人の恋路の邪魔はするが、馬に蹴られて死にたくはない
篠崎紗実は、僕のような男達にとっては理想的な女の子だと僕は思っている。
“理想的な女の子”
と、聞いて一般の人がイメージするのは、多分、男性向けの物語なんかに出て来るような、男性の願望を満たす為に造形された感じの女の子なのじゃないかと思う。
でも、違う。
僕が言う“理想的な女の子”は、そういうのじゃないんだ。
いや、篠崎紗実は綺麗で可愛くて性格も優しくて運動はちょっぴり苦手で成績はけっこう良い方、という男性の願望を満たすようなステータスを持ってはいるのだけど、重要なのはそこじゃないんだ。
篠崎紗実、彼女は僕らのようなあまりモテるとは言い難い男達に対しても平等に優しく接してくれる。
その点こそが、僕の言う“理想的な女の子”の条件なのだ。
考えてみて欲しい。
女性向けの物語に出て来て、ヒロインと恋に落ちるような男達は、皆、何かしらモテそうなステータスを持っている。
イケメンだったり、金持ちだったり、背が高かったり、運動ができたり、成績が良かったり、喧嘩が強かったり、その全部だったり。
そういった要素がなければ“男じゃない”とでも言いたげだ。
一方、男性向けの物語に出て来る“理想的な女の子”は、そんな要素がなくても確り男に惚れてくれる。
どんなに情けない男でも、なんでかよく分からないけど惚れてくれる。
もちろん、それは男達の大多数がそんな“モテる要素”を持っていないからだろう。つまり、“理想的な女の子”の最大の条件は、“自分に惚れてくれる可能性があること”なのだ。
それにリアリティがないのは僕だって分かっている。だからこそ、物語を楽しむ時は積極的な“不信の停止”で、それを忘れているのだし。
しかし、彼女、篠崎紗実は、そんなリアリティのない“どんな情けない男”にでも惚れてくれる物語の中にだけ登場するような女の子が顕現したかのような存在なのだ。
より正確に言うと、“惚れてくれそうな女の子”だけど、まぁ、どちらでも大差ない。だって彼女は、僕らのような底辺の男どもにも優しく接してくれているのだもの。
僕の教室には、九条という名のイケメンで金持ちで運動もできる、僕らのようなモテ要素ゼロの男達からの妬みや嫉みの眼差しを一心に受ける男がいるのだけど、その男に接する時も、僕らに接する時も、彼女は態度を変えないのだ。
はっきり言って拝みたくなる。
と言うか、実際に拝んでいる。
ああ、尊い……
「――何言っているのよ?」
と、そんな僕の主張を聞くと、木原恵がそう言った。
「わたしだって、男によって態度を変えたりしないじゃない」
「木原~」と、それを聞いて僕は言う。
「確かにお前は、男によって態度を変えたりはしないよな。だが、お前の場合はそもそも根本から間違っているんだよ。
何故なら、どんな男に対しても平等にゴミクズを相手にするような態度で接して来るからだ!」
この木原恵という女は男に興味がない。
いや、ぶっちゃけて言ってしまうと、女が好きらしい。だから男には全て無関心で、むしろ女を奪い合うライバルとして敵視しているようだ。
つまり、木原恵は篠崎に気があるのだ。
「大体、お前、なんでこっちにいるんだよ! あっちに混ざれよ!」
――放課後の教室。
教室の出入り口付近のドアのところに女性陣があり、そのちょうど対角線上の窓際の隅に男性陣ができていた。
この二つの陣営は別々に活動しているが、その目的はほぼ同じだ。
“九条と篠崎さんが付き合うのを、なんとしても阻止する”
名付けて“人の恋路の邪魔をし隊(男の部・女の部)”である。
もちろん、この秘密結社(?)は、九条と篠崎さんが付き合いそうな気配があるからこそ結成されたのだ。断っておくけど、篠崎さんの方から九条にアプローチしている訳じゃない。必死に彼女に迫っているのは九条の方で、人当たりの柔らかい彼女はそれに押されてしまっているようなのだ。
彼女は“どんな男に対しても平等に優しく接する”。だから、当然ながら、九条にも優しく接するのだ。
木原は僕の「女性陣の方に混ざれ」という主張に対し、こう返して来た。
「何言っているのよ? 佐野君。あっちの連中はどうにかして篠崎さんを貶めようと話し合っているのよ? そんなのに混ざれるものですか!」
因みに、“佐野”は僕の名前だ。
「なんだと!」と、それに僕及びに男性陣一同は激しく反応した。
そして、ギラリと女性陣の方を一斉にねめつけて威嚇する。
「おい! そこの女ども! 逆恨みも甚だしい! 自分達が駄目で九条に選ばれないのを棚に上げて、我らが天使・篠崎さんを貶めようとはどういう了見だ! 彼女は九条から言い寄られて、むしろ困っているんだぞ!」
代表して僕がそう言った。すると、女性陣は一斉に僕らを鋭い眼差しで見返す。
「何言っているのよ? あんたらが、さっさと篠崎をものしておけば、こんな事態にはならなかったんでしょーが!
大体、あんたら、そんだけいて、どうして誰一人篠崎に手を出さないのよ!」
それに僕ら男性陣一同は腕を組んでこう返した。
「そんな度胸はない!」
「威張るな!」と、それに女性陣。
もちろん、篠崎さんなら告白すれば、取り敢えずは傷つけまいとオッケーを出してくれる可能性もあるにはる。「まずは友達から」とかっていうありがちなパターンのやつで。でも、オッケーを出してくれないかもしれない。
告白しなければ、淡い期待をいつまでも抱いていられる。夢を見ていられる。が、告白してしまったら、それすらも一瞬で打ち砕かれてしまうのだ。
ならば、いつまでも告白しないでい続ける方が良い。
僕らはそう決断したのだ。
ああ、僕らってなんて繊細なんだろう!
そう主張すると、女性陣はこう言って来た。
「それって単なるヘタレじゃない! 本当に情けないわね、あんたらは! そんなだからモテないのよ!」
「なんだと! 繊細な文学少年って感じで良いじゃないか!」
「なにが文学少年よ! あんたらそもそも小説なんて読まないでしょーが!」
「ラノベなら読んでるよ!
てぇか、それを言ったら、そっちはどうなんだよ? どうして九条に手を出さないんだ?!」
それを聞くと、今度は女性陣一同が腕を組んだ。
「“誰も九条君には手を出さない”
わたし達はそういう協定を結んでいるのよ!」
それから代表の眉月という女が一歩前に出て演説をするように語り出した。
「九条君は誰か一人が独占して良いような存在じゃないの。言うなれば、神聖なる奇跡の公共物なのよ! 神が誰か一人のものではないように、九条君もまた皆の為にいる存在なのよ!」
それに男性陣の一人がこう言った。
「気持ち悪いな! そんなだから、お前らモテないんだよ!」
「なんですってぇ!? この奥ゆかしさとストイックさの美学が分からないのかしら!」
「分かって堪るか!
