漫喫①
「漫画喫茶?」
案の定、吉川は初めて聞いた言葉のように繰り返した。
とことん世間に疎すぎて心配になる。
「漫画喫茶って何? 名前は聞いたことあるけど……漫画を読める喫茶店ってことかしら?」
「まあ、大体あってる……と思う。俺も行ったことないし、吉川が良ければ付き合って──」
「行くわ」
即決かよ。未知の世界に飛び込もうとしてるんだからもうちょい躊躇というものがあってもいいだろ。
吉川は俺を置いて先を急ぐ。しかし、俺はその場にじっと留まった。
「おい、日課がまだだぞ」
「今日はいいの。それより早く行きましょ」
その言葉を理解するまでに束の間の時間を要した。
吉川がトイレを断っただと……っ!?
朝から雪見先輩に散々いびられて既に疲労感はピーク。頭が回らないけど、これだけは分かる。我らがアイドル吉川夜明、帰還である。
「どうしたの? 顔が変よ?」
「俺は元々こういう顔だよ〜」
やったぞ! これといって人間強制プログラムを敷いたわけじゃないけど、勝手に吉川の方から更生した!
「藤本くんも楽しみなのね」
「ああ! もちろん!」
さっきまで後ろを歩いていたはずなのに、気づけば吉川の前に出ていた。どうやら俺は、気持ちの明暗が足取りの軽さにハッキリでてしまうらしい。
「すごい……。ここが漫画喫茶」
吉川は目を輝かせて店の中に入る。カウンターの店員を前に、遠慮なく辺りをキョロキョロと見渡すその姿は、まるで小学生の遠足。
ちょん、と肩をつついて耳打ちする。
「あんまりキョロキョロすんなよ。遠足の小学生か」
「今、私は幼稚園児と同等の感性よ。あらゆる刺激を吸収するスポンジだから、扱いには注意してちょうだい」
さらに若返っちゃったよ。
でも、楽しそうな吉川を見て自然と口元が綻んでしまう。
本当は別々の個室が良かったんだけど、吉川がどうしてもと言うので、2人用の個室を選んだ。
部屋に向かう途中、鬼でも見つけたかのように、ある一点を吉川は指さした。
「見て、藤本くん。アイスクリームも食べ放題よ。ここは夢の国?」
「夢の国のハードル低すぎんだろ。す〇みな太郎でも行っとけ」
「よく分からないけど、す〇みな太郎くんもアイスが好きなのね」
これはさすがにボケだよな? そんな真顔で言われたら疑心暗鬼になるけど……ボケだよな?
吉川は相変わらずアイスクリーム機を見ながらそわそわしている。おもちゃ売り場で目星を付けた子供みたいだ。
「作る?」
「ええ!」
あー、ほんとに幼稚園児になっちゃってます。目にキラキラのラメが入っちゃってます。
丸底の皿を取った吉川はぎこちない手つきでレバーに手をかけた。
「うんちみたいに巻けるかしら」
「JKがうんちとか言うな。……絶対失敗しろよ、もううんちにしか見えないから」
ニョキっとアイスクリームの先端が顔を出すと、「来たわ!」と興奮に滾った顔でこちらを覗き込んできた。
「ほら、カバンが落ちてんぞ」
肩からずり落ちてしまったカバンを元の位置に戻してやる。
アイス1つでここまで周りを忘れられるとは。愉快な奴だ。
「お前……上手いな」
フン、と得意げに鼻を鳴らす吉川の手元には綺麗なうんち……ではなく、渦巻かれたアイスクリーム。
アイスクリームを巻くだけの仕事があれば間違いなくナンバーワンだと思うよ。そんな仕事ないけど。
「藤本くんの分もやってあげてもいいわ」
「調子乗るなよ」
ムカついたので俺も挑戦……しかし、出来上がったのは右へ左へ倒れかかったアイスの塔。余計に吉川を調子つかせただけだった。
「オートロックなんてハイテクね」
個室の前に立った吉川はカードをかざしただけで解錠された扉を見て感心した様子だった。
確かに俺も手動かと思ってたからそれは意外。
中に入ると……狭い。これほんとに2人用? 間違ってない?
浅い奥行の先にパソコンと黒革のチェアだけが備えられている。
が、それ以上に気になる……
並んで座ったら間違いなく肩がぶつかりそうなんだけど。
そんな心配を他所に、吉川はリクライニングシートに座って首だけ振り返った。
「この椅子、座り心地いいわよ。学校もこうならいいのに」
「……」
返答のない俺に首をかしげて、ポンポンと自分の隣に座るよう招く。
いや……、座れるわけねぇだろ。やはりこいつ、警戒心がまるで無い。
「座らないの?」
「ああ……座るよ」
断っても逆に不自然なだけ。
ここは平然を装って従うのが吉だ。
吉川の隣に座ると案の定当たってる。肩がちょんどころじゃない。ガッツリ当たってますよ。
いくら意識しないように努めてもなくとも、女の子に対する免疫は低いんだ。ましてや体温が伝わるほどの密着。頭はショート寸前。
「うーん美味しい! これ食べ放題って、お店の経営は大丈夫なのかしらね」
アイスを一口頬張った吉川が幸せそうに感想を言った。
近くで見る彼女はお人形のように端正で、横顔なんて作り物かと勘違いを起こしてしまいそうになる。
長いまつ毛に小さな鼻。アイスが放り込まれる瞬間の唇が妙に色っぽくて、顔が熱くなる。
「ここって本を読めるのよね?」
不意打ちで吉川の瞳が俺を捉える。
ずっと見ていた事がバレた……かと思ったが、彼女の関心は別にあったようで助かった。
「じゃあ、マンガ取りに行くか」
「マンガなんて小学生の時にはらぺこあおむしを読んだ以来だわ」
「それは絵本だろ」
「同じようなものでしょ」
同じじゃねぇよ、と言って図書館並みに列をなす本棚を前にした。
「これ全部マンガ?」
「だな。好きなの選んでこいよ。俺はあっち見に行くから」
向かうは少年誌で連載されていたコミックのコーナー。昔読んでいた懐かしのマンガに出会えるかもしれない。吉川の付き合いで来たはずなのに、俺の方がワクワクしてるな。
……ん? 足踏みしてるはずなのに進んでない。
「おい。これはなんの真似だ」
制服の袖が引っ張られている。振り返れば吉川が迷子の猫みたいに眉を下げているではないか。
「だって……私よくわからないもの」
「少女漫画とか読んでみれば?」
そう言うと、首をぶんぶんとふって嫌だとサインを送ってきた。
意外と少年漫画いいのか?
そう訊くと、同じように首を振った。
「成年誌は無理だぞ」
「そっ……そそそんなの読むわけないでしょ!」
赤面してるとこ悪いけど、俺に小便の音聞かれてるんだぞ。それも毎日だ。恥じらいなんてとうに捨てたのかと思ってた。
吉川は恥ずかしがるようにポツリと呟く。
「少女漫画とか読んでみたいんだけど……どんなのがあるか分からないから着いてきてもらっても……」
心霊番組を見たあとのトイレみたいに言うな。
まあ、吉川が遊びに疎いという事はこの数日で分かった。ここで突き放すほど、意地悪な人間でもない。
「じゃあ行くか」
「あ……ありがとう!」
吉川は暗闇が晴れたように表情を緩めた。
ついて行くぐらいで大袈裟な、と思ったけど、楽しそうに体を左右に揺らしながら歩く後ろ姿が微笑ましく思えた。