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海が見たい。

作者: 晴嵐


 逃げ出したくてたまらなかったので、文字通り逃げ出した。

 もう何もかも嫌だ。いくら仕事をしてもボロクソに言われる。なんのために仕事してるのか分からない。いや、生きるためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために仕事をしているはずなんだけど、その仕事が原因で死にたくなってきたとか、本末転倒というか。

 とにかくもう嫌で嫌で辛くて苦しくて一刻も早くこの場所から逃げ出したかったんだけど、臆病な僕は定時で無理やり帰った。本当は二時間ほど残業しなきゃならない。次の出勤で怒られるかもしれない。もう知るか。次の出勤なんてない。

 そんな気持ちで車に乗ってエンジンをかけた。つけっぱなしのラジオから音楽が聞こえる。遠くへ行こうと言うような歌詞に後押しされて僕はアクセルを踏んだ。

 そうだ、海を見に行こう。海は好きだ。子供の頃は毎年、親にキャンプへ連れて行ってもらっていた。泳いだり、魚や貝を獲ったり、キャンプファイヤーをしたり、花火をしたり。楽しい思い出が鮮やかに蘇ることに驚いた。もうずっと、ずっとずっと嫌なことばかり思い出されて、振り払っても現実すら僕を追い詰めてきたのに。

 しばらく見ていなかった夕焼けに染まる空を見ながら、僕は車を走らせた。きっと到着する頃には夜になる。どこか適当なところへ車を止めてそこで一泊して、朝になってから海へ行こうか。

 通行量が少なくなり、街灯も減っていく。でも周りの車のスピードはとても早くて、僕はビビりながら運転した。慣れない連続のカーブに緊張もしたけれど、ちょっとワクワクしていた。

 そういえば、こうして遠出するの好きだったっけ。中高生の頃は、よく自転車でどこまで行けるか試した。滝を見ようとして、坂道がきつくて断念したり、今日と同じように海を見に行ったり。あのときは自転車だったけど、今は車でもっと速く、遠くへ行けるのに、全然遠出していない。

 暗い道で晴れ渡った空にはもう星が見えた。あっという間に日が暮れてしまった。近視の僕は星たちがぼやけて見える。子供の頃はもっとはっきり見えていたのに。

 そう思うと自分で気づいていないだけで、たくさんのものを失っているのではないかと思えた。好奇心とか冒険心とか、好きなことや楽しいことに対しての体力や集中力とか、相手への思いやりとか優しさとか。

 優しい子だねと褒められていたのに、優しいねと、言われなくなったと思う。それはきっと僕が変わってしまったから。

 海のある隣の街へ入って、駐車場を探した。ホテルや宿は予約もしていないし、行く気になれなかった。ぐるぐると街中を回って、海からそれほど離れていない駐車場に入った。有料だけど、上限金額も安いから気にしなかった。

 シートを倒して、上着を羽織ってうずくまる。ちょっと寒いけど僕はわりとどこででも眠れるから大丈夫そうだ。寒いよりも、変な酔っ払いが絡みに来たりしないだろうかとか、実は幽霊が出る駐車場でとか、近くに墓地があってとか、そんなホラーなことばっかり考えてしまってビビリな僕は眠れない。とても怖い。どうしよう、顔を上げたら窓から幽霊がこっち見てたら。



 寒くて目が覚めた。やっぱり春の車中泊は厳しいか。

 エンジンをかけて暖房を強め、時間を確認する。夜中の一時だった。寝たのは何時だっけ。

 夜ご飯も食べていないので、お腹が空いていた。あとトイレにも行きたい。コンビニに行こうかな。

 近くのコンビニを検索する。微妙に遠い。いや車ならすぐだろうけど、駐車場に入ってしまっているので、置いていくしかない。

 でも寒いんだろうな、外。車の中も寒いくらいだし。

 一分も考えること無く、甘ったれな僕は車でコンビニに行くことを決意した。別にお金は惜しくないんだ。今まで稼いでも遊べてないぶん余ってるくらいだし。時間のほうが僕は惜しい。

