3 かくれおに
柚平羽槻は、行方不明になった経験がない。
あるわけがない。あったら困るだろう。
しかし、古びた校舎に瞬間移動した今、その経歴は上書きされたというよりなかった。
校舎の窓も扉も、外側から溶接されたように開かない。
力づくで壊すことも出来ない。
おおよそ人為的でない力が働いているようだ。
おかげで、すっかり神隠しリストに仲間いりだ。
唯一の救いは、蓮が食料を持っていたことだろう。
「ハンバーガー、役に立ったな」
二人は、教室が並んだ一階の廊下の中央に、背中合わせに座った。
これなら『なにか』が近づいて来ても、どちらかが反応できる。
羽槻が開けた包みには、冷え固まったチーズバーガー。
味はまずかったが、朝買ってしまいっぱなしだったミネラルウォーターといっしょに流しこめば、すこしだけ胸がすく。
「問題はどうやって脱出するかだ」
ここは、この世ではない。あの世にもっとも近い場所。
たぶん、いま、羽槻は生きても死んでもいない。
「なぜ、俺たちがここに来たのかはわからないが、入れたなら出る方法もあるはずだ。窓と扉は開かない。鍵を探すには、職員室へ行くのが手っ取り早いが、鍵で開くものか――」
「羽槻、ごめん」
ふいの謝罪に振り向けば、両手で包んだバーガーを見下ろすように蓮がうな垂れていた。
「これは、僕がよくないものを引き寄せた結果なんだと思う。僕はそういう力が強いんだから、お化け屋敷なんて入るべきじゃなかったんだ。だから――ごめん」
「こうなったのは不慮の事故だ。誰かの責任じゃない」
そもそも蓮を責める気なんて、羽槻には毛頭ない。
この状況で、勝手に悲劇のヒロインをやられては困る。
マイナス思考に足を引っ張られては、二人ともここでミイラになって終わりだ。
「もしも悪いと思うなら、俺をここから脱出させてみろ」
鼓舞すると、蓮は細い肩を揺らして顔を上げた。
顔色は相変わらず白かったが、やわらかな色合いの瞳には、確かな光が宿っている。
「――うん。まかせといて」
―――――――――――――――――
閉じ込められた校舎は、山間の分校なだけあって、それほど広くなかった。
長方形の校舎は、蓮が持つ地図と同じ間取りの二階建てだ。
一階は教室が二つに、保健室、職員室。
二階は、理科室、音楽室、美術室、倉庫。
脱出のヒントを求めて職員室に向かう。
万が一のとき逃げやすくするために、バッグは捨てて財布とスマートフォンだけポケットに入れた。
陽光が差して明るい校舎は、人気がないためにほとんど埃が舞っていない。
ただただ、じんわりと暑い。
窓と壁が交互につくる陽だまりと日陰の温度差に、羽槻はほっとする。
(真昼でよかった)
これが真夜中だったら、一歩も動けなかっただろう。
かといって、怖ろしさを感じないわけではない。
だいぶ時間が経った気がするのに、太陽が先ほど見上げた位置から動いていない。
こんなことはあり得ない。
(落ち着け。かくれんぼで、鬼が来るまでの間がやけに長く感じるのと同じだ)
「なにを考えてるの?」
「……里でやった『かくれんぼ』を思い出していた」
「そう。羽槻はやったことがあるんだね。柚平って、子どもがたくさんいたの?」
「さほど多くはないが、親戚や使用人の子どもらと毎日のように遊んでいた。上がどんどん大人になって、俺が遊びを抜ける頃には十人もいただろうか」
もう、みんな会えなくなってしまったけれど。
悲しい言葉を飲みこめば、蓮は実にうらやましげな息を吐く。
「いいなぁ。僕、そういう環境にいなかったから」
「狐ノ宮の人間がなにを言う。お前のところの屋敷も人間は多かっただろう?」
「いつの話?」
蓮の声が冷たくなったので、羽槻は口を閉じた。
地雷を踏んだらしい。
「オトモダチが百人いる子ども時代を送っていたなら、僕はこういう人にはなってなかったよ。皮肉にも、そんな人生を送ってきたからこそ詳しいんだけど、学校が舞台の怪談にはいくつかのセオリーがある」
氷のように冷たい声を響かせながら、蓮は指を一本ずつ立てていく。
「ひとつ、古い校舎でなくてはいけない。ふたつ、不幸な事故で亡くなった生徒がいなくてはならない。みっつ、簡単には脱出できない」
「今の俺たちの状況と、まったく同じか」
「ちがうよ。ここでは、誰も亡くなっていない。お化け屋敷に利用できるくらいクリーンなはず……なんだけど」
