃さなかった。また妹もすぐに何かを感じ取ったように言った。

「カーテンを開けよう。やっぱり今の暗さだとどうやらフェアじゃないらしい」

「どうゆうこと?」

「今のわたしが変に光っているから、わたしの裸ばかり見られてとてもとても恥ずかしいっていうこと。恥ずかしくて死にそうだ」


窓は入口正面の壁の高い位置に一つだけある。小さな窓だ。鍵のない仕様から換気のための窓ではないことは明白だった。厚いカーテンは外部の光を一切ルーム内に立ち入らせていない。

妹はおもむろに立ち上がった。姉は彼女がそのまま音もなく闇に溶けていってしまうのではないかと思った。姉ははっきりと妹が見えるわけではないけれど、彼女の脚が小刻みに震えているのが何となく分かった。

「大丈夫?わたしがやろうか?」

「平気。わたしはそんなに脆くない」

妹が一人で椅子を持ちながら窓の下までいっている間、姉は暗闇の中ベッドの上で眠っている妹の身体をじっと見つめた。鞄に入っているものにも意識を向けた。彼女の心拍数は徐々に上がっていった。

『哀しい』

妹が姉に背中を向けて座面に立つと、そう姉の頭に言葉が響いた。それは声にならない言葉だった。妹の外側ではなく、内側へ発せられ空虚に響いていった言葉だった。ふたごの姉ほど彼女と意識が通じ合っていなければ、誰にも気づくことはできないだろう。姉は思わず目頭が熱くなった。妹は彼女の思考が妹に伝達されたことに気づいていなかった。

姉はカーテンを掴んだ妹に平然を装って言った。

「わたしは、あなたを愛している」

妹はにんまりして言った。

「やめて。どうしようもない気持ちになる」

「もう本心を隠そうとするのはやめて。泣いたっていいのよ、ここにいるのはわたしだけなんだから」

「まさか。幽霊もどきが泣くわけない」

話を逸らすためかのように、窓のカーテンが素早く開かれた。ルームは地下にあるから、直射日光はもちろん差し込まない。ぼんやりとした明かりが窓の辺りを照らすだけだった。ベッドや妹の遺体、椅子に座った姉のうすい影ができた。しかしルーム内のどこにも妹の翳りは落ちなかった。

「まだ足りないね」

「充分よ。まだ結構薄暗いけれど、さっきの暗さを経験しているとわたしには周りがはっきりと見える。あなたの姿もね。あなたもわたしの細かいところまでちゃんと見えるでしょう」

「まるで誰かの死体にぴったりな明るさだ」

妹は椅子を降り、姉を見つめたあとベッドに手をついてそう言い放った。

「性根が腐ってるのね」

「そうでもないね。第一ふたごなんだから根っこは一緒よ。あなたも腐ってるかもしれないよ。共倒れだ」

「あなたの屁理屈に巻き込まないで。そういうの大嫌いよ」

彼女たちはくすくす笑った。姉は内心、本当に笑っていた。

二人の笑い声はすぐ衰えていった。妹はまた苦しそうに椅子を運び、姉の正面に椅子を置いて腰を下ろした。そのときも姉に妹の座る音は聞こえなかった。妹は落ち着いた声色で言った。

「分かるのよね。もうそろそろ消えるって」

姉は一つ息を吐いて訊いた。

「ねえ、あなたっていつまでここにいられるの」

「さあ。もって後二十分くらいだと思う」

沈黙が続く。窓のほうから外で子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。子どもたちを注意する看護婦の声もときどきあった。

「ねえ、あなたって死んだのよね」

「本当に呆気なかったよ、あんな死に方は」

「でもあなたってここにいる」

「うん。けれどあなたにしか見えない。わたしの姿が見えて、わたしの声が届くのは世界中であなただけ。他の人はわたしを観測することはできない。たぶんわたしたちふたごの間で何かしらバグが起こっているようなものなのよ。わたしの存在なんて、もう」

沈黙が続いた。しかし、静寂ではなかった。ルームには姉の泣く声が響き渡っていた。姉は今度こそ泣いていた。悲しみの黒い太陽が姉の前に浮かび、彼女の胸を灼いた。今まで平常を保っていたぶん、悲しみは鋭利な反動として彼女の心に激しい衝撃を与えた。一方で、身体は凍てつき、椅子から立ち上がるのは不可能だった。無理に動こうとすれば身体はばらばらに壊れてしまいそうだった。

「どうして今更泣くのよ」

妹はぽつりとそう言った。

姉はゆっくり妹の顔を見上げた。その瞳が潤っているせいか、彼女は切実に何かに縋りついている信徒のように見えた。何粒もの涙のしずくがちょうど流れ落ちて、ルームの床を濡らした。