 ということで車をちょっと走らせてコンビニへ。飲み物やおにぎり、お菓子などを買い、トイレを借りて車へ戻る。

 さて駐車場に戻ろうとおにぎりをかじりながら地図アプリを開いたが、どこの駐車場に止めたんだったか分からない。ぐるぐる回ってやっと辿り着いた駐車場で、場所をちゃんと把握していなかった。まあ来た道を戻ればいいかと車を走らせたが、途中からどの道を来たんだったか分からなくなる。そして最初来たときと同じようにぐるぐるするはめになる。

 この街は僕の住んでる街より小さい。こぢんまりしてるなとか思いながら車を走らせていた。もはやもとの駐車場に戻ろうなんて考えはなくただのドライブだ。坂が多くて古めかしい建物が多い。ただ古いだけじゃなく、栄えていた頃の建物だからとてもおしゃれだ。ちょっと楽しいかもと深夜のドライブを満喫していると、びっくりするような光景が目に飛び込んできた。

 桜だった。それもライトアップされた、めちゃくちゃ立派なやつ。それが、古風な建物や住宅の合間に表れた。僕にはとても場違いに思えた。あんまり綺麗で呆然と通り過ぎて、我に返って戻ってきて脇に車を停めた。ちっちゃい、それこそ遊具とかある普通の、住宅街の中にあるような公園。その割にその桜が立派すぎた。観光地の桜ですと言われたら頷くような立派さだ。というか、ライトアップされてるからそのつもりなのかもしれない。

 さらに驚くことに、桜の花の半分くらいはまだ蕾だった。まだ全力の満開じゃないのに目を奪われるような美しさだった。

 公園を包むように広がる枝に、びっしりとついた淡紅色の蕾。一部の花開いている桜の可憐さは言わずもがな。

 惹き寄せられるように近づいて、写真を撮ることを思いついた僕はポケットからスマホを取り出した。写真を撮ろうと構えて硬直する。

 桜の木の向こう側に、人がいた。目が合った。

 ビビった僕は悲鳴も出なかった。だって今、2時を過ぎてるんだよ。深夜だよ。そして桜の木だよ。桜の木の下には死体があるって聞くよ。

 凍りついている僕を見て、幽霊はゆっくり瞬きした。

「ああ、俺が邪魔か」

 幽霊喋った。逃げようとして僕は足をもつれさせて転んだ。

「大丈夫ですか」

「ひぁ!」

 情けない声を上げならか僕は冷静になった。もしかして普通の人で、幽霊ではないのでは。

 恐る恐る僕を見下ろす人を見上げる。ちゃんと足もある。透けてない。あっ、でもそこらで見かけないレベルの美形だ。

「すみません……びっくりしてしまって」

 消え入るようなかすれた声で謝罪して立ち上がる。めちゃくちゃに恥ずかしいしいたたまれない。このまま消えるように去りたいけど、相手が人間だったと知った安心で桜を撮りたい欲が再び出てくる。

「桜撮りたいんでしょう?」

「あっそうです……」

 促されて再びスマホを構えて、写真を撮った。咲いてる桜のアップと、遠くからの全体も。終わってみると僕が幽霊だと思ってビビった青年はブランコに腰掛けていた。見た感じ十代後半か僕と同じくらい。黒いパーカーだけど被ったフードが黄色のチェックだ。

 彼は観察するような目で僕を見る。黙っていなくなるのも変かなと思い、「邪魔してごめんね」と声をかけた。

「観光客……ですか」

 そのまま車に戻ろうかと思っていたけど、思わぬ反応があった。

「一応そうかな……隣の街から来たんだ」

「この時間に観光しに?」

「うん……仕事終わってすぐこっちに来て、一度寝て……」

 寝るところがないとは言いにくくて、それ以上言えなかった。怪訝な顔をする相手に逆に質問をぶつける。

「君は近くに住んでるの? こんな時間にどうしたの?」

「そう。眠れなくて……少し散歩を」

「そっか、僕と同じだ」

 誤魔化すように笑う。彼の視線が痛い。なんというか、切れ長で目つきが鋭いというか力強いというか、見透かしていそうな目をしている。小顔で中性的にも見える顔つきだけど、その目はとても男らしく感じる。

