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突然、部屋の扉が勢いよく開け放たれる。私はびくりとして音を立てた扉の方へ顔を向けた。部屋の入り口に、何やらむくれた様子のあれが立っている。おや、と声を上げたのは主だった。
「もう目が覚めたのかい。何だか、ご機嫌斜めだね」
からかうような主の声を無視し、あれは主の言葉通りの不機嫌な顔をしてずんずんと大股で部屋の中へ侵入してくる。それに伴うように、かさかさと何かが物音を立てていることに私は気がついた。何だろうかと考えるのと同じくして、手中で蠢くものに気づく。目線を下ろすと、手に持っていた資料の紙束が小刻みに震えていた。私は、うわ、と短く声を上げて資料から手を離してしまった。解き放たれたそれは自由に羽ばたく鳥のように部屋の中で舞い上がる。
羽ばたいたのは、私の持っていたものだけではなかった。部屋中の紙という紙が、舞い上がって震えることで音を立てていたのだ。その異様な光景に、私は反射的に主の様子を振り返っていた。主の周囲でも紙が飛び上がり舞っている。あれが歩を進める度、主に近づく度にそれは震えを激しくして音を大きくし、さらに勢いよく飛び交うので、ぶつかったり、空気の抵抗を受けたりしてびりびりと破けていった。紙屑となっていく資料や依頼書が花吹雪のように部屋中を駆け巡る中で、椅子に座っている主は笑っている。
「主様」
ちらつく視界に目を細めながら、腕で顔を庇う私の呼び掛けに答えたのかどうかはわからなかったが、主は、ああこれは、予想外だったね、と呟いていた。その様子がとても楽しそうで、何故だか私は余計に焦りを感じた。
紙屑の吹雪が巻き起こす風で、あれの髪がぶわりぶわりと暴れて広がる。その中に潜りこんだり、すり抜けるようにしてぶつかってくる紙屑を煩わしそうに振り払いながらあれは着実に歩を進め、私に構わず真っ直ぐ主の元まで歩み寄った。置いてあった紙類の全部が飛び立ってしまったことで綺麗になった主の机に、主は肘をつき手を組んであれを待っている。
紙屑が、意思を持ったかのように主の頭上に集まり始めた。ごう、と室内には相応しくない突風が巻き起こって、主の上に竜巻を生み出す。主の背後の大きな窓は、がたがたと全身を叩き揺らされている。
一つに集まった紙屑はまず球体になり、そしてそれは人の上半身を形作った。目や口を表すような窪みが現れ、紙屑の大男が出現する。それは低く腹に響く雄叫びを上げて、拳を振り上げた。そこまでの一連の様子を見て、私はようやくこれが主の命を狙った魔術であるのだと理解した。あの大男の拳は、主めがけて振り下ろされるのだ。そういう呪いなのだ。
しかし私の脳内に一瞬で描かれた恐ろしい未来はやってこなかった。代わりに、あれが主の机を乗り越えて、主に抱きついていた。主の肩口に顔を埋め、ぎゅうぎゅうと力強くあれが抱きつくと、頭上の大男は何故か拳を振り下ろすことを止めて、自身の頭を抱えて呻き始めた。苦しげな声を上げて暴れる大男の体はすぐに綻び始めて、次の瞬間にはぱっと弾けて散っていった。部屋の中を、大量の紙屑が舞う。先ほどまでとは打って変わってゆっくりと、小さな紙屑がはらはら散っていき、その様はまるで花弁のようで美しい風景と錯覚させる。
――私の目前で、抱き合う二人が紙屑の祝福を受けていた。
紙屑が散り止まぬ中で、主は喉奥からくつくつと笑い声を上げた。しっかと抱きつくあれを受け止め、抱きしめ返しながら片手で自分の顔を覆う。
「これは、してやられたね。まさかすべての紙に微弱な呪いをかけるなんて。あの爺どももやるじゃないか」
主は空中で紙屑の一切れを指先で摘まむと、それを燃やした。床につく前に、それは消えてなくなる。私はまだ呆けた心地で部屋の中を見回していた。一面紙屑だらけで本棚なソファーなどの上など、至る所にも降り積もっている。
「呪いを解いても、掃除が大変ということだね」
主は依然として愉快そうなままである。それを不服に思ったのか、主にしがみついていたあれはぱっと身を起こし、主の上で主をじっと見下ろした。あれの視線を受け、主は「よく呪いを嗅ぎつけたね。さすがだよ」とあれの頭を撫でる。
私の位置からでは主の表情と、あれの背中しか見えなくて、あれが一体どんな表情で主からの触れ合いを受け入れているのかはわからなかった。主が不用心であったことを怒っているのか、主が無事であったことを喜んでいるのか、もしくはことが済んで既に関心を失い、いつもの無表情に戻っているのか。
私が好奇心に唆されてあれの表情を覗きこむ前に、ぱたりとあれは力なくまた主の肩にもたれかかってしまったので、私にはあれの表情がわからないままであった。主は満足そうに、珍しく少し頬を紅潮させてあれの背中をとんとん、と叩きながら目を伏せている。
一拍置いて、さて、と主は私を見据えた。
「仕事の変更だよ。君には、これを片すのを手伝ってもらおうか」