てぇか、お前ら、実際、誰も九条から手を出されていねーじゃねーか! なら、魅力がないって事だろーが!」
そのやり取りを受けて木原が言う。
「なんか、どっちもどっちて感じね」
「お前が言うな!」と、それを聞いて男性陣と女性陣の皆は一斉に言った。
(間)
しばらくが経ち、場が少し落ち着くと、眉月は僕らに向って淡々と諭すように語り始めた。
「そもそもおかしいと思わないの? 普通、女なら、より“いい男”を選ぶものなのよ。それがあんたらみたいなカスも、九条君みたいなハイスペック男子も同じ扱いなんて有り得ないでしょーが!」
それを聞くと僕らは木原を見て言った。
「こいつもどんな男も区別せずに同じように扱うぞ?」
「木原さんは、半分男みたいなもんでしょう?」
それに木原は身をすくませて「おぞましい事を言わないでよ」と抗議したが、無視して眉月は続けた。
「篠崎のあれは多分、演技なのよ」
「演技? 何が言いたい?」
「だ・か・ら、誰にでも優しい女の子を演じて、男達から人気を得ようって算段なのよ。それで、九条君をゲットしようとしている!
つまり、あんたらは騙されているのよ!
あんたらにとってあまりにも都合の良い篠崎紗実なる女は幻なの! あの女の本性に早く気が付くべきだわ!」
それを聞いて男性陣一同は一斉に言った。
「そんな悲しい事を言うな!」
目に涙を浮かべながら。
「泣くほどのこと?」
と、それに木原が冷静にツッコミを入れる。
そしてそれから続けて「でも、あんたらだって、篠崎さんを“リアリティがない理想的な女の子”って言っていたじゃない」と、そんな冷酷なことを言って来る。
それを聞き、眉月は腕を組みつつ勝ち誇った表情で言った。
「ほら、ごらんなさい。あんな女は生物学的に有り得ないのよ」
僕ら男性陣一同は歯を食いしばりつつ、吉田という男に目を向けた。
「そうなのか? 吉田」
説明しておくと、吉田は僕ら“人の恋路の邪魔をし隊”の一員ではない。非常にマイペースな男で、こんな喧噪の中、それをまったく意に介さず教室の隅で一人本を読み続ける変人である。
そして、この吉田は学校の成績はどうだか知らないが、変な知識をたくさん持っていて、何か質問すると淡々と説明してくれるのが常なのだ。今回もいつも通り、「そんな事もないのじゃないかと思うよ」とそれに返してくれた。
眉月は不機嫌そうに「何でよ?」と半ば文句を言うように尋ねる。
「“優秀な子孫を残す為に、良い遺伝子を求める”
それは、男でも女でも変わらないはずでしょう?」
本を読みながら、それに吉田は返す。
「確かにそれは有効な方略ではあるね。でも、飽くまで有効な方略のうちの一つに過ぎないよ」
「一つ?」
「そう。進化心理学って分野があるのだけどね。これは君が“優秀な遺伝を選ぶ為、女は良い男を選ぶ”と考えたような感じで、
“生物はより多く生き残る為に、心理的な仕組みを作ってきたはずだ”
って前提で人間の心理を考察するって分野なのだけど、“男が女を求める”場合でも、“女が男を求める”場合でも、方略は一つじゃない事が知られているのさ」
そこでようやく吉田は本から顔を上げた。
「例えば、女性は男性に比べて、“子供を産む”のに非常にコストがかかる。だから、“男性に比べてパートナーを慎重に選ぶ傾向がある”とかね」
それに眉月は顔を歪ませる。
「それがどうしたの? それでも、良い遺伝子を選びたがるって点は変わらないでしょう?」
「そうだね。
でも、そこから派生して、ある種の女性達にはこんな心理も強いのじゃないかと予想できもする。
“子供は産むのが大変だから、女性は産んだ子供を大切に育てようとする”
だから、より安定を求め、経済力のある男性に惹かれる傾向があるのじゃないか? 女性の方が、中年の異性を好む人は珍しくないようだけど、それはだからなのかもしれない。中年男性は、経済力がある場合が多いからね」
その吉田の説明に、眉月ら女性陣一同はあまりピンと来ない様子だったが、「つまり、ファザコンってこと?」って木原が言うと納得したようだった。
まぁ、ファザコンに限らず、“枯れ専”なんて言葉があるくらいだから、そんな女はそれほど珍しくないのかもしれない。
「でも、だからどーしたってのよ? 九条君は枯れていないわよ!」
ところが、それでも眉月は納得しなかったらしく、そう文句を言って来た。
「慌てない」と、それに吉田。
「そこから派生して、女性には育児に協力的な男性をパートナーに選ぶって方略もあり得る、と考えられる。
この方略を選んでいる女性は、“どんなに男性が優秀な遺伝子を持っていても、子育てに無関心だったなら魅力は感じない”という事になるね。
だから、もし篠崎さんがそんな“子育て重視”の方略を執っているのなら、九条君にそれほど惹かれなくても不思議じゃない。そして他の男性陣にも大いにチャンスはあるはずだ」
その吉田の説明を聞き終えると、僕は「どうだぁ!?」とそう女性陣に向けて言った。拳を握り締めながら。
「いや、“どうだぁ!?”と言われてもね」と、それに木原。淡々と。僕は無視して続ける。
「僕は子供は好きな方なんだ」
すると、女性陣一同は一斉に僕を指差して言った。
「つまり、ロリコンってことね?!」
「はぁ?!」とそれに僕。
「どういう文脈で聞いたら、そうなるんだよ!? 大体、それなら、篠崎さんを好きになるはずがないだろうが!」
それに女性陣の面々は「いや、ごめん。佐野君が言うと、なんかそういう意味に聞こえるのよね」なんて答えて来た。
なんて失礼な連中なのだろう。
(間)
“九条と篠崎さんが付き合うのを、なんとしても阻止する”
という目的で、その放課後の教室で、僕ら“人の恋路の邪魔をし隊(男の部・女の部)”の会議は開かれていたはずなのに、いつの間にか男女間の不毛な言い合いで終わってしまった。
――ただ、それでも収穫があるにはあった。
それなら「“不毛”じゃないじゃん」って話なのだけど、まぁ、気にするな。
「篠崎さん! 君は子供が好きな男は好きかな?」
次の日の休み時間、僕は篠崎さんにそう尋ねてみた。すると彼女はキョトンとした表情で「えっと…… 子供が嫌いな人よりは好きかな?」と答えて来た。
よっしゃー!
と、心の中で僕。
検証ができた。やはり彼女は“育児に協力的な男”に惹かれるタイプなんだ!