 別に寝るところもないしな、なんて思って、彼の隣のブランコに腰掛ける。これからどうしようか。スマホを操作してまた近くの駐車場を探す。

「どこに泊まってるんですか」

 すばり聞かれて僕は、手を止めた。白状するしかないのか。

「別に敬語とか使わなくていいよ。……実はホテルをとっていなくて、車で寝てるんだけど寒くて眠れなくて」

「なんでそんな……」

「何も計画を立てないで来たから。ただ海を見たくて、朝になるまで時間を潰せれたらそれでよかったから」

 僕は、初対面の年下と見られる相手に何を言ってるんだろうな。

「ごめんね変な話をして」

「うちにこれば」

 話を切り上げて今度こそ車に戻ろうと思っていたけれど、またびっくりするような返答が来る。

「うちって、君の家?」

「そう、アパートで狭いけど」

「いやいや、初対面の人をうちに上げるのはどうかと思うよ。それに君未成年でしょ? お家の人怒らない?」

「十九だけど仕事してて一人暮らしだから」

 なんてしっかりした十九歳だろう。もう二十三だけど見習いたい。僕が一人暮らし始めたの去年だし。

「いやそれでも……お互い名前も知らないしさ」

「名前は桜井海音」

 意外にグイグイ来るなこの人。

「いやいや……どうしたのさ。なんでそこまでしてくれるわけ」

「死にに行くような顔して海に行くとか言われたらほっとけないだろ」

 絶句してしまった。僕、そんな顔してるのだろうか。

「海行くにしてもせめてあったかいところで寝たいだろ」

「そうだね……」

 甘えてもいいのだろうか。相手は年下なのに。

「余り物でいいなら飯も出すけど」

「そこまでしてもらわなくても……」

「寝るのは決定だな」

 決定されてしまった。どうしてこうなった。これ年齢が逆なら犯罪になるんじゃないのか。

 そうと決まればというくらいの勢いで彼に急かされて車に戻る。彼を助手席に乗せて彼のアパートへと向かう。駐車場はないらしいので、やっぱり近くにある有料駐車場に泊めてアパートの一室へと案内された。

 本当に大丈夫だろうか。僕はなにか間違えてるんじゃないだろうか。

「そういえば、名前聞いてない」

 ドアの鍵を開ける彼に聞かれて、僕はいよいよ観念した。

「僕の名前は菊崎知冬」

「菊崎知冬」

 なぜかフルネームで呼ばれた。

「花の菊にみさきの崎。名前は冬を知ると書くんだよ」

「情緒に溢れた名前だな」

 そうなのだろうか。ちふゆって音が妙に可愛く感じてあまり僕は好きじゃない。

 部屋に入ると、ほんのり温かい。こたつがあって、そこに入るようにと言われた。

 男の一人暮らしの割に片付いていて、でもこたつの上は細々としたもので溢れていた。僕の前にある郵便物やなんかの細々したものを片付けて、彼はキッチンへと向かう。

「そういえば、君の名前はなんて書くの? カイトって言ってたよね」

「海の音」

 一瞬なんのことだか分からなかったけど彼の名前だと気づいた。海の音でカイトと読むのか。おしゃれだ。

 海音は冷蔵庫を漁り、なにやら作業を始めた。まさかご飯作ってくれてるわけではあるまいな。

 そういえば僕の寝る場所はどこになるのだろうと思って、部屋を見回した。こたつで寝てもいいのだろうかと思っていたけど、寝れそうなソファもある。ベッドはまた別に置いてあるから、きっとソファで寝れるはず。

