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温泉にて

 夕焼けの早い時間。空には薄く青が残る。白くたなびく雲が微妙な色の濃淡を生んでいた。

 目線を少し落とす。山の稜線が空をなだらかに縁どっていた。紅、黄に緑が混ざる独特の色味。湯舟から登る蒸気が全体をほんの少し霞める。

 葵はほうと息をついた。いいものである。大浴場の露天風呂も中々だった。しかし部屋に備えられた露天風呂も中々だ。こぢんまりした空間。何より他人への気配りが要らない。流れる湯の音をバックに、思いっきりゆっくりする。久々の安寧だった。

「何で(おれ)となんだ」

 割り込む不愛想なボーイソプラノ。隣で湯舟に浸かる葛狗だ。

 一瞬肩を震わせる葵。

 変声前の男声。一般の感覚で言えば可愛らしい、といった部類に入るものだ。その中に体が竦むほどの重厚感がある。一周周って凄いと思える程だ。

「い、いやあ、綾乃から離れてゆっくりしたくなったんだよ。あいつ黙ってられないから……。流石に大衆浴場とかだと大人しいけど、こういうとこだとお構いなしに入ってくるから」

 そして訪れる静寂。葛狗は正面に目をやったまま。

 何を考えているのかさっぱりわからない。こういう場合どうすればいいのかもわからない。兎に角居心地が悪い。頼むから何か反応を返してくれ。葵は若干顔を引き攣らせた。こうなることは覚悟でこの場にいるのだが。

 目線だけを葵に寄越す葛狗。少し切れ長の目の中にある瞳が葵に向けられた。

 たまらず葵は口を開く。

「お前の風呂を覗こうとするのも含めて、非常識だよな」

 誤魔化すように頬を掻く。

 葛狗の目線がもとに戻った。

「兄妹だろ」

 またも一言だけ。

「いや兄妹でもありえないって。ってかそういうのは妹のほうが気にして、それに対して兄貴が気ぃ使うのが定石だろうに。……気に食わないんだよなあ。俺だけ一方的に裸見られてるわけだし」

「見たいのか」

「そうじゃない!」

 葛狗の発言がボケなのかどうかは不明である。

 慌てた様子の葵。葛狗から景色に居直った。

「と、とにかくゆっくり風呂に浸かりたくなっただけだ」

 吐き捨てる。

 しかしその直後、頭を抱えるようにした。葵の中に沸く後悔。今のは完全に図星のリアクションだった。本当は図星であるはずがない。しかし咄嗟のことだったのでそうなってしまった。少し顔が赤くなっているのを実感する。揺れる水面を凝視した。

 羞恥の逃げ道を無意識に探したのだろうか。ふと葛狗の体に目がいく。

 一目して堅い質感が伝わる腹だ。さほど凹凸はないが、引き締まった腹筋である。胸や腿、腕にかけても同様。

「何だ」

 突然の奇行は、流石の葛狗も気にしたらしい。

「変なこと聞くけど、腹筋……というか、体つきいいよな、葛狗って」

 葵は自分の体と見比べた。

 我ながら情けない体だ、と自嘲する。筋肉もなければ脂肪もない。あばらの下のラインが薄く出ている。また体重が減ったかもしれない。四肢も細く白い。まさにもやしのような体形。

 言いながら、葛狗の腹に指を伸ばしてみた。流石にその手は払われる。

 葵の体を流し目で見る葛狗。そして、立ち上がった。顔は少々不機嫌気味。

「別に……無理矢理だ」

 そのまま脱衣場に向かう。

「無理矢理って?」

 葵の声は、空しく秋空に消え去った。


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