「実は僕は子供は好きな方なんだよ!」
そうアピールしてみる。
「ああ、そうなんだ」とそれに彼女。ややはにかんだ感じがとても可愛い。
そこでこんな声が聞こえて来た。
「何言っているのよ、あんたは! 篠崎さんが困っているじゃない!」
同時に頭に平手打ち。
見ると、そこには、少し怒った表情の木原恵がいた。
「何するんだよ? いきなり頭を殴るなよ、木原!」
「あんたが訳の分からない事を言って、篠崎さんを困らせているからでしょーが!」
「はー!? こっちは昨日の検証の為に言ったのだけどー?」
「だから、それじゃ篠崎さんにとっては訳が分からないでしょーが!」
僕の大いなる目的を理解せず、僕を貶めようと不当な暴力を振るった上に不当な糾弾を浴びせて来た来た木原に対し、僕は正当な憤慨をしたわけだけど、ところが、そんな僕らの言い合う様子を見て、篠崎さんはこんな事を言って来るのだった。
「いいなぁ 二人とも仲が良くって」
少し寂しそうな表情で。
とんでもない勘違いだ。
「違うって」とそれに僕ら二人は同時に言う。
木原が続けた。
「このバカとは、唯一、篠崎さん、あなたとだけを介して繋がりがあるだけよ。あなたがいなくなったら、まったく、一切、なんの関わり合いもないわ」
「そうだよ」と、それに僕。
「仮に協力関係を結ぶにしても、君を守ることを目的にする以外には有り得ない」
力強く拳を握った。
「守るって…… 一体、何から?」
と、それを聞いて篠崎さんは言う。
「九条から」と、それに僕ら二人は同時に答える。
「九条君? 一体、どうしてあなた達が私を九条君から守らなくてはいけないの?」
それを聞いて僕ら二人は顔を見合わせると同時に腕を組んだ。
「九条があなたを狙っているのが、明らかだからじゃない」
そして木原がそう言う。すると、その意味が分からなかったらしく、篠崎さんは軽く首を傾げた。
どうも篠崎さんには、男に対する警戒感があまりないようだ。それはやっぱり、彼女が男性に対し“より優秀な遺伝子を求める”という方略を執っていないからかもしれない。
「君は男を選ぶ基準が、一般とは少々違っているから感じ難いのかもしれないけど」
それで僕はそう言ってみた。するとやはり篠崎さんは“分からない”といったような表情を浮かべる。「何の話かしら?」と訊かれたので、昨日の放課後に話題になった“進化心理学”の話を僕は彼女にしてみた。
「アハハハ。なるほどねぇ 生物が進化するって考えてみると、色々なタイプの“男を選ぶ”基準が存在するものなのね」
説明を聞き終えると、篠崎さんは感心したような様子でそう言った。そして、
「なら、確かに私の場合はとっても特殊かもしれないわ。だって、普通の女の子達とは感覚が根本から違っているもの」
なんて少し寂しそうな様子で続ける。
「気にしなくていいんだよ」と、それに僕。
「むしろ、だからこそ僕らの中で、君の価値は高くなっているのだから!」
「あんたらの中で価値が上がったところで、何になるってのよ」と、それに木原。それから、
「だけど、安心して。例えあなたがどんな趣味嗜好を持っていたって、あなたの価値はこのわたしが保証するわ。あなたは間違いなくとっても素敵な女の子よ!」
そう言いながら、篠崎さんの両手を握る。
「ありがとう」と、それに篠崎さん。
「あなたにそう言われると、なんだかとっても安心するわ」
なんだか乗り遅れた感があると思ったので、僕も慌てて「うん。どうであろうと君はとっても素敵だよ」と、そう言ってみた。
それに笑顔で篠崎さんは「佐野君も、ありがとう」と言ってくれた。僕は顔をほころばせる。できれば手を握って欲しいけど、流石に高望みし過ぎか。
すると、そんなタイミングで声が聞こえた。
「やぁ なんか楽しそうに話しているね」
九条だ。
女どもを惑わせる爽やかな毒笑顔を振りまきながら近付いて来る。
「ああ、そうだ。楽しく話しているんだから、入って来るなよ」
と、それに僕。
木原は空手っぽい構えを取り、警戒の意思表示を見せる。いや、空手っぽい構えだけじゃなく、実際に前蹴りも放った。それで距離を取っているのだろう。隙さえあれば、水月に中段突きをかますはずだ。
「何するんだい? 木原さん」
木原が一応女だからだろう。女なら誰にでも優しい九条は、そう言って困った笑顔を向ける。
「前蹴りよ。上段蹴りだと、スカートの中身を見せて、あなたやクラスの男どもを喜ばせてしまうと配慮しての選択。距離も離せる効果もあるしね」
「いや、そういう事を言っているのじゃくて……」
と、困った顔のままで九条。
そう言われて木原は怒鳴った。
「そういう事じゃないのなら、どういう事を言っているのよ! あなた、そんなにわたしのスカートの中身が見てみたいっての? ふざけてるんじゃないわよ! わたしのスカートの中身を見て良いのは篠崎さんだけよ!」
正直言って意味が分からないが、とにかく迫力だけはある。明らかに九条は気圧されていた。
かなり理不尽な扱いを九条は受けているわけだが、そんな九条を女性陣が助けに入る様子はない。
恐らくは、九条が篠崎さんに接近するのを阻みたいからだろう。女性陣にとってみれば木原は良い番犬なのだ。
しかし、こういう点に女性陣の冷酷な一面を僕は感じてしまう。
こわいわー
……別にどーでも良いけど。
――そんな頃、
僕らはまだ知る由もなかったのだけど、近くにある真庭牧場という牧場で飼われている馬の一頭が突然に暴れ出したらしい。
普段は温厚な馬であるらしく、何かに憑かれてしまったのじゃないかと疑いたくなる程の暴れっぷりに、飼い主の真庭家の皆さま方は大いに不安になったらしい。しかも、その馬は暴れまくったすえ、遂には逃げ出してしまったのだとか。
断っておくが、この辺りはそれなりに住宅が整備されていて、田舎と呼べるほど自然は残っていない。
ところがその真庭牧場には、まるでそこだけ社会の移り変わりから取り残されてしまったかのように、ほのぼのとした馬が放してある牧場の光景が広がっているのだ。
何故、そうなってしまっているのかと言うと、他人の家の事情だから詳しくは知らないのだけど、その真庭家の婿養子の旦那さんの趣味が影響しているらしい。
真庭家は地主でかなりの土地を持っている。羨ましいことに、その土地を貸し出すだけで暮らしていけるのだと聞いた。
ただ、真庭家のその婿養子の旦那さんは、婿養子というだけあって立場が弱い。自由に色々と遊んだりできないのだとか。
そんな彼に唯一認められた道楽が“馬を飼うこと”で、実利にも結び付いている上に、唯一の道楽を手放させるのは忍びないという事で、こんな時代までそれが存続してしまっているようなのだ。
因みに、その旦那さんは今ではけっこうな高齢である。
真庭牧場では畑もやっていて、その真庭牧場の馬の馬糞を肥料にして育てられた作物はとても美味しいと近所でも評判だ。しかも、とても安い。ただ、量は少ないのですぐ売り切れてしまう。もし、欲しいと思ったのなら、できるだけ早めにお買い求めいただく事をお勧めしておく……
真庭牧場から逃げ出した馬は今でも捕まっておらず、現在、行方不明らしい。
住宅街地に馬がウロウロしていたら、物凄く目立ちそうなものだけど、何故か見つからないのだとか。
僕は学校から帰ってから、その話を母親から聞き「あんたも蹴られないように気を付けなよ」などと言われたのだけど、はっきり言ってあまり信用していなかった。
いや、だって、こんな街中で馬が行方不明なんて、ちょっと考え難い。まるでどっかのおバカな都市伝説だ。
馬泥棒に盗まれたとか考える方がまだ説得力がある。
……がしかし、その話は僕らと無関係でいてはくれなかったのだった。
この話も聞いた話だ。
僕ら“人の恋路の邪魔をし隊”の一員に、鋤屋という少々乱暴な男生徒がいる。こいつは身体がでかくて態度もでかい。しかも思慮が浅くて時折暴走する。
僕でもどうする事もできない。
何故なら、ちょっと目立って色々発言していただけで、僕は隊のリーダーでもなんでもないからだ!