「頼んだものは持ってきてくれたの」

姉は頷き、嗚咽を抑えながら椅子の脇に置いた鞄を示した。

「ナイフは研いである?」

姉は再度頷く。

「ありがとう」

妹は立ち上がり、ベッドの上の身体に近づいた。彼女は眠っている自分の顔に青白い手を伸ばし、右の頬に触れた。左手も伸ばし、頭部と顔に巻きつけられてあった包帯を丁寧に外した。

「ひどいものね」

彼女の顔は左の目と顎の一部がなかった。

「彼は元気?」

「ええ、怪我は、もう治っている。でも、あなたを喪って……」

「生きているだけでバンザイよ。事故の相手は?」

「重症だけれど、命に別状はない」

「つまり死んだのはわたしだけってことね」

妹は目を瞑り、深呼吸した。そして自分の身体を覆っている白布を剥がした。彼女の身体は清潔感のある白い浴衣を着ていた。彼女は浴衣の帯を解き、肌が見えるようにした。彼女の右手の人差し指は頭部からゆっくり彼女の首を伝っていき、乳房と乳房のあいだを通ってへその下で止まった。妹は顔を上げ、姉に向かって微笑んだ。ここよと彼女は無言のうちに教えていた。

それから妹は言った。

「さあ、わたしももういつ消えるか分からないからさ、ここからは椅子を反対に向けて背中合わせにして話そう。消えるところを見られたくないから」

姉は無言で頷いた。まだ少しずつ涙は彼女の目から流れていた。

「何の話をしよう」

距離が縮まったからか、彼女たちの声はささやき声に近くなった。姉はほとんど口を聞けなかった。代わりに妹が何か話題を持ってきて、一人で喋りつづけた。姉はそれを小声で頷きながら聞いていた。

妹の言葉は初めはしっかりとした響きを含んでいたが、だんだん語の末尾がかすれて量感を喪い、ルーム内に浮遊するようになった。その妹の声は彼女たちふたごが幼いころ、夜に寝かしつけてくれた母親の声に似ていた。やさしく包容感があり、心地よい夢が見られそうな。母親は両脇に彼女たちを寝かして、ずっと二人の小さい頭を撫でていた。姉も妹もいつも同じタイミングで眠りに落ちた。同じような寝顔のまま、同じような体勢を保ち、同じような夢を見て、一緒に朝を迎えた。

椅子に座ったまま、姉の頭は垂れていった。姉の視界には明瞭な輪郭を保っているものが映り込まなくなった。それは意識の縁に立っているときの感覚で、側には妹がいた。妹はこう言った。

「あとはお願い。姉さん」


寒さが姉を目覚めさせた。目が覚めても、しばらく何も思い出せなかった。彼女は振り返り、空いたパイプ椅子と、ベッドで白布を被り顔の一部がえぐれた遺体を見て、やるせない任務を思い出した。妹の最後の言葉が彼女の頭の中にまだ確かな響きを持って残っていた。彼女はまた悲しみが込み上げてきたが、目を瞑って堪えた。姉は頬の乾燥した涙痕を拭き取らなかった。

彼女の行動は驚くほど迅速だった。彼女は鞄から刃渡りが五センチメートルほどの小型のナイフと、彼女の唾液を少量混ぜた水が入ったペットボトルを取り出した。彼女はペットボトルのキャップを開け、中の液体を自分の妹の唇に数滴落とし、なじませた。末期の水という儀式に近い行為だ。姉は妹の身体の横に移動し、同じように妹の下腹部を湿らした。すると、固くなっていた皮膚が柔らかくなり、弾力性をもっていくのが分かった。また、わずかに皮膚は乳白色になり、不思議な生気を放ちはじめていた。

彼女はペットボトルを椅子の座面に置き、慎重にナイフに持ち替え、刃を外気に晒した。ナイフは薄闇の中でも鋭い光沢があった。その反射に彼女の両目は刺され、手元が震えた。彼女の心ではためらいと恐怖と不安が一斉にそれぞれの占める領域を拡げていた。家族の、さらに言えば自分の生涯でいちばん長く共にいた人物の身体に傷を入れようとしている。しかも、彼女はもう死んでいる。妹の遺体に刃を突き刺すという行為には、想像以上の重荷がのしかかってくるのだと彼女は実感した。

彼女の脳裏では過去に見てきた妹の映像が鮮烈に流れていた。それはまったくと言っていいほど脈絡を欠き、断片的だった。妹の下腹部の上にナイフを構えると、彼女のナイフを持つ手はもう震えなかった。これは妹のためであり、妹の願いでもある。そう姉は心の中で唱えつづけた。

