蜃
白い砂浜、高い崖に挟まれた入り江。まるでどこか南国のリゾートのような光景だが、あくまで日本の某所だ。
「全く、どんな財力だよ」
「......これほどのプライベートビーチを持つ人が、ウチに依頼してきた事がびっくりだね」
黒塚葵と藍染龍は、ビーチを見つめながら互いに言った。
「まあ、日本唯一の『怪異専門探偵』だから、貧富もなにも関係なく依頼が来るのは当然なんですけどねえ」
葵が言うのを聞いて、龍は軽く肩を竦める。
その発言の通り、彼らは怪異を専門に扱う、日本唯一の探偵事務所の人間だ。正確に言うと葵はバイト、そして唯一正式に事務所を経営してるのが龍だ。
「そういえば、綾乃ちゃんは?」
龍に言われて、葵ははっとした表情になり、背中を見る。
そこには、当たり前だが何もついていない。
しかしその事に、葵は顔をしかめる。
「あいつ......どこ行ったんだ」
周囲を見回すも、生き物の類いはどこにも見えない。
龍の言った「綾乃」というのは、葵の妹の名だ。しかし彼女には血が通っていないのだ。俗に言う幽霊。普段は葵の背に乗る形で憑いているのだが、現在は不在のようだ。
丁度その時、葵たちに呼びかける溌剌とした声が聞こえてきた。
葵が顔を向けると、依頼人の家の脇から歩いてくる綾乃と、綾乃の前を歩く黒い服を着た少年が見える。
「なるほど、葛狗についていってたんだね」
黒服の少年の名は葛狗、自らを妖怪と呼ぶ、謎多き少年だ。彼は、空気で膨らますタイプのボートを担いでいる。
「持ってきたぞ」
龍達の前で立ち止まった葛狗が、それをドサリと地面に置いた。
彼らが金持ちな依頼人から受けた依頼は、『最近入り江に妙な蜃気楼ができるので、原因を探って欲しい』というものだった。
「ねえねえ、二人とも、もう原因わかったような感じだけど?」
定位置――葵の背に戻った綾乃が、龍と葛狗に聞いた。
「まあ、概要だけで思い当たるのが一つしかなかったから」
「......ああ」
その反応に、感心の嘆息を漏らす葵と綾乃。
「『蜃気楼』の語源って知ってる?」
唐突に龍が質問した。
葵たちは首を横に振る。
その反応を予想していたらしい龍は、軽く微笑むと口を開いた。
「『楼』は楼閣、つまり建物の事、そして『気』はまあ大体想像つくと思う。そして残った『蜃』だけど、これは何の事だと思う?」
再び質問されるも、全く見当がつかずぽかんとした顔になる二人。
「これはそのまま蜃、妖怪の名前なんだ。そして蜃は『オオハマグリ』と読む場合がある」
「ハマグリ?」
「そう、蛤」
綾乃が、納得した様子で手を打った。
「なるほど、だから海に出るってことなんだね、海女みたいに」
「そういうことだね」
――
少しして、四人を乗せた船は入り江の中央に浮かんでいた。オールを持っているのは龍と葵。
「おい、いい加減落ち着け」
げんなりした表情で背中の綾乃に言う葵。
葵の背に隠れるようにしている綾乃は、まるで噴火直前の火山のように全身を震わしていた。
「だって......これ.....最高......」
この奇行の理由はボートの一番先頭に座っている葛狗だ。
彼の現在のは上半身裸、というより、サーフ型水着を着ている、水泳の為の格好なのだ。水着は勿論黒一色。
「あのなあ、見てるこっちが気持ち悪いんだよ」
葵が言うと、綾乃は額に青筋を浮かべた。
「んだと! ショタは正義! はあ、スマホが持てるならば一人撮影会を開くのに......」
本人を目の前にして性癖丸出しな発言である。葵は深くため息をついた。
その時、ふと葛狗の雰囲気が変わった。まるで威嚇する犬のような、ピリピリした雰囲気だ。
「......始まるぞ」
葛狗の言葉と共に、急に視界が白くなり始める。濃い霧の中にいるようだ。
「確かに、これは自然現象じゃないな」
周囲を見回しながら、葵が言う。
彼らの目には、霧の中に浮かぶ、和風とも、中華風ともとれる町並みが写っていた。
「あそこだ」
葵と同じように周囲を見回していた葛狗が、海上の一点を指さす。そこからは、周囲を取り巻く霧が立ち昇っていた。
「よし、じゃああそこに船を......」
そう言って船をこぎ出す龍。
慌てて葵もオールを動かした。
目的の場所で船をとめると、葛狗は海の中へと飛び込む。
「......そういえば、葛狗クンって泳げたんだね」