 海音が火をつけて野菜を炒め始めた……。絶対ご飯作ってる。

「あの、海音くん? 僕ご飯いらないんだけど」

「腹減ってないのか?」

「え、うーん。でもコンビニのおにぎりは食べたし」

「足りないんじゃないか?」

「でも」

「肉余ってるから食ってくれよ」

 なんでこんな無理やりなの。いや多分遠慮されてると思われてるんだろうな。

 こたつの温かさが身に染み入る。ほっとしてきたところで海音が作っていたものが出てきた。なんと行者にんにくもアスパラも入ったジンギスカンだった。

 ちょっと得意げな海音を見上げる。

「いいの? なんかこんな、すごい豪華だけど」

「親が、山菜採ったっつっていろいろ送りつけてきたんだよ。ひとりじゃ食べきれる気がしない」

「そうなの。ありがとう」

 すごくすごく美味しそうなので、これ以上の遠慮ができなかった。一口食べた肉が柔らかくて美味しくて、これもしかしていいやつなんじゃないだろうか。アスパラも噛めばわっと甘さが溢れて、行者にんにくも美味しい。他の野菜も肉の味付けが染みてて美味しい。全部美味しい。気づいたらぺろっと完食していた。驚くことにおかわりも用意されていて、すかさず差し出された。

 温かい部屋で温かくて美味しいご飯を食べている。それだけで涙が出てきた。おかわりを食べきった頃には号泣だった。

 こんなに満たされた気持ちは久々だった。人前だってのに泣くことの我慢が出来なかった。なんでだろう。そんなに泣き虫じゃないはずなのに。むしろ泣きたくても泣けないようなことばかりだったのに。

「美味かったろ」

 ちょっと涙が落ち着いたところに言われて何度も頷いた。

「高い肉だったからな」

 少し、笑うことが出来た。



 朝の四時に目が覚めた。まだ薄暗いし、海音も寝ている。

 ご飯を食べたあとは、平成ももうそろそろ終わるねって他愛のない話をして、お腹が一杯になって体も温まって気持ちも落ち着いた僕が眠くなったので、それぞれ寝る場所に収まった。

 僕はソファの上。海音は僕に毛布を使わせてくれて、寝る間際に音楽をかけてくれた。よく眠れるようにと穏やかな優しい曲だった。どこまで優しいんだろう。僕が女の子だったとしてここまで優しくされたら確実に惚れているよ。

 それとも僕もしかして騙されているのかな。このあと宿代とご飯代要求されるのかな。いや、そのふたつは要求されなくても渡すべきだよな。でも直接現金渡すのははばかられるし。やっぱ菓子折りかな。街の中心の方に行けばお土産屋さんも多いし選び放題だろうけど。ていうか海音はお菓子好きなのかな。嫌いだったら意味ないし。

 スマホでお店を検索していると、のそっと海音が起き上がった。

「え、ごめん、起こした?」

「いや、眠れないのか?」

「眠れたけど起きちゃった」

「寒いか」

「寒くないよ」

 なんてまめまめしく気を遣えるんだろう。僕を客人として扱っているからか。

 寒いのは海音の方だったのか、こたつのスイッチを入れて自ら入った。と思ったらしばらくして目で入れと訴えてくる。こたつ温まったから入れというのか。どこまで気が利く男なんだ。男同士で年も近いんだからそこまでしなくていいのに。

 と思いつつも言葉に甘えてもそもそとこたつに入る。甘えてばっかりだな。僕のほうが歳上なのにこれはだめじゃないか。もっとしっかりしなくては。

 海音が、また音楽をかける。寝る時にかけたのとは別のやつだ。もしかして音楽が好きなのだろうか。それとは別に、部屋で唯一床に直置きされている本や雑誌に目が行く。読書もするのか。偉いなあ。

「音楽好きなの?」

「うーん、そんなに。でも、この人の音楽だけは別だ」

「どうして?」

「……わからない。でも特別なんだ。抗えないほど好きになってしまった。俺は誰か人を好きになったことはないけれど、恋に落ちるってこんな風なんじゃないかと思う」

 口数の少ない不思議な青年だと思っていたけれど、聞いてみればよくしゃべる。彼は恋をしたことがないという。でも音楽でその感情を知ることができるんだ。稀有な感性だと思う。僕はそれをとても美しく思った。

