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死魚の眼  作者: 七水 樹
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 主はあれとともに湯浴みを終えて、自室へと戻っていた。血塗れだったというのに、主は少しも弱った様子を見せなかったので、一体あれは何だったのだろうかと私は顔をしかめて考えてみたが、魔術を使えぬ