放談
新暦の七月七日は、日本の殆どの地域が梅雨真っ最中で、生憎天の川が穏やかな年は少ない。
ただ、その年は幸運にも雲一つない快晴、大通りの反対側にある、藍染怪異探偵事務所のベランダからも、織女星、牽牛星、天の川が見えている。
建物に遮られた細長い夜空である為に、天頂付近まで上ってくるまで見えなかったが、もうすぐで日付が変わってから一時間が経とうとした頃、牽牛識女伝説を表す天体達が全て顔をだした。さすがに夏の大三角全ては見えていない。
熱帯夜、とまではいかないが湿度と気温が高めで、あまり好ましくない気候だ。
しかし葛狗は、そんな事を意に介さない様子で、彼特有の感情が読めない目で空を見上げていた。
普段着ている真っ黒な和服で、胡座をかき、加えて腕組みまでしているので、さながら時代劇の殿様のような格好なのだが、あくまでも十歳程度の少年である。
「どこにいるのかと思ったら、凄く似合わないことしてるね」
突然掃き出し窓が開き、二十代後半位の男、藍染龍が顔を出した。
彼は自称怪異専門探偵で、普段は全国から寄せられる怪異についての依頼を解決する為に、最近雇ったバイトや葛狗と共に日々東奔西走している。
龍のおちょくっているような台詞に、葛狗は目線を龍に向けた。相変わらずその顔は表情が読めない。
「暇なだけだ、星くらい眺めててもいいだろう」
至極真っ当な返答をする葛狗。
龍はそれを聞いて、軽く微笑む。
「暇ついでにつきあってもらってもいい? 夜食に素麺湯がいたんだけど」
葛狗は、特に何も言わずにまた空を見上げた。
その反応を肯定ととった龍は、一旦室内へと戻り、素麺が入った器や、二人分の麺汁が入った器、箸を置いた、漆塗りの丸盆を持ってベランダに出てきた。
盆を葛狗の斜め前に置き、龍は葛狗の横に座る。
葛狗は、黙って盆から箸と麺汁の器を取り、素麺を啜った。
「どう?」
「......素麺に旨いもなにもないだろ」
葛狗のあまりに素っ気なさ過ぎる言いぐさに、龍は少し不満そうな表情を浮かべる。
「たまには雑談とかしてもいいと思うけどなあ」
そう言うと、龍は胡座のまま、後ろに手をついて壁にもたれかかった。
「それこそ似合わないと思うが」
龍は、最早頑固とすら思えるその様子にため息をつき、まだ手をつけていなかった素麺に手を伸ばす。
「雑談に似合わないも何も......素麺に旨いもなにもないのと同じだよ」
途中言葉を切って素麺を啜った龍。
葛狗も、応える前にもう一度素麺を啜る。
「天の川 扇の風に霧はれて......か、この時季の快晴は本当に珍しい。嘗ては秋の行事だったが」
「......やっぱ違和感しかない」
少し間を置いてぼそりと言った龍に、葛狗は目線を向けた。今度は誰がみてもはっきりわかるジト目だ。
それを見て、龍は軽く笑う。
「ごめんごめん。まあ確かに、梅雨時にこんなに晴れるのは珍しいよね」
すると龍は空を見上げた。
それに続いて葛狗も再び空を見る。
「そういや、識女星の英名って知ってるの?」
「ベガ」
葛狗は即答した。
「流石に知ってるか......じゃあ星座は?」
「琴座」
同じく即答。
龍は、数度軽く頷く。
「その琴って、妻を失った男の琴なんだよね。悲恋っぽいところ、ちょっと七夕と似てる気がしない?」
今度は、少し考えているのか、葛狗は応えるまでに時間が開いた。
「......舞降りる禿鷹、元々そういう意味だぞ」
「うわ、一気にごつくなる」
龍はそう言い、少しの沈黙のあとに軽く笑う。
「妖怪の割に夢がないなあ」
龍はそう言って、また素麺を啜った。
葛狗は、普段から自身の事を妖怪と称している。
天の川は少し傾き、あと三十分もすれば識女星が建物の陰に隠れるといった感じだ。
「妖怪が夢物語じゃないのはお前がよくわかってるだろ」
やはり真っ当なことばかり葛狗に、龍はまた不満そうな顔になる。
「似合わないって言ったのは悪かったよ。こうも会話が続かないとなんか気まずいじゃん......あ、短冊に書きたい願い事とかある?」
「男二人でする会話じゃないだろう......お前はどうなんだ」
逆に葛狗に聞かれた龍は、顎を摘まんで暫し考え込んだ。
「どうだろう。強いて言うなら......いや、『嵩張ってる依頼を早く消化させてください』かな」
その答えを聞いて、葛狗は龍の顔をじっと見つめる。
「なに?」
若干引き気味で龍が聞いた。
葛狗は素麺を取りながら答える。
「案外平凡だなと思っただけだ」
がくりと姿勢を崩した龍。手に持っている麺汁が揺れて零れかける。
「別に普通でいいじゃん。葛狗はどうなの?」
今までで一番長い沈黙が、夜のベランダを包んだ。
生ぬるい夜風が、建物の間を吹き抜ける。
「お前が一番わかってることだ......」
それを聞いて、龍は驚いたような、みようによっては納得のいったような表情で、葛狗を見つめていた。
再び頬を風が撫でた事で我に返った龍は、軽く微笑むと、自分の器と箸を持って立ち上がる。
「確かに。僕はもう十分食べたから、先に寝てるよ」
「ああ」
葛狗の無愛想な相づちを聞くと、龍は部屋の中へと入っていった。
しかし、部屋に入ってすぐに何かを思い出した様子で立ち止まる。
「そうだ、この前、依頼人から馬林堂の豆大福貰ったんだけど、食べる?」
そのとき、丁度素麺に箸を伸ばしていた葛狗の手が止まった。
少しの間固まっていた葛狗だが、箸や麺汁の器を盆に置くと、それをもって室内へと入っていく。
無人になったベランダ。吹き続ける夜風と、光り続ける星々の光景だけが残されている。
「何故もっと早く言わない」
などといった葛狗の言葉も、外に聞こえることはなかった。