歓桜
「桜を見ないかい?」
龍が葛狗を誘ったのは、四月が始まって間もない日の夜だった。普段なら寝支度を始める時間帯である。明かりを落とした事務所には、柔らかな月光が差し込んでいた。
返答の代わりに、葛狗は胡乱な視線を送る。いつにも増して目つきが悪いように見えた。
窓にもたれかかって外を見ていた龍。顔を室内に向け、自分に向けられた視線を受け取る。苦笑を浮かべつつ肩をすくめた。
「早めに食べないといけない団子があるんだ。今なら人もいないだろうし、たまにはこういうのもいいでしょ?」
自分が断らないことをわかった上での問いかけだと、葛狗はすぐに察知する。
数分後、和装の人影二つ桜並木を歩いていた。並木のある公園は、他に広場や水場などもあるかなり大きいものだ。しかし駅からは多少距離がある上、周囲の店は夜中閉めているものが殆どである。昼は花見客でごった返すのだが、夜は一転閑散としていた。
薄雲が満月にかかり、その輪郭を崩している。淡い光に照らされた桜は、周囲の漆黒から切り取ったように存在感を増幅させていた。
乗っている花弁を払い、二人はベンチに腰掛ける。
「中々綺麗だね」
桜と、その上にある朧月を見上げる龍。一方の葛狗はというと、桜ではなく龍を横目で見上げていた。
「……団子?」
「ああ」
「そういうのなんて言うか知ってる?」
葛狗は無言を通す。
再び苦笑を浮かべた龍。鞄からプラスチック容器を取り出した。輪ゴムで閉じられた中に、やや大きめの三色団子が二つ入っている。
龍の手から団子を受け取ると、葛狗は一つ目をすぐ頬張った。表情を見せない目は、漸く桜に向けられる。
「……目が違えば見える物は違う。仮令同一の物体でも、別の目と頭を通せば違う物になると思わないか」
数瞬戸惑いを見せる龍。
「確かにそうだね……。でも、突然どうしたの?」
「目に触れた数だけ、物質は物としての皮を被ることになる」
葛狗の瞳は、依然桜に向けられたまま。
「怪異の幾つかは、その成れの果てなんだろうな」
顎を摘み、しばし考え込む龍。葛狗の目線を追い、彼に向けられていた顔を再び桜に向けた。
「成程。単純な言い換えかもしれないけれど、間違ってはないと思うよ」
少し肌寒さが残る風が並木を抜けていく。騒めき花弁を散らす桜は、さながら葛狗の言葉に呼応したようにも思えた。
「この桜は……皆同じ物なんだろう?」
「……ああ、成程ね」
集まらなければ白に見紛う程に淡い色の染井吉野。遺伝子に差異の無い複製品。百年以上続く命である。
葛狗は一つ団子を頬張った。龍は何も言わない。
長い沈黙が流れた。
「さて、そろそろ帰ろうか」
龍が殻になった容器を鞄にしまう。無言を通す葛狗。
彼を振り向くと同時に、龍の体に少し負荷がかかった。葛狗の体だ。目を閉じ、ゆっくりと呼吸をしている。
似合わない感傷は眠いだけだったのかと、龍は何度目かの苦笑を浮かべた。