妹の腹に切先が触れる。ぷつ、と柔らかい肌に切り目の入る音が聞こえた。その小さな音だけいやにはっきりと姉の耳に届いた。彼女はできるだけ妹の身体を傷つけたくはなかった。彼女は切り込みを最低限の規模に抑えた。だいたい十センチメートルぐらいの切れ目が妹の下腹部を走っていた。出血は見受けられない。

彼女はナイフをゆっくり鞄に収め、切れ目のすぐ傍に手を添えた。これが水をなじませた影響なのか、ほんのり体温を感じた。さらに姉は目を見開いた。切れ目からぼんやりと光が漏れていた。まるでかぐや姫が誕生する瞬間のように。姉は右袖をめくり、やさしく静かに右手の人差し指と中指を切れ目の真上に移動させた。彼女は一息つき、勇気を振り絞って二本の指を妹の身体の中へに入れこんだ。妹の体内にはまるで人間の体にふさわしい窮屈に敷き詰められた細胞が存在していなかった。姉の二本指は水の中を進むようにするすると妹の身体の奥深くまでたどり着いた。だが、目的物らしきものはまだ彼女の指に触れておらず、彼女は切れ目を拡げないよう内部を探ってみた。指を動かす度に切れ目からは光が漏れ出てきて、姉の顔やルームの天井や壁を照らし、はかない模様をつくった。

やがて彼女の二本の指は異なった感触の物体に遭遇した。それは例えると水中を漂うゼリーのような球体だった。彼女はそのゼリー状の球体の大きさを測り、球体の下まで指を回し、ゆっくりと掬いとった。難関は切れ目を出るときだった。球体はすこし力を加えただけでも潰れてしまいそうなほどだった。彼女の額には汗が滲み、口内は乾燥していた。

球体はその姿を現しながら、切れ目から取り出された。妹の身体の切れ目からの光は消えていた。妹の遺体の広がってしまった切り込みは、まるで不気味に大きく開かれている悪魔の口のように見えた。球体はいつまでも発光していた。姉は顔を近づけ、球体の中のまだ人間の形を象りきれていない小さな胎児を見つめた。

姉は球体の膜を破ってしまわないように左の手のひらに移した。そして自分の服をめくり、再びナイフを手に取った。彼女は、自分の下腹部にも同じように切り込みを入れた。痛みによって切れ目の赤い線は曲がりくねった。ナイフと彼女の右手は鮮血に染まり、ルームの床が汚れた。彼女の頬には透明な涙が伝った。右手で切れ目を拡げるとさらに痛みが増した。彼女は強く歯を食いしばり、胎児を潰してしまわないよう細心の注意を払った。球体は妹の身体から出てくるときと同様に、光を放ちながらわずかな力で姉の内奥へ沈んでいった。彼女の乱れた呼吸だけが辺りにこだましていた。

姉は右手で切れ目を押さえながら鞄から包装された滅菌ガーゼとハンカチ、大きめのガーゼパッドを取り出した。随分と手間取りながら自分の傷口の始末を終えると、お手拭きをいくつか使って手に付着した血を拭いとった。その後、妹の傷口にもガーゼパッドを貼り、浴衣を元に戻して白布をかけた。遺体の顔は妹が包帯を外したままいなくなったので、姉がもう一度巻いた。彼女はパイプ椅子を畳み、元々立て掛けてあった場所に戻した。だが、窓のカーテンを閉めるのを忘れていたことに気づき、パイプ椅子を利用してカーテンを閉めた。扉の近くに置いた花束を鞄に入れ、彼女はこの陽当たりの悪く、暗い部屋をじっくり観察し、最後にベッドの上の妹を見つめて、ルームを静かに退出した。

廊下ではちょうどルーム042の側を二人の白衣姿の男女が会釈をして通っていった。二人の足音が遠くなり、また辺りが静寂に戻ると彼女はエレベーターに向かって歩き出した。

ずっと彼女の足音だけが彼女自身に聞こえていたが、ルーム042から二十メートルほど離れた場所で彼女は大きな衝突音を聞いた。それはルームの扉を内側から何かがぶつかる音だった。彼女は足を止め振り返ったが、数秒経つとまた前を向いて歩きはじめた。

エレベーターはなかなかやってこなかった。インジケーターが「B1」を表示するまでのあいだ、彼女は下腹部の痛みを感じつづけていた。耐えられない痛みではない。上の階で早急に治療を受けることもできるけれど、彼女にはその不自然な傷をどう説明すればいいか分からなかった。彼女はときどき痛みで眉をひそめていたが、彼女たちふたごの物語をその表情から察することのできる人間は、おそらく今のところ世界中のどこにもいなかった。