「音楽に恋するなんてまるで芸術家みたいだ」

 彼は照れたように口元を緩めた。

「そんな表現ができるあんたは詩人だな」

「そうかな?」

「音楽に恋をするとか、普通だったら言わない」

「君が言った言葉だよ」

 聞き覚えがある曲がかかって、僕は少し驚いた。

「この曲」

「知ってるのか?」

「こっちに来る前にね、ラジオで聞いたんだ。遠くへ行けって言われて、じゃあ行こうと思って。君の好きな人の曲だったんだね。奇跡みたいだ」

 みたいだ、じゃなくて奇跡だと思う。海音はその曲をリピートした。とても力強い晴れやかな曲。

「奇跡だ。俺がこの人を知ったのがこの曲だった」

「すごい……こんなことあるんだね」

 感動する人の横顔というのを、僕はこのとき初めて見たと思う。

「ねえ」

 振り向いて僕を見た彼は、きっと僕と同じことを考えていたんじゃないかと思う。

「朝を手に入れに行こうよ」



 空がだいぶ明るくなり、コンビニで朝食になるものを買った。僕はパンで海音はおにぎり。

「今更こんなこと聞くのもあれだけど、今日って仕事とか予定あった?」

「あったら夜中の二時に街中うろついたりしてねーな」

「よかったぁごめんね付き合わせて」

「全然むしろ楽しい」

 そう言って笑ってくれる海音に救われる。

 開いてる店がなくて、海音へのお礼の品が買えていない。何が欲しいかと聞いても応えてはもらえなかった。せいぜいコンビニで買ったものを僕が支払ったくらいだ。

 まだまだ返し足りないなと思いながらも、車を走らせ始める。彼と一緒に海に行きたいなぁと思ったんだ。彼と一緒にいる未来を思い描くのは楽しい。世話を焼かれて甘やかされてるせいだと思う。一緒にいて心地良いんだ。自分が自然体だと思える。

 車内は海音が持ってきたCDの音楽が流れている。

「ライブに行ったんだ。この人のライブ」

「えっすごい。僕ライブとか行ったことないよ」

「俺も初めてだった。とても美しい空間だった。いまだに俺は、あの空間と時間で得た感動を言い表す言葉を見つけられないんだ」

 言葉数が少ないと思っていれば、するすると話すその言葉は話し言葉というより、なにか文章を読み聞かせられているような気がしてくる。そんな彼が言葉を見つけられないでいるような素晴らしい瞬間って、どれほどなんだろう。

「僕は、もうずっと遊びに行ってない。僕は仕事できなくて、残業するしか無くて、疲れ果てて帰って、休みの日も寝てばっかりで、仕事と生きることしかしてないみたいな。そんなんだから友達の付き合いも全然なくなって、本当にぼっちでさ。たまにLINEとか電話来ても、返事できないんだよね。そんな気持ちというか気力みたいなもの残って無くて、それで返事できない罪悪感にも潰されそうになって、僕って本当に何も出来なくて」

 なんか、どうしよう。海音は見ず知らずの僕に世話を焼いてくれるめちゃめちゃいいやつなのに、僕はこんなんでいいのだろうか。いいわけないな。比べたら目も当てられないよ。

「転職とかしないのか?」

「できないよ……すごく大変じゃん。死ぬほうがまだ楽なんじゃないかなって思うけど、僕はビビリでさ、何度も死のうと思ったのに怖くて出来ないんだ。このまま野垂れ死ぬしかないのかなって思ったけど死ぬより先に心のほうが死にそう……そしたら、怖がらないで死ぬこともできるかな」

「突発的に隣町まで車を飛ばせるんだから、その気になればきっといろいろできるだろ。でもきっと持続が難しいんだろうな」

 海音の言葉は研究者みたいに冷静だな。それより何より、死にたい気持ちを否定されなかったことがちょっと意外だった。

「僕が死ぬって言っても否定しないの?」

「生きれるなら生きてほしいと思う。でも生きることが死にたくなるほど苦しいやつにとっては、生きてほしいって言葉は死ぬほど苦しめって言ってるのと同じだからな。そんな残酷なこと言えない。でも、なにか生きることをやめられないなって思えるものを見つけてもらえたら変わるだろう」

「なんか、僕よりずっと大人だね」

「それは違うと思う。俺の見てる世界と、知冬の見ている世界は違っていて、そこから形成される考え方とか感情が変わってくるんだ。だから、見えるだけだ。知冬から俺は大人に見えるだけで実際は違う。実際は違うと俺は思っている」