……この鋤屋は、この日、隊とは別に過激な単独行動に出ていたらしい。どうやら、直接九条を「篠崎さんに近付くな」と脅すつもりだったようだ。
極めてよろしくない行動だが、どうせ止められないから止めない。別にその方が都合が良いとかそんな理由ではない。いや、本当に。
ところが、その犯行は未遂に終わった。
九条を帰り道に捕まえるところまでは上手くいっていたらしいのだが、そこでとんでもない事件が起こってしまったのだ。
――その黒く大きな影は、突然に現れたのだそうだ。
これは“それ”を間近で見ていた九条の証言なのだが、突然「カコッ、カコツ」という静かな足音が聞こえ、陽の光が遮られて少し暗くなったと思ったら、彼の目の前に、――つまりは鋤屋にとっては背後になるわけだが、もう“それ”はいたらしい。
もちろん、“それ”が陽の光を遮っていたのだ。その不気味な気配に鋤屋は直ぐに気が付いたようだったと九条は言っていた。
そして、それから“それ”は「ヒヒーン」といなないた。
その瞬間、それまでは威圧するようだった鋤屋の表情が急速に怯えたものに変わるのを九条は見ていた。
だが、振り返って背後に現れた“それ”が何かを確認する前に、鋤屋はそれに蹴られてしまった。そして、意識を失った。だから、“それ”を明確には見ていない。
それから、唖然となって九条はこう呟いたらしい。
「――何故、馬がこんな所に?」
そう。鋤屋を蹴り飛ばした“それ”とは、馬だったのだ。
いや、“いななく”って言葉は、“馬が声高く鳴く”って意味だから、正体は分かり切っているのだけどさ。
それから九条は慌てて救急車を呼んだ。幸いにも鋤屋は命に別状はなかったらしい。もっとも、或いは死んでいてくれた方が人類の為だったかもしれないけど。
「――いや、まあ、確かに馬が逃げたって噂にはなっているみたいだけど、そんな話、直ぐには信じられないだろう?」
翌日、僕はクラスメートの薬谷って奴とその話題で盛り上がっていた。その話を聞いた薬谷は、すっかりとその馬の犯行を信じ切ってしまっているらしく、
「“人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ”
って言うけど、本当だったんだねぇ」
などと感心していた。
薬谷は“人の恋路の邪魔をし隊”の一員ではなく、鋤屋の横暴にまるでジャイ○ンからの虐待を受ける○び太のように苦しめられている一人だから、内心では“ざまぁ”と喜んでいるかもしれない。
「いやいやいや」と、僕はそれにツッコミを入れた。
「それ、別に馬の生態を表現した言葉じゃないだろ。検索かけてみたら、江戸時代につくられた、“都々逸”の一つらしいぞ」
「どどいつって?」
「いや、僕も詳しくは知らんけど、なんか和歌みたいなもんだろ、きっと」
軽くため息をつくと僕は続ける。
「そもそも、目撃者は九条だけなんだろ?
なら、僕らを脅す為にそんな嘘をついているのかもしれないぜ。
“僕が篠崎さんに付き纏うの邪魔したら、馬に蹴られてしまうぞ”
――ってな」
そう僕が言い終えるなり、「何言ってるのよ」と頭を軽く平手打ちされた。
「そんな戯けた嘘が通じると思うのは、あんたくらいのレベルの馬鹿くらいでしょ。それに実際に馬に蹴られたような痕があったらしいわよ、鋤屋君の身体に」
それはいつも通り木原だった。
「……じゃ、どうして鋤屋は馬になんか蹴られたんだよ?」
僕は不服に思ってそう返す。
「さぁ? 単なる偶然じゃないの? 運が悪かったのよ、鋤屋君は。きっと、日頃の行いが悪い所為ね」
それに関しては否定ができない。死ななかっただけでも感謝しないといけないかもしれない。
「しかしだ。その理屈で言うと、九条が無事だった説明がつかないぞ? あいつは鋤屋と同じくらい…… いいや、鋤屋よりも罪が重いかもしれないからな」
「彼が何したってのよ?」
「女にモテまくっているだろうが!」
「それはあんたらにとって都合が悪いだけでしょーが!」
「お前だって、あいつを敵視していただろうが!」
「わたしは篠崎さん一筋だもん。他の女どもなんてどーだっていいわ。今のところ、篠崎さんは彼にはまったくなびいていないみたいだし?」
「甘いな」とそれに僕は言った。
「九条がどんな手段で篠崎さんにアプローチをして来るかなんてまったく分からないぞ! あいつを甘く見るな!」
……がしかし、九条を甘く見ていたのは、どうやら僕も同じだったらしかった。
その日、放課後のチャイムが鳴ると同時に九条は動いた。速攻で篠崎さんに近付いていったのだ。「あんちくしょー!」と思いつつ、邪魔してやろうと僕も向かう。
だが、それほどの危機感は感じてはいなかった。木原の言う通り、篠崎さんは今のところ、僕と同じくらいの存在としてしか九条を見てはいない。
断っておくが、“僕と同じくらい”ってのはかなりやばい。はっきり言って、僕のモテ力はこの社会において底辺級だからだ!
ところがどっこい、九条が篠崎さんにスマフォの画面を見せるなり、彼女の顔はパーッと明るくなったのだった。目を輝かせて画面を凝視している。
――なんだ? 一体、何が起こったんだ?
その今までとは明らかに違った反応に僕は危機感を覚える。
やはり、篠崎さん。君も他の女どもと同じ様に男をスペックで判断するのか?! まぁ、普通はそうなんだけど。
僕は裏切られたかのような気分になって二人に近付いていった。
しかし、傍に寄ってみて、直ぐにその笑顔の正体が分かった。こう九条が喋っているのが聞こえて来たのだ。
「そうなんだよ。僕の家の猫が仔猫を産んでね。これが物凄く可愛いんだよ。さわってみたいでしょ?」
――仔猫だとぉぉぉ!?
それを聞いて、僕は心の中でそう叫んだ。
――それはいくらなんでも反則だ!
「仔猫って伝説上の生き物じゃなかったのか? 実在するのか?! いくら何でも無理だ。破壊力が高過ぎる!」
仔猫をさわる。
その誘いを断れる人類が果たして存在するのだろうか?
「なに、馬鹿言っているのよ、あんたは」
そこでそんな声とともに僕の脳天に90度の角度で鋭いチョップが突き刺さった。痛い。木原恵だ。
「木原ぁ もう駄目だ。流石に仔猫の魅力には勝てない。人類は滅亡する」
僕がそう言うと、木原は「落ち着きなさい」とそう言った。
「冷静になるのよ。確かにまさか仔猫が出て来るとは想定外だったけど、九条君はひとつだけ重要な計算違いをしているわ」
「なんだって? 仔猫の魅力に勝てる算段があるともで言うのか?」
木原は首を横に振る。
「いいえ、仔猫の魅力に人類は勝てないわ。だけど、仔猫は、破壊力が高過ぎるのよ。そこを彼は分かっていなかった!」
そう木原が言い終えたタイミングだった。
「あたしも、仔猫、さわりたーい!」、「僕も」、「俺もだ!」
次々とそんな声が上がっていったのだ。
“なるほど”と、それに僕。
誰だって仔猫はさわりたい。抱きかかえて頬ずりしたい。なにしろ、この僕だってそうなのだから。
九条の性格からいって、これだけの世間の声を無視し切ることはできないはずだ。
世間の目は気にするタイプだからな。
皆を招くというこの流れには逆らえないだろう。
つまり、篠崎さんと二人きりになどなれるはずがないのだ!