呑気なことを言う綾乃に、葵はまたあきれ顔をした。
――
葛狗が海面に顔を出したのは、それから十数秒後の事だった。
「どうだった?」
ボートから身を乗り出した龍が葛狗に聞いた。
顔を出した瞬間こそ息を深く吸ったが、それ以降は全く呼吸が乱れた様子のない葛狗は、何も言わずに右手を水面に上げる。そこには、通常の何倍も大きな蛤のような貝があった。
「これが蜃......」
綾乃が興味深げに呟く。葵も同様、葛狗がボートの上に置いたそれをまじまじと眺めている。
「しかし、気の遠くなる作業だぞ」
周囲を見回しながら、葛狗が呟いた。
海上には、先ほどまでボートの横にあったような、気が立ち上る場所がいくつもある。限られた視界の中にもそこそこの数があるということは、入り江全体にはかなり大量の蜃がいるということなのだ。
そのことに気がついた葵は、すこぶる嫌な顔をする。
「げえ、これかなり時間かかるだろ」
あくまでも彼はバイトの真っ最中。そのあとに続く
「なぜ夏休み突入後初めての海で、こんなことをしなければならないのか」
という言葉は心の奥にしまい込んだ。
――
数十分後、蜃はかなりの数を捕らえ、残すは一カ所に固まっている数匹くらいになっていた。
「あー」
延々オールを操っていた葵が、思わず声を漏らす。
「ちょっとちょっと、潜りもしないでダレないでよ」
綾乃のごもっともな意見は無視。
その直後に、龍と葵は船を止めた。
「よし、ここが最後だね」
肩の力を抜きながら龍が言うと、葵は力の籠もっていない声を発しながら後ろへと倒れる。
そして例の如く、葛狗は海中へと潜っていった。
――
入り江はあまり深くない。潜り初めてすぐに海底の岩場が見えてくる。残りの蜃はほとんど全てが一つの岩の上にあった。一つだけ少し離れた、海藻の茂る中にある。
葛狗が、離れてる一つへと近づこうとすると、突如海藻の中から手が伸びてきて、蜃を掴んだ。
見ると、海藻をかき分けながら、一つの人影が現れた。その人影は、葛狗に蜃を差し出してくる。
人影は葛狗に近づいてきた。前に出した腕が葛狗のすぐ目の前まできた瞬間、葛狗はいつの間にか持っていた刀を振るった。元からそのつもりがなかったのか、それは人影に当たらなかったが、葛狗は人影が怯んだ隙に海上へと戻る。
――
「終わったのか?」
顔を出した葛狗に葵が聞く。
しかし葛狗はそれを無視し、隣の龍に、左手で持っていた刀の鞘を投げ渡し、
「共潜だ!」
と言うと、すぐにまた潜っていった。
「トモカヅキってなんです?」
急な緊迫に、葵が声をこわばらせる。
「共潜は、海女が最も恐れた妖怪。人を沈めようとするんだけど、その姿は――」
――
刀を抜いた葛狗との目の前にいるそれは、葛狗とそっくり同じ姿をしていた。
供潜は、ゆっくりと浮上し、葛狗へと手を伸ばす。
またもその手に向かって切りつける葛狗だが、直前で躱されてしまった。刀を振り切るのと同時に共潜は一気に浮上し、葛狗の首を掴む......。
「ちょっと!」
海中の様子を見ていた綾乃が、がばりと体を起こした。
「葛狗クン、首捕まれて沈んでっちゃったけど?」
「ええ!?」
綾乃の言葉に葵は驚きの声を上げたが、龍はさして動揺した様子はない。
「まあ、大丈夫だと思うよ。刀抜いた葛狗に接触するなんて、敵にとっては自殺行為だから」
余裕綽々な龍に答えるかのように、水面に葛狗が浮上してきた。右手に刀、そして腕に数匹の蜃を抱えている。
「これで全部だ」
葛狗がそう言うと、同時に入り江の霧が晴れていった。
「おい、大丈夫なのか?」
何食わぬ顔でボートに上がってくる葛狗に、慌て気味の葵が聞く。
「......両腕を切り落としたら、慌てて逃げていった」
やはり何食わぬ顔で言い放つ葛狗に、葵も綾乃も顔を引きつらせた。
そんな二人を見て、龍は笑みを浮かべる。
「まあ、ただの妖怪程度に負けない事は、色々と裏付けられてるからね」
「裏付けられてる?」
龍の言葉に、葵は眉をひそめた。
「んー、まあ、要するに葛狗は強いってことだよ」
浜辺へ向かってオールを動かし始めながら、龍は答えるのだが、葵は煮え切らない様子だ。
しかし、陽が西に傾きかけた入り江の光景と、潮騒と蝉の音が生む、煩いながらもシンとした雰囲気が、続く言葉を許さなかった。