来た時と同様、エレベーターの中には誰も搭乗していなかった。地上に着き病院のロビーに出ると、彼女はまずトイレへ行き、入念に手を洗った。鍵を握りしめてできた右手の傷を見ると、ルームに入る前のことをひどく昔に感じた。その後、受付へ向かいルーム042の鍵を返した。受付の女性の目には一瞬疑問符が浮かんだが、すぐに彼女について思い出した。受付は「はい。ありがとうございます」といったようなとりわけ淡白で気の引けた対応をせざるを得なかった。死人との面会が終わった後の人間の顔には、本人が意識していなくともどこか不吉の気配がこびりついているものだ。

彼女はそのまま病院を出ようとせず半ば無意識的に、ロビーに併設されているカフェへ立ち寄った。客はそこそこ入っており、陽当たりが良く店内が明るいのもあってかなり賑わっているようだと彼女には思った。若々しいウェイトレスが一人彼女の元へやってきて席に案内した。窓際の席だった。彼女は腕時計で時刻を確認した。正午が近い。三時間ほど彼女はルームにいたことになる。彼女は、いったいどんなふうにルーム内で三時間過ごしたのか、どの行動、どの出来事がそれほどの時間を要したのか今一度思い出そうと努めた。しかし、ついさきほどまでいた場所での記憶があまり思い出せないことに気づいた。一連の妹との会話の内容やシーンがぼんやりと霧がかっている。妹の言葉を借りると、妹の残留意思との会話の記憶が特に不鮮明だった。彼女がはっきりと鮮明に覚えているのは、妹のえぐれた顔、ナイフの鋭い光沢、妹の肌に走る切り込み、胎児の入った光り輝く球体、自分自身の激しい肉体的な苦痛、自分の身体から溢れだす血、などだった。それらのシーンは互いに強固な接続がなく、トラウマに近い独立した強烈な感覚として彼女の脳に灼きついていた。彼女の下腹部の鈍い痛みはその証明だった。この傷跡は将来も確実に残るだろうと彼女には思われた。彼女は生涯今日の出来事を忘れることはできないし、生涯傷跡を残したまま生活していかなければならないのだ。

彼女はアイスコーヒーを注文した。客の多さの割にそれはすぐ届いた。彼女は携帯電話を取り出し、まずやるべきことを済ませようと思った。

携帯電話の画面には彼女の婚約者の名前が映し出されている。五コールほどで相手は応答した。彼女は迷いが生まれる前に本題を切り出した。

「わたし、おそらく子どもができたわ」

「本当に?」

「ええ」

「良かったじゃないか。今はどこにいる?病院か?結構周りが騒がしいようだけれど」

「カフェで窓の外を眺めながらくつろいでいるわ」

「そうか。うん、分かった。ゆっくりしてるといい。だがしかしな、時機が皮肉だよ。きみの妹が」

「そうね」

男は二回咳払いした。

「お葬式が終わったらきちんと祝おう。何かサプライズを用意しておくよ」

「楽しみにしてる。じゃあね」

彼女にはもう感情を伴いながら他人と話す余裕がなかった。もう一度彼女は泣いてしまいたかったが、もう涙は出なかった。アイスコーヒーのカップは結露し、わずかに水滴がついていた。明るい陽射しが水滴を輝かせ、コーヒーの淡い黒はより魅力的になっていた。

彼女は下腹部に傷と妹の願いを抱え、胸には暗い秘密を抱えた。今はどんなに言葉を尽くして思弁しても、彼女の心に光は差さなかった。今日の顛末を誰にも話すつもりはなかったけれど、いずれどこかで明らかになるだろうという確信が彼女にはあった。だがそれもすべて、今考えても仕方のないことだった。彼女はアイスコーヒーを飲み干してカフェを後にし、病院を足早に出た。天気は快晴で、太陽は中空に達していた。彼女は額に右手をかざし、世界の眩しさに目を慣らした。

翌日、妹の遺体は棺に納められ、葬儀場へ運び込まれた。棺は埃っぽい場所に安置された。姉は葬儀場で二回、それぞれやつれた顔の見知らぬ男から声をかけられ、「すみません。一瞬見間違えて、びっくりしました。妹さんにとてもそっくりですね」というようなことを言われた。一人目の男のとき、彼女は神妙な表情であいさつを返した。二人目の男のとき、彼女はにんまりと微笑んで、静かにその場を去っていった。


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