……ところが、どうも九条は前もってこの展開を予想していたようなのだった。
「ちょっと待ってくれ、みんな。仔猫をさわりたいという気持ちは分かるけど、これだけの数に押しかけられたら流石に困るよ。
それに、そもそも仔猫は人がさわり過ぎては駄目なんだ。弱ってしまう」
それを聞いて皆は顔を見合わせた。
仔猫は物凄くさわりたい。でも、その所為で仔猫を弱らせてしまうのであれば、我慢するしかない。皆は仔猫を愛でたいのであって、おもちゃにしたい訳ではないのだから。暗黙の内に「ここは我慢しよう」という雰囲気が流れる。
それを受けて、僕は「恐るべし、九条」と小さく呟いた。教室の空気を巧みにコントロールしている。流石、クラス一のモテ男なだけはある。
「じゃ、何人なら行っていいんだよ?」
そこで男生徒のうちの一人がそう尋ねた。
「そうだね」と、いかにも今考えているような感じで九条はそれに応えたが、多分、前もって考えてあったんだ。
「精々、ニ、三人かな。いや、今日は初めてだし、篠崎さんを誘う以外に予定もしていなったから二人がいい。少ない人数から始めて、徐々に人に慣らしていった方が仔猫にとっても良いと思うんだ」
それから九条は教室内を見渡す。
「んー…… 篠崎さん以外は、薬谷君がいいかな? 大人しいから、きっと仔猫も怯えないだろうし」
――そして、そのチョイスか。
と、僕は思う。
「ええ?! 本当? いいの?」
なんて言って薬谷は躍り上がって喜んでいた。薬谷もかなり仔猫は好きそうだから、これは当然予想できる反応だ。
前にも述べたけど、薬谷は“人の恋路の邪魔をし隊”に参加していない。九条が篠崎さんに付き纏うのを邪魔しようとはしないはずだ。更に、素直だから、簡単に言う事を聞きそうでもある。
つまり、篠崎さんと二人きりになりたいと思ったら、いくらでも手段はあるはずなのだ。例えば、買い物を頼むとか。多分、これは「他の男も呼ぶんなら安心か」と“人の恋路の邪魔をし隊”を油断させておいて、その死角を突くという巧妙な作戦なのだろう。
これはこのままにさせておいてはいけない。
「えー? 一日に二、三人って、一体、クラス全員が仔猫をさわるのにどれくらいかかるんだよ?
土日は営業していないんだろ?」
それで僕はそう言ってみた。
「営業ってなに?」と、困ったような顔でそれに九条。
木原が小声で話しかけて来る。
「どういうつもり?」
「九条の企みを阻止するんだよ。絶対にこのまま篠崎さんだけを家に招かせたりはしない。あと、早く仔猫さわりたい」
「薬谷君は人数の勘定に入っていないのね。仔猫さわりたいってのも本心ではあるんだ。確かに、わたしも早く仔猫さわりたいけど」
ありがたいことに、僕の言葉に賛同する人間が他にもいた。
「そうよ! 仔猫が成長するのは速いのよ! 油断していたら、あっという間に大きくなっちゃうわよ!」
女生徒の一人。
よほど仔猫が好きなのか、なんだか泣いている。
その激しい訴えに、皆の気分が揺らぎ始めたのが分かった。
がしかし、
そこで一人の男生徒が余計な発言をしたのだった。
「いや、子供から大人に変わる段階の成長過程の猫も、他にはない独特の魅力を放っていて良いものだぞ!」
なんか高度な変態がいる。
……まぁ、分からんでもないが、男が言うとロリコンにしか聞こえない。
そして、それに「それもそうね」と返し、さっき泣きながら抗議していた女生徒はあっさりとそれを認めてしまったのだった。
自分の信念をもっと大事にしようよ! 若いんだし!
それから彼女はこう続けた。
「半ズボンから卒業しようかどうしようか迷っているくらいの青い果実…… まだまだ初々しいそれをこのわたしの手で優しく摘み取ってあげたい!」
なんか高度な変態がいる。
女が言っても同じだった。
と言うか、こっちは本気の変態かもしれない。
「これはどんな時期に九条君の家に行くかで、どんな成長過程の猫を味わえるかが変わって来るわね。
綿密な計画を立てる必要があるわ」
そう言うと、彼女はカレンダーを広げ、鉛筆をくるくると回して考え込み始めた。それを当然のことのように皆は見つめる。
そこで“ハッ”と僕は気が付いた。
……いつの間にか、九条の案がそのまま通ってしまう流れになっている!
「じゃ、篠崎さん。帰る準備をして、一緒に家に行こうよ」
にこやかな笑顔で九条は篠崎さんに向けてそう言った。
九条と篠崎さんが二人きりで歩いている。
早くも薬谷はいない。
――案の定だな。
僕はその光景を見てそう思った。
多分、何か買い物でも頼まれて、薬谷はそれに大人しく従ってしまったのだろう。薬谷の性格では“仔猫をさわらせてもらう立場”で、頼みごとを断れるはずがないのだ。いい奴なんだけど…… 正直、将来がちょっとばかり心配にはなる。
「目標を捕捉。早速、薬谷はいなくなっている。ただし、今のところ、進路はこちらの予想通り」
僕はスマフォで“人の恋路の邪魔をし隊”の他のメンバーにそう伝える。
僕は皆を代表して監視係を買って出たのだ。
「オッケー では、手はず通り、待機していたメンバーを参入させる」
スマフォの向こう側からそう声が返って来た。
最悪でも、九条の家で篠崎さんと九条を二人きりにさせてはいけない。九条が何らかの計略で薬谷を切り離した場合を考えて、僕らはメンバーを待機させていたのだ。
「薬谷がいないのなら、もう一人参加できるよな」と言えば、九条は断れないはずだ。何しろ、“二人”という人数を指定したのは九条本人なのだから。
「まさか本当に二人きりになっているとは。一体、九条君は薬谷君にはどう言ったのかしらね?」
そんな声が聞こえる。
見ると、いつの間にかそこには木原恵がいた。
「どうしてお前がここにいるんだ?」
思わずそう言ってしまう。
「佐野君の方こそ、どうしているのよ?」
「もちろん、篠崎さんと九条が二人きりになるのを阻止する為に監視しているんだよ。あと、仔猫さわりたい」
「ふふん」とそれに木原。
「わたしも同じ。
果たしてこのわたしが、篠崎さんが九条君の家を訪ねるなんてそんなふらちなことを許すかしら? いいえ、許さない。あと、仔猫さわりたい」
本当に篠崎さん絡みのことに関しては、木原とは気が合う。ま、だからこそ邪魔者でもあるのだけど、こいつは。
「で、薬谷君はどこに行ったのかしらね?」
その木原の疑問に僕は「大方、仔猫の餌の買い物でも頼まれたんだろうさ」とそう答える。
「ああ、○ュールでもあげたら、仔猫が喜ぶとかって説得されたのかもね」
「だな。あいつのことだから、今頃、きっと仔猫に○ュールをあげるところを想像して鼻歌でも歌いながら、ニコニコのデレ顔で駆けているだろうさ」
そう僕が言い終えたタイミングだった。
「仔猫ちゃん 仔猫ちゃん ぼっくの○ュールを、よっくお食べっ」
なんて変な歌声が聞こえて来た。
見ると、薬谷がニコニコのデレ顔で突っ走っていた。猫の餌だろうものが入ったビニール袋を提げている。歌のテンポに対して、走る速度が妙に速い。
「薬谷!?」
僕はそれに驚いて思わずそう呼び止めてしまった。
「ん? 佐野君? どうしたのさ。僕、先を急いでいるのだけど」
「いや、何しているのかと思って」
「ああ。九条君から仔猫の餌の買い物を頼まれてね。買って戻っている最中さ」
「えらく早いな。ここからペットショップって意外に遠いぞ」
因みに薬谷はマラソンは超苦手のはずだ。なのに、息すら乱れていない。
「それはもう! 僕は仔猫ちゃんの為なら通常のザクの三倍の速度で買い物をするよ」
据わった目で薬谷はそう返す。恐ろしいヤツ。いや、真に恐れるべきは仔猫の破壊的なまでの可愛さか。
「もう用がないのなら、さっさと僕は僕の仔猫ちゃんのもとへ行きたいのだけど」
