幼き日の罪過
幼き日の私はよく、向日葵の似合う子だと言われていた。写真の中で大輪の向日葵を背に笑うワンピースの少女は、我ながらとても可愛らしいと思う。
その一方でこの頃の私が清廉であったかと言われれば、そうではないのだ。貪欲なまでに遊び相手を欲していた私は、無邪気の免罪符の下に数多の虫や玩具を粗末にしてきた。
その中でも、とある西洋人形のことを忘れたことはない。名前を付けて可愛がっていたし、別れ際の彼女の表情は私の心を深く抉り抜いたからだ。
ゴミ収集車に放り込まれ、他のゴミに巻き込まれて砕けていくあの娘は、最後まで私を見つめていた。
感情の無い蒼眼を不変の笑みに宿したまま、彼女は破砕の船に乗せられ、曲がり角を一つ曲がって私の視界から永遠に消え去った。
あの瞳が、私を咎人へ変えた。
思い知ったのだ。あの瞳に無邪気な心を抉られて。
私の遊戯の罪深さを、殺した生命の重さを。
これは罪だ。幼き日の私が犯した重罪。
今でも私は、時たま自責の念に駆られる。
そして自嘲するのだ。愛を以って接したくせに、彼女の名を思い出せない自分を呪うのだ。
残酷な船旅の途中、彼女は砕け逝く最中に何を思っただろう。
憎悪か、怨嗟か。少なくとも、明るい感情でないことは確かだ。
人形に感情があるとは思わない。付喪神というものも信じる気には到底なれない。それでも私は、忘れてはならない。人間として、咎人として。
さて、この話を私は友人に聞かせたことがある。
彼はさも理解出来ないという風に首を振ったものだ。
そんな過去の事に縛られるなど愚昧極まる、罪は時の流れに洗い流されるものだ。彼はそう言った。
そんな言葉に救われた気分になる私はやはり人間だ。 最早癖と化した薄ら嗤いが口元に滲む。
結局、私は向日葵の似合う人の様だ。
偽りの愛を生き生きと撒き散らす、向日葵の似合う少女だったのだ。