主は部屋の惨状を見て、全部やられちゃったね、と苦笑を浮かべていた。主の書斎には、今回の会合で得たものではない資料や依頼書なども置かれていたというのに、紙という紙がすべて散々になっているので恐らく巻き込まれて呪いに関係のないものまで紙屑となってしまったのだろう。主は引き出しを開けて中身を確認すると「中の物は大丈夫そうだ。本も、平気そうだね」と言い、数冊本が転がり落ちてしまった本棚の様子も確認した。
「この紙屑を拾い上げて張り合わせるよりも、依頼人から催促の手紙をもらった方が早そうだね」
私は本を棚に片付けながら頷いた。自分の依頼が達成されていないとわかれば、依頼相手からはきっと催促状がやってくるだろう。もともと主は依頼をすべてこなすような人の好い魔術師ではなかった。次から次へと舞い込んでくる依頼を片すついでに気が向いたらこなす、という程度だ。依頼書が消失したところでそれほどの痛手ではない。
主の言葉から紙屑をすべて処分して良いことを察した私は、すぐに片付けの用意を致します、と言って部屋を出た。異常を察知した他の使用人が近くまでやってきていて、私は何があったと問うてくる使用人たちに上手く説明してやることもできないまま、ただ掃除の手を貸して欲しいという旨だけを伝えた。数人の使用人と掃除道具を持って部屋に戻ると、主は紙屑を退けて隙間を作り、そこに大きな魔方陣を描いていた。傍らでその様子を見ていたらしいあれは、私たちが部屋に入ると、すっと主の背後に隠れるように身を縮めた。私が一体どうしたのだろうかとその様子を見ている背後で、他の使用人がまたあれか、と小さく嫌悪の篭った声で呟くのが聞こえた。私は納得する。あれは我々使用人に好かれていないことに気づいているのだ。何も知らない者が見れば、あれがまた何か不都合なことを起こして主がその処理に追われているようにも見えなくはないだろう。かつての私もそうであったし、そう使用人たちが囁く出来事が、今まで何度も起こってきた。今の私には、それはすべてあれが解呪の呪いの力を発揮したためだということがわかる。
「紙屑をこの陣の中にすべて集めてもらえるかな。一気に燃やしてしまうから」
主は私の思考を読んだように、私の目をじっと見て、口角を上げてそう言った。主は、他の者たちにはどうやらあれの力について話すつもりはないようだ。言葉は全体に向けられているのに、意識ははっきりと私に向けられているのだと感じた。私はぞくりとして頷く。すぐに掃除に取りかかってその眼の中に閉じ込められることから逃げ出した。
力を失ってしまえばそれはただの紙屑に過ぎなくて、掃除は順調に進み、皆せっせと陣の中に紙屑を運んだ。
主が使用人に指示を出していて、所在なげにしているあれはしゃがみこんで紙屑を手に取り、それを弄っていた。私はそれに気づいて、少し迷ったが、あれに近づいて目線を合わせるようにしゃがみこんだ。あれは私の存在に気づいたようだったが、顔は上げず、ただ睨むような鋭い視線を一瞬だけ私に向けた。
「……やることがないなら、お前もあの中に紙屑を運んだらどうだ」
話しかけられたことに驚いた様子のあれは一瞬身を固めていたが、徐々にそれを弛緩させていって、顔を上げた。私を見上げる大きな赤い眼は、いつもの死魚のようなそれとは違っていて子どもらしい幼さが感じられた。
瞬きをした後に、あれは顔を伏せ迷っているような仕草を見せたが、そっと指先で紙屑を拾い、小さな手の中にそれを集め始めた。私がその場を離れても、あれは真剣な面持ちで紙屑を集め続けている。一枚一枚拾い上げて、片手がいっぱいになると陣の方へと向かい、そこへはらはらと紙屑を散らした。
主がその様子に気づいて、あれに微笑みかける。主が、ありがとう、と口を動かしていたことと、あれの頬にわずかに赤みが挿したことの関連性はきっとこの一連の出来事を目撃した私にしかわからないことなのだろう。そう思うと少しだけ、私にはあの二人を繋ぐものの輪郭が見えてきたような、そんな気がした。だがそれも、私の個人的な考えに過ぎない。
主は陣の中に集まったすべての紙屑を一斉に燃やす。それはあれの眼のような赤ではなく、あれの美しい髪を連想させる、滑らかな青い炎であった。
(お風呂に入ったら更新を忘れました(-"-;A)
最期まで読んでくださり、ありがとうございました!
これまでは短編をいくつかに分けて掲載していたのですが、今回は連載形式でコンパクトに掲載してみました!
探り探りなので形式や時間帯が変動してしまって申し訳ありません……。どちらの方が読みやすいか、など教えていただけると非常に助かります。
趣味全開な美少年の集い(笑)なお話でしたが、いかがでしたでしょうか。書いていた時のテンションは高くも、完成後は何だか気恥ずかしい感じになりました……。お楽しみいただければ、幸いです(〃▽〃)
次回は12月11日20時ごろ「ぼくは秘密の宇宙と出会う」を掲載予定です。
某なつやすみシリーズ的な雰囲気を目指して!
のほほんと不思議な、ぼくくんと宇宙人のお話です。