「ん? ああ、悪かったな。さっさと九条を邪魔しに…… じゃなくて、九条達と合流してくれ。仔猫はお前のじゃないけどな」
とにかく、薬谷が戻って来たのならこちらとしても都合が良い。これで篠崎さんと九条を二人きりにしないで済む。
が、そう僕が言い終えるなり、けたたましくスマフォの呼び出し音が鳴ったのだ。見ると、“人の恋路の邪魔をし隊”からだった。僕は急いで受話ボタンを押してその電話に出た。
「何があった?」
すると、そう尋ねるなり、こんな鬼気迫った声がスマフォから響いてきた。
「――佐野! こっちは駄目だ! 馬が襲って来た!」
僕はその予想外の言葉に「うまぁ?」とそんな素っ頓狂な声を上げる。
「ああ! みんな、逃げちまった! なんとかお前だけで九条を邪魔してくれ! お願いだ!」
そして電話は切れた。
それを聞いて、僕と木原と薬谷の三人はそれぞれ顔を見合わせた。
薬谷が呟く。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」
「いやいやいや」と、それに僕。
「単なる偶然だって。馬にそんな習性があってたまるか!」
木原が言う。
「でも、少なくとも、馬が暴れているって点だけは事実なのでしょう?」
「そうだ」と、僕は頷く。
「ここは事情を話して、九条の家に匿ってもらおう! 九条の邪魔もできるし、一石二鳥だ!」
「ぶれないねぇ」と、それを聞いて、呆れているような感心したような声を薬谷は上げた。
「善は急げ!だ。早く九条を邪魔しに……、もとい、篠崎さん達の所へ行こう!」
「“善”かなぁ?」と薬谷は首を傾げる。
それから僕は、篠崎さん達の所へ向かおうとした。ところが、そこで篠崎さん達のいる方角から何か大きな音が響いて来るのが聞こえたのだった。
パカラッ パカラッ
それはそんな音だった。
――そう。
まるで、コンクリートの地面を馬が蹄で駆けて来るかのような音。
いや、もちろん、分かっていた。
“まるで”じゃなくて、本当に馬が駆けて来ているのだと。彼方の方からやって来るそれが、徐々に大きくなって来る。そしてそれは予想通り、馬の形をしていた。
「黒王号!」
薬谷がそう叫ぶ。
「不吉な名前をつけるな!」と、それに僕。確かに黒くて大きな馬だけれどもさ。
篠崎さんと九条も馬に気が付いていたらしかった。そしてそれが真っすぐに自分達の方へ向って来ていると察したらしく、反対方向、つまり僕らのいる方に向って全速力で走り始めた。
「あーっ!」と、それを見て僕。
このどさくさに紛れて、九条のやつが篠崎さんの手を握っていやがったからだ。
「何してやがるんだ、この野郎!」
僕は九条に向ってそう怒鳴りながら、篠崎さんの隣を走る。そして、僕もついでに篠崎さんの手を握ってやった。
それを見てか、黒王号が「ヒヒーン!」といななく。
「“何してやがるんだ”は、あんたもでしょーが!」
続けて、木原も隣にやって来た。
「それじゃ、篠崎さんが走り難いでしょー!」
「あはは」と、それに困った様子で篠崎さん。
僕は「大丈夫だ! 僕は篠崎さんのためなら、通常のザクの三倍の速度で走れる!」と返す。
「そうじゃなくって、篠崎さんが、走り難いって言っているのよ!」
そんなやり取りをしている間に、僕らは馬の迫力に中てられた所為か茫然としている薬谷の隣を走り抜けた。
“黒王号にやられるか?!”と、一瞬、不安を覚えたが、黒王号は薬谷をスルーして僕らを追って来ている。それを見て僕は言う。
「流石だな、薬谷。あのモブキャラ・スキルは大したもんだ」
「呑気なことを言っている場合か!」と、それに九条。
「平地じゃまず馬には勝てない。障害物がある場所…… 公園を目指そう!」
それに僕は「分かった」と答えると篠崎さんの手を握ったまま猛ダッシュをした。それで九条を振り切ってやろうかと思ったのだけど、九条は九条でその邪な劣情の為なら通常のザクの三倍の速度を出せるようで、振り切れなかった。
――公園。
時間帯の所為か、それとも元から人気がないのか、人は一人もいなかった。幸いと言うべきか、不運と言うべきか。他の人が巻き添えになることはないけど、助けを呼んでももらえない。
僕らは公園の中で、一番安全そうなジャングルジムに昇って避難をした。もし黒王号が、公園の入り口にある柵に足止めされていなかったら追いつかれていたかもしれない。ギリギリのタイミングで逃げ込めた。
見た目に分かる程に怒った様子で、黒王号はジャングルジムの周り、つまり僕らの周りをグルグル回っている。
僕らを狙っているのが明らかに分かる。
ただ、黒王号がうろうろしている間、篠崎さんの手をずっと握っていられそうだったので、しばらくこのままでも良いかもしれない…… なんて思っていたら木原が「いい加減に篠崎さんから手を放しなさい!」と言って無理矢理に僕と篠崎さんの繋いだ手をぶった切ってきた。
「チッ」と舌打ち。
それから木原は「あんたもよ!」と言って、九条と篠崎さんの手もぶった切る。これはナイスだけども、それから木原は今度は自分が篠崎さんと手を繋いでしまった。
そこで黒王号は「ブルッ」と威嚇音のようなものを発する。
「なんでお前が篠崎さんと手を繋ぐんだよ?!」
と、それを見て僕。
「安心させるために決まっているでしょーが! こんな恐ろしい馬に狙われているんだから!
女同士なら、問題ナシだし」
「お前の場合は、問題アリだろーが!」
「あら? 平気よねー? 篠崎さん」
そう言うと、なんと木原は手を繋ぐどころか篠崎さんにハグまでした。「うん」と、それに篠崎さん。ちょっと照れた感じで頬を赤くしている。そりゃ、女同士とはいえ、そんな事をされれば恥ずかしくもなるだろう。
「ヒヒーン!」
そこで黒王号が威嚇音。
「そもそも、この黒王号に何をやったんだお前は?」
それを受けて、僕は九条に向けてそう言ってみた。
「いや、僕は知らないぞ。馬を怒らせたのは君達なんじゃないのか?」
「お前、先日だって、馬に襲われたって言っていただろーが!」
「馬に襲われたのは鋤屋君だ!」
そこで木原が淡々と「どうでも良いから、警察かなんかに助けを求めなさいよ」とツッコミを入れて来た。もっとも、篠崎さんにハグをしたままだったから、シュールタイプなボケのように見えてしまうが。
仕方ないと僕はスマフォを取り出すと、警察に連絡をした。
「……あの、すいません。実は馬に襲われて困っていまして」
警察官らしき人が出たので、そう言ってみた。
すると、受話器の向こうにいるだろう警察官らしき人は「警察をからかうもんじゃないよ」と抑揚のない声で言って直ぐに切ってしまった。
後には「ツー、ツー」という虚しい音。
「信用してもらえなかった」
そう言ってみたら「あっさりとした口調で言ってるんじゃないわよー!」と木原が怒鳴った。
そう言われても。
「まぁ、“馬に襲われて困っている”なんて普通は信用してもらえないわよね」
その後で、そう篠崎さんが優しくフォローしてくれる。が、そのほんわか気分を台無しにするように、
「言い方工夫しろよ! 馬が逃げ出したってのは知られているんだから、その馬を見つけたとかさ」
そう九条が責めて来た。
うるさい、黙れ。
「慌てるな。もう一回かけてみよう」
そう言って僕はもう一度、警察に電話をかけようとした。ところが、そこで篠崎さんが「薬谷君?」なんて呟くのだった。
見ると、公園の出入り口には本当に薬谷がいて、こちらに近付いて来ようとしている。一瞬、助けに来たと思いかけたのだが、目が据わっている。それで僕は察した。恐らくは……、
「九条くーん どうして、こんな所で遊んでいるのさ? 早く、仔猫ちゃんと遊びに行こうよー」
やっぱりだ!