「難し……哲学みたいな」

 きっと彼は口に言葉を出さないだけで、頭の中でたくさんのことを考えてるんだろうな。僕はというと、ずっと目の前のことばかり。

 なんか、やだな。ずっと海音と自分を比べてる。僕が出来損ないなのはわかりきったことなのに。比べて自分がより勝っているところを探してるみたいで本当に嫌だ。そして分かるのは僕の劣ったところばかり。

 それでも、彼の落ち着いた声をもっと聞きたくて、僕は車を走らせた。ちょっとだけ遠くの海へ。も少しだけドライブの時間を長く。

 そう思って辿り着いたのは、夏になれば賑わうビーチだ。適当な道の脇に車を停めて、草原を横切って砂浜へ。貝殻がたくさん落ちている砂浜だった。シーズンじゃないけど流木も少なくてきれいで、釣り人の姿も見える。

 低い太陽が水面を照らしてる。凪いだなめらかな水面は夏の輝きこそないけどきれいだった。晴れ渡った空は朝焼けの名残の黄色と、青空のグラデーションも美しい。

 僕は、これを見たかったんだ。夏にキャンプしてテントで泊まって、目が覚めてテントを出たときの風景。全く同じではないけれど、やっぱり美しいのは変わらない。

 砂浜に散らばる貝殻が、キラキラと光って見えた。屈んでみるとたくさんの貝殻の中にシーグラスが混ざっている。僕は海の色と同じ濃い青色のシーグラスを拾った。あと花みたいな模様のついた貝殻とは違う何か。これは何だろう。

「タコノマクラだな」

「タコの枕?」

「ウニの仲間だ」

 僕の手元を覗き込んで海音が教えてくれる。そんなことも知っているのか、物知りだ。

 僕は欠けてないきれいなタコノマクラを探して拾って、砂を丁寧に払って海音に渡す。

「あげるよ」

「え」

「これなら多分思い出になるしさ、貰ってよ」

 我ながらかなり幼稚だと思う。でも、この美しい思い出を形で確かなものとしてとっておきたかったんだ。

「ありがとう……」

 驚きながらも海音は受け取ってくれた。今更だけどなんだか恥ずかしい。僕は何やってるんだろう。

「てか、思い出なら写真も撮れば」

「あっ、そうだね」

 僕はスマホを取り出して海音に向けた。海音は「いやいやいやいや」と言いながら僕のスマホを鷲掴みする。写真撮れないじゃん。

「なんで俺に向ける」

「いやだって、思い出」

「海を撮れよ海を」

「あ、そっか」

 静かな海とか、空をうっすら染める太陽とか、キラキラ光ってる砂浜とか一通り写真を撮って、やっぱり海音を撮りたいなと思う。ちらっと海音を見るとぼんやり海を見ていたので、速攻で盗撮した。秒で音でバレた。

「あんたな」

「ごめんて、でも絵になってたもん」

「じゃああんたも撮るからな」

「僕じゃ絵にならないし」

「なってるから安心しろ」

「意味わかんないし」

 言い合ってるうちに海音がスマホを出したので僕は逃げた。逃げててもカシャカシャ撮られるので砂を投げつけて妨害すると「やめろっ!」とマジなトーンで言うのでちょっと危機を感じた。逃げたんだけどね、僕は足が遅いのでね、呆気なく捕まって転がされて砂まみれになったよ。その状態で写真を撮られた。