蓮が職員室の手前の教室をのぞいて、足を止めた。
羽槻もなかをのぞきこんで、ごくり、と喉を鳴らした。
「祭壇、か?」
机と椅子が運び出されてがらんとした教室。
その黒板のまえに、白いクロスを引いた長テーブルが置かれていた。
献花台なのだろう。
枯れた花束が積み重なり、封の空いた細缶のジュースは口から錆び始めている。
火を付けないままの蝋燭と線香や、色のさめた猫のキャラクター文具は、うすぼんやりと埃を被っている。
痛ましい、そんな光景だった。
「これを見ても、誰も死んでないっていえるのか?」
「…………」
蓮は、無言で祭壇に近づいた。
花束の横にあった花柄の便箋を持ち上げてひらく。
『はづきちゃんへ。わたしは卒業して中学校に行くけど、はづきちゃんのことは忘れません。ずっと友達です。明美』
「行方不明の女の子は、『はづき』ちゃんって言うらしいね」
「俺と同じ名前なのか……」
「素敵な名前だから日本中にいるよ。気にシナイ気にシナイ……あれ?」
長テーブルの端に、黒い漆塗りの箱があった。箱のてっぺんは宮の形をしている。
仏教で用いる『位牌』というやつだ。
亡くなった者の戒名を納めて、弔いのために家に置いておく仏具である。
「なんで位牌があるんだろう。廃校になったのは行方不明者が出た翌年だよ? 普通は、失踪して七年でようやく死亡扱いになるのに――」
蓮が臆すことなく位牌を持ち上げる。
すると、遠くから、
『ぁぁあぁきぃぃぃぃぃ』
またあの声が聞こえた。
「げ。触ったら気づかれた」
位牌を戻した蓮は、教室の壁に背をつけて、廊下をうかがった。
羽槻も彼に並んで声をひそめる。
「どうなってる?」
「近づいてきてる。たぶん、ここに来るよ」
「どうするんだ」
声を震わせれば、蓮は、きっと眉をあげて言い放った。
「先人にならって隠れよう! 確か『かくれんぼ』がテーマだったし」
「かくれる、だけかよ。何の解決にもならないだろうが」
「今できることはそれしかない。ちゃんとついて来て」
蓮は、タイミングを計って、教室後方の扉からするりと廊下に飛び出した。
ちょうど女が前方の扉から入ってきたので、入れ替わりに教室から出る形だ。
しかし、相手は一人。
こちらは二人。
後方の羽槻は、出るのがわずかに遅れた。
女の首がぐるりと回転したので、一気に鼓動が早まる。
(見つかった!)
早足で隣の職員室に入り、蓮と別れてそれぞれ隠れる。
しかし、男子高校生の体格で隠れられる場所なんて、そうそうない。
蓮が山と積まれた段ボールのかげに収まるのを見た羽槻は、教卓の下に膝をかかえて入りこんだ。
二テンポ遅れて、職員室に、ぴたり、と嫌な足音がひびいた。
『はぁあぁあづきぃぃぃ?』
(はづき?)
ようやく聞き取れたと思った瞬間。
羽槻が隠れた教卓のまえに、女の足が現れた。
驚きに、息が止まった。
白いロングスカートは汚れてすり切れている。
その破れ目から、砂漠でも踏破したような荒れた裸足がのぞく。
それが、教卓の右から左へ。
ざりざりと、床をするように進んでいく。
『ぁぁあぁぁづきぃぃぃぃぃ』
女は、呼んでいる。
探している。
行方不明になった『はづき』ちゃんを。
いや、羽槻を?
(もう呼ばないでくれ!)
耳を塞ぎたい。けれど、動いたら気づかれる。
目を閉じたい。けれど、そうしたら二度と開けない。
固まっている間に、女はなにごともなく通りすぎていった。
羽槻がほっと息を吐いた。
そのとき。
『はぁあづぅきぃいい?』
「ひっ」
眼前に、女のニタリ顔が現れた。
机の開口部から、長い首を差し入れて羽槻の顔を覗き込んでいる。
見開いた瞳は乾いて、しなびた木の実のよう。
口は耳まで避けて、変色した肉が露出している。
骨ばった指がわきわきと伸びてくるのを見て、羽槻は戦慄した。
捕まる。
捕えられる。
全身から、いっせいに血の気が引いた。
と、女の顔が横にけし飛んだ。
「とりゃっ!」
蹴り上げていたのは、蓮だった。
「立って、羽槻! あれは、きみを狙ってるんだ!」
透明な声を聞いたら、羽槻の手足に力がもどった。
導かれるように立ち上がり、わき目もふらずに職員室を飛び出て、廊下を走り、階段を駆けあがる。
(なぜ、俺が追われるんだ?)
考える頭の片隅では、こびりついた女の呼び声がこだましていた。