あいつ、仔猫にさわりたいばっかりに馬が目に入ってねー! こんなにも荒ぶっているのに!? ってぇか、“黒王号”って名付けたの、お前じゃねぇか。
「おーい! 危ないぞ、薬谷! 馬だ! 馬がいる! こっちに来るなぁ!」
そう僕は警告したが、薬谷はそれを無視してずんずん近付いて来る。
「ダメだな、あれは。仔猫にさわること以外、考えられなくなっているぞ」
九条がそう呟く。それを聞いて薬谷を心配してか、「危ないわよ、薬谷君! 馬に蹴られちゃう!」と篠崎さんが叫んだ。
だがやっぱり薬谷は止まらなかった。
「仔猫ちゃんの所へ連れて行ってよー」
まるで夢遊病者のような足取り。
黒王号が近付いて来る薬谷に目を向けたのが分かった。
……まずい。
これだけでかい馬に貧弱な薬谷が蹴られれば、大怪我はほぼ確定。下手すれば死ぬ!
が、ところが、黒王号は薬谷をガン無視するのだった。完全にスルーしている。
僕らはそれで互いに顔を見合わせた。それぞれ、頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる。
流石にこれはいくらなんでも薬谷のモブキャラ・スキルが発動した訳ではなさそうだった。
それから無言のうちに、僕と木原から九条が離れる。黒王号はそんな九条を無視して、僕と木原を睨み続けているように思える。ちょいちょいと九条が篠崎さんを呼びよせる。それで篠崎さんは僕らから離れて九条の傍に行ったのだけど、黒王号はそのまま僕らを睨み続けていた。
それから、今度は僕が移動した。木原と離れて、ちょうど九条達と三角形になるような位置関係の場所にまで。
すると、黒王号は僕を追って来た。ただし、木原にも注意を向けているのが明らかに分かる。試しに木原が九条達に近付こうとするとやはり警戒して木原の傍へ。
その黒王号の動きを受け、“うん”と、九条と僕らは目を合わせて頷く。
「どうやら、やっぱりその馬に狙われていたのは君達だったよーだね! それじゃ!」
にこやかな笑顔でそう九条は言う。そしてジャングルジムから軽やかに降りた。黒王号はまったく反応しない。悔しいことに。僕は不安になって声をかける。
「“それじゃ”じゃねー! ちゃんと助けを呼んで来いよ、九条!」
それに「心配しないでくれ」と返すと九条は嬉しそうに笑った。それで僕は更に不安になった。
少し後ろめたそうな様子を見せてはいたけど、篠崎さんもジャングルジムから降りる。やはり黒王号は反応をしなかった。そのまま二人とも公園の外に向う。薬谷も「仔猫ちゃん~」と言いながら、それに付いて行く。
姿が見えなくなった。
取り残された僕と木原は、顔を見合わせる。微妙な間の後で木原が口を開いた。
「佐野君。あなた、一体この馬に何をやったのよ?」
「馬に恨みを買うような器用な事をした覚えはないよ! てぇか、それを言ったら、お前だってターゲットにされているじゃないか!」
そう僕は返す。木原は何も応えなかった。
――また少しの間、
「ブヒヒン」と黒王号がうなった。完全に僕らはロックオンされているようで、離れるような気配を見せない。
それを見て木原がまた口を開いた。
「ねぇ、もしかして、“あれ”、本当だったんじゃないの?」
「“あれ”って?」
「“人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ”」
「マジで言っているのか?」
「だって、それ以外考えられないじゃない。この馬に狙われているのって、みんな、九条君の篠崎さんへのアタックを邪魔している人達ばかりよ?」
僕はそれに大きく溜息を洩らした。
「流石にただの偶然だろうよ。多分、他になんか理由があるんだよ……」
ところが、僕がそう言い終えたタイミングだった。
「ちょっと、あなた達ー! 九条君と篠崎は何処に行ったのぉ?」
見ると、公園の柵の向こう側に“人の恋路の邪魔をし隊”の眉月がいた。多分、馬の鳴き声かなんかを聞きつけて、ここにやって来たのだろう。
「おお! 眉月!」と、それを見て僕は喜ぶ。“人の恋路の邪魔をし隊”の“女の部”とはいえ、こいつも同じ隊の一員ではある。きっと助けてくれるだろう。
「多分、九条の家に向ったと思う。僕らはこの馬の所為で動けないんだ。眉月、助けを呼んで来てくれよ」
「なるほど。分かったわ」と、それに眉月。
「九条君に篠崎が言い寄るのは、このわたしがなんとしても防いでみせる!」
どうやら、1ミリも分かってない。
「そうじゃなくて、助けろー!」
そう叫んだけど無駄だった。眉月は九条の家の方面に向って走って消えていく。
「薬谷君も一緒だって伝えれば良かったのじゃない?」
と、それを見て木原が言った。
「いや、あいつは人数に入っていないから……」と、それに僕。そこで気が付いた。ほぼ常に僕か木原を睨み続けていた黒王号が、何故か別の方角を眺めているのだ。
……多分、九条の家の方角。
僕はハッとなった。
「もしかして、この馬、今度はターゲットを眉月に切り替えたのか?」
――人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ
信じられないけど、もし仮に、それが本当だとするのなら、今まさに九条の恋路を邪魔しようとしているのは、眉月であるはずだ。
一呼吸の間。
突然、何かを思い出したかのように黒王号は全力で公園の外に向けて駆けていった。
それを見て、「まずいぞ!」と言うと僕は馬を追って走り出した。
「あの馬、多分、今度は眉月を狙っていやがるんだ!」
木原も追って来る。
「でも、追いついたところでどうするの? 馬には勝てないでしょう?」
「もし本当に、恋路を邪魔している奴をあの馬が狙っているっていうのなら、極めて不本意だが、九条の邪魔を止めさせれば良いんだよ!」
「そうか。そうなるわねぇ。極めて不本意だけど」
僕は悔しさを噛みしめながら、眉月を追った。黒王号にあいつが蹴られる前に、なんとしても止めなくては。ところが、眉月を見つけるより前に、僕らは足を止めたのだった。その必要がなくなったからだ。
何故か、黒王号が立ち止まっている。てっきり眉月を追っていったものだとばかり思っていたのに。しかも、僕らに襲いかかるような素振りもない。
黒王号は極めて大人しく、どこか所在なさげにウロウロとしていた。
なんだ?