「酷い。あまりに。鬼畜だ。ドS」

「盗撮と砂かけた罰だ」

「海音だって撮ったじゃん」

「黙って撮られてたらここまでしなかった」

 僕が立ち上がると海音が服の砂を払ってくれた。やっぱり優しいから仕打ちは水に流すしかない。

「いや……でもやっぱり不公平だ。僕はかっこいい海音を撮ったのに僕は砂まみれ」

「様になっていたぞ」

「馬鹿にしてるな?」

「してない。楽しい思い出だ」

 笑ってそう言われるとやっぱり許すしかないなあと思ってしまう。海音はずるいな。こんなのなんでも許しちゃうよ。

「満足したか」

「うーん、うん。海は満足かな」

「他になにかあるのか?」

「花を見に行きたくて」

「桜か?」

「そうじゃないんだけど」

 どうしたらいいのかな。もうちょっと一緒に居られたらと思うんだけど、やっぱりこれ以上は迷惑かな。

「一緒に行けばいいのか」

「うん……迷惑じゃなければ」

「じゃあ行くしかないな」

 笑う彼は本当に楽しそうに見えて、僕はそれを信じるしかないんだ。

 並んで歩くと彼と僕は身長が同じだ。伸びる二人の影の写真を撮る。なんだか友達みたいだ。



 僕の住む街に戻ってきた。といっても中心部からはうんと外れた森林公園。時間はもう少しで六時になる。

 鮮やかな新緑が朝日に照らされて眩しかった。白樺の根本に水仙が咲いているのを見て、僕は早速写真を撮った。

「この公園は知ってたけど、来るのは初めてだな」

「そっか。すごくいいところだよ。たまに散歩に来るんだ。といってもずいぶん前に来てから来てなかったけど」

 白樺の林を通り過ぎると、ポプラが囲むカナールが見えてくる。人工の水溜まりみたいなもので、カモが一羽泳いでいた。

 そこも通り過ぎて雑木林に入ると、桜が咲いているのもちらほら見える。下草は朝露でキラキラと光っていた。それらをひとつひとつ写真に収める。きれいなものは全部見逃したくない。きれいなものは一番きれいな角度で見てみたい。

 フラフラとあっちこっち行き来した僕は、朝日の逆光の中咲いていたコブシに近づいた。手を伸ばせば触れられる距離に咲いている。コブシの花びらを間にして、太陽とかくれんぼをする。スマホの画面の中で花びらが光る。

 思い通りの写真を取ろうと何枚も写真を撮って、やっと撮れた写真を眺める。我に返って海音を探そうとしたら真後ろにいて驚いた。

「びっくりした」

「知冬は、綺麗なものを見つけるのが上手い」

「え?」

「桜にしろ海にしろそのコブシにしろ、人によっちゃただ通り過ぎるのに、足を止めてそうやって眺めてる」

「だって、綺麗なものは見ていたいじゃん」

「綺麗なものを見落としてしまう奴もいるって話だ」

 海音は咲いているコブシの花びらに触れた。本当に、美形は何をしても絵になるなあ。撮っちゃだめかな。

「俺、小説を書いてるんだ」

「えっ、凄い」

「凄くない。ただのド素人の趣味だ。元々文章書くのが好きっていうか、物語考えるのが好きだったんだけど、音楽……あのアーティストを知ってからは美しいものを書きたいなって思って。でも、俺には書けないみたいなんだ」

「どうして?」

「分からなくなったんだ、何を書けばいいのか。好きな音楽の真似みたいな話を書いてみても、美しいものになるかも知れないが俺は真似をしたいわけじゃない。自分が美しいと思えるものを書きたい。でも自分が美しいと思っているのが何なのか分からない」

 僕には考えることも出来ない難しい問題だ。そもそも、この世界には花とか海とか空とか美しいもので溢れている。美しいものが何なのかわからないという状態が、僕には分からなかった。

「でも、知冬が惹き寄せられるみたいに桜の下に来たとき、感動みたいな気持ちが起こった。桜を見上げて呆然とする姿はどう見ても美しいものを見つけて心奪われてた。人が美しいものを見つけたとき、対面したときはこうなるのかって」

「僕そんなにわかりやすいか……」

「わかりやすい。で、俺はそれがとても美しく思えた」

「え?」

「美しいものを見て、美しいと思うその感情のまま……違うな。一目惚れとか崇拝とかに似たものを感じた。その感情に従って対象を見つめる姿に純粋さを感じた。美しいものには美しいだけでそれ以上の見返りはない。それでもその美しさを求められるその心がとても無垢で綺麗だと思えたんだ」

「そう……」

 きっと、単純な言葉にすれば「美しいと思う心が美しい」ってことなんだろう。僕を見ていてそのことに気づいたっていうのがなんだか不思議な気持ちになるけど、逆に僕を見ていてそこまで考えられるのがすごい。

 フードを被った海音が僕の方を見る。

「きっと知冬だからそう思えた。消えてしまいそうな、ふらふらと心もとない知冬がはっと魂を取り戻したように表情が顔に出る。まるで生き死により綺麗なものが重要なみたいだ」

「あはは……でも、実際にそうかも。綺麗なもの見てるときは嫌なこと忘れられるよ」

 僕は視線から逃れるようにゆっくりと歩き出した。

 なんだか申し訳なかった。赤の他人なのに、死んでしまうんじゃないかと思わせて心配させてる。負担をかけている。

「俺、知冬を主人公にして小説書こうと思う」

「え!?」

 後ろから聞こえてきた言葉に驚いて振り向く。真剣な表情の海音が立っていた。

「もちろん名前とか色々そのまま使おうとは思わないけど、モデルにした主人公で綺麗なものを見て歩く話が書きたい」

「ええ〜……そんな、僕じゃなくても良くない?」

「知冬じゃないと書く気にならない。書き上がったら読んでもらうから、連絡先教えてくれ」

「うーん、わかった。じゃあ電話番号言うね」

 海音がスマホを構えるのを見て、僕は電話番号らしく聞こえる十一桁のでたらめな数字を言った。

「帰った頃に連絡もらえる? それまでに写真を選んで、LINEで送ってあげるよ」

「わかった、ありがとう」

 嬉しそうな海音に罪悪感を感じないわけではなかったけど、これ以上この青年に負担をかけたくなかった。

 彼との美しい思い出は美しい思い出のままとっておきたい。きっと、この先こうして繋がっていても彼を傷つける結果になるから。

 海音にとっても、綺麗な思い出になるといいな。



 最後に僕が一番好きな白い花の前で、二人で写真を撮った。地面に生えてる花だからうまく背景に入らないと二人でまたわちゃわちゃして、ようやく綺麗に撮れた一枚は二人共笑顔だった。海音も僕と一緒なら写真に写っていいらしい。

 それから一番近い駅まで海音を送った。自分の家まで行ってこちらの街まで戻るのは大変だろうという海音の気遣いだ。

 最後の最後まで優しい彼に僕は酷い嘘をついた。

「あとで連絡ちょうだいね。また一緒に遊ぼ」

「ああ、絶対な」

「うん、小説も楽しみにしてるね」

 どう見送ったらいいか分からないでいる僕に、彼は手を差し伸べた。ぎゅっと握って握手する。ちょっとひんやりした手だった。

 正直に言えばその手を離したくはなかった。辛くて仕方がなかった僕にたくさん優しくしてくれた手だ。でもだからこそ離さないといけない。これ以上彼に頼りたくない。年上だからとかそういうの以前に、その優しさに甘えて依存してしまいそうだった。

「海音、今日はありがとうね」

「こちらこそ、楽しかった。ありがとう」

 離れていく手を、向けられた背を、僕は見送って駅前の車に戻った。すぐに車を走らせた。

 もしかしたらすぐに連絡をくれて、番号がでたらめだって気づかれるかも知れないから。そう思った僕の予感は当たっていて、曲がり角を曲がる前、サイドミラーに彼の姿が映ったのを見た。彼が駆けてくるのを無視して車を走らせる。

 僕は君を忘れないよ。君のくれた優しさを忘れないよ。これからもうちょっと頑張れる気がしたよ。

 これから毎年桜の時期に、君と出会った桜を思い出すだろうな。満開になったらすごいんだろうな。

 君の聞いてた音楽、これから僕も聞くよ。優しい曲が多かったのを覚えている。だから君も優しいんだろうな。

 タコノマクラ、実はふたつ拾っていて君にあげたのと別に持ってるんだ。君とお揃いの思い出の品だと思うと宝物だよ。

 あと、写真だね。美形だからもっと撮りたかったなぁ。女性にこの写真の人と遊んだんだと言ったらさぞ羨ましがられるだろう。いや僕も男だからそうはならないのだろうか。どっちにしろ見せびらかすような相手いないんだけど。

 小説も読みたかったな。未練たらたらだな、僕。でもこれだいいんだ。

 朝日に包まれる街が歪むのを見る。もう少し、この美しい世界で生きてみようか。


実際に海に行ったときのことをネタにしています。

作者は最初から最後までぼっちでしたが。

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