そう思って近付いてみると、その直ぐ先には眉月の姿もあった。しかも、やはり同じ様に所在なさげにしている。
「――何があったんだ?」
思わずそう話しかけてみると、親指で「ん」と眉月は指し示した。
見ると、篠崎さんが一人で戻って来ている。走っている。近くに九条の姿はない。
それで合点がいった。これでは、人の恋路の邪魔をしていることにならない。九条と篠崎さんは離れているのだから。だから黒王号は目標を失って何もする事がなくなってしまったんだ。
「どうしたの? 篠崎さん」
近くまで駆け寄って来た彼女に僕はそう話しかけた。息を切らしながら、それに彼女はこう返す。
「はぁはぁ…… 途中で、やっぱり不安になっちゃって。はぁ…… 二人きりにさせちゃ、まずいのじゃないかな?って」
そう言う。その時、木原は僕に追いついていて、隣に並んでいたのだけど、篠崎さんはその木原と僕の間に割って入った。
「助けを呼ぶのは九条君に任せて、引き返して来ちゃった」
ん? なんだ、この彼女の様子は?
僕は不可解に思う。
黒王号に僕らが襲われる心配をしている訳じゃなさそうに思えたからだ。
篠崎さんは木原に向けてにこにことした顔を向けている。無理に笑顔をつくっているように思えなくもない。
無理してつくった笑顔って、威嚇のような意味合いがあるとか、確かどっかで誰かに聞いた事があるような……
……これって、もしかしたら、篠崎さんは、僕と木原の間に何かあったらと不安になって、僕らを邪魔しようとしているのじゃないだろうか?
つまり、彼女は嫉妬しているのだ。
――もちろん、今この場にいる男は僕しかいないのだから、それは僕を奪われまいと、木原に対抗しようとしているという事になってしまう。
そこで黒王号が「ブルルンッ」と反応したのに僕は気が付いた。さっきまで、僕らをターゲットにしていた時と同じような感じだ。
もし僕の推測が正しいと想定するのなら、今、この場で“人の恋路を邪魔をしている”のは、彼女、篠崎さんしかいない。
僕は顔を青くした。
嫌な予感を覚える。
「ヒヒーン!」
そこで黒王号が大きくいなないた。
そして、前足を大きく上げ、まるで躍りかかるようにすると、僕の嫌な予感通りに、篠崎さんに迫って来る。
――まずい!
このままでは、篠崎さんが人の恋路を邪魔していると思われて、黒王号に蹴られてしまう!
僕は咄嗟に篠崎さんを庇うように抱きしめた。
「キャッ」と、彼女は言った。
……断っておくが、これは彼女を守る為であって、致し方ない行為である!
しかし、黒王号はそんなの構わずに迫って来る。もう篠崎さんを蹴る事以外、眼中にないって感じだ。
しかし、勝機はまだある。何故なら、こいつは勘違いをしているからだ。
僕と木原はいわゆる男女間のなんやかんやで引かれ合っている訳では微塵もない! 僕はこう叫んだ。
「おい、馬ぁ! 勘違いするな! よっっっく見ろぉ! 今、僕と篠崎さんは、恋路を突き進もうとしているんだ!
つまり、今この場で、人の恋路を邪魔しているのは、篠崎さんじゃなくて、お前だ! 馬ぁぁぁ!!」
その言葉を浴びると、黒王号の瞳が微かに震えたように反応したのが分かった。馬はその時、躍りかかるように上半身を大きく持ち上げていて、まさに篠崎さんを蹴ろうとしている瞬間だった。
そこからは先は曲芸に近かった。
黒王号は思い切り前足を踏ん張るようにすると、そこから身体全体を大きく捻り、後ろ足を自らの顔に向けて放ったのだ。
つまり、恋路を邪魔した己自身を蹴ったのだろう。
そして、黒王号はそのままねじれるようにして倒れてしまった。
ズズーンッ
と音が鳴り響き、その振動が地面を通して伝わって来る。流石、巨体だ。物凄い迫力。
――と言うか、何故、そんなにも人の恋路の邪魔をしている誰かを蹴らねばならないのだろう? この馬は。
とにもかくにも、そうして馬は見事に動かなくなったのだった。
それから僕らは警察に連絡をした。「真庭牧場から逃げていた馬を見つけました」と篠崎さんが言うと、警察は簡単に信用してくれた。それが篠崎さんが連絡をしたからなのか、それとも言い方が良かったからなのかは不明だけど。
警察やらなんやらが、馬を回収していった後、僕は篠崎さんを見てみた。篠崎さんが嫉妬してくれた。つまりそれはもちろん当然ながら僕を篠崎さんが好きだという事だ。
……が、しかし、ところがどっこい、篠崎さんは僕をミジンコほども見る様子がないのだった。そして、何故か木原に視線を向けている。
――ん?
と、僕。
違和感。
「ごめんなさい、木原さん。あなたを置いていってしまって……」
そう彼女は木原に向って訴えかけている。
木原は目を輝かせながらこう返す。
「気にしないで、わたしはあなたが戻って来てくれただけで、天にも昇り上がりそうな程に感動しているのだから」
――んん?
篠崎さんはまだ語った。
「まさか、あんな場所であなたへの気持ちを伝える訳にもいかないと思って……。
でも、九条君と一緒にいくうちに、あなたと佐野君を二人きりにしているのが不安になってしまって…… “吊り橋効果”って事もあるかもしれないし」
それに嬉しそうにしながら「ふふ」と木原。
「そんなことを心配しなくて良いのよ、篠崎さん。常日頃から言っているじゃない。わたしはあなたしか愛していないわ」
――んんん?
僕はそんな二人のやり取りを、茫然としたまま外野から見つめていた。
……つまり、篠崎さんが嫉妬していたのは、木原に僕を取られると思ったからじゃなく、僕に木原を取られると思ったからなのか?
つまり、なんか頭が混乱しそうだけど、彼女の恋のライバルポジションが僕?
木原恵は、男に興味がないから、どんな男にでも平等にゴミクズのように扱う。
そして、彼女、篠崎紗実は、男に興味がないから、どんな男にでも平等に優しく接して来る。
結果は180度違うけど、原因は同じ? って事なのか?
いや、そんなっ……
しかしそれから僕は思い出したのだった。
そう言えば、彼女はこんな事を言っていた。
『なら、確かに私の場合はとっても特殊かもしれないわ。だって、普通の女の子達とは感覚が根本から違っているもの』
“感覚が根本から違っている”
これって、そんな意味だったのか?
そ、そんなバカなっ!
が、それが正解なのは、何よりも目の前に展開されている信じられない光景が如実に物語っていた。
「木原さん! 私、本当はずっと告白がしたかったの。あなたがとても好きだって!」
木原の手を握りながら、篠崎さんがそう訴える。木原はとても嬉しそうにその手を握り返す。
「嬉しいわ、篠崎さん!
もう知っていると思うけど、何度でも言うわ。わたしもあなたが好き。大大大好き!」
僕はただただ茫然とそれを眺め続けた。
そして、そうして僕の“理想的な女の子”は何処かへと消えてしまったのだった。分かっている。そんな都合の良い女の子がこの世に存在しているはずがないのだ……
どんな男も平等に恋愛対象とする女の子なんて……
イチャイチャしている木原と篠崎さんを見つめるうち、僕は自然と目に涙が浮かんでくるのを感じていた。
――その後、木原と篠崎さんは公然と教室でもイチャイチャするようになり、当然ながら、“人の恋路の邪魔をし隊”は自然消滅をする運びとなった。
ただ、
「……よく考えてみたら、可愛い女の子が女の子とあれやこれやと色々しているってののを想像するのも良いなぁ。夢がある」
と、意外に僕は落ち込んではいなかったのだった。
そもそもを言えば、初めから“夢を見ている”という自覚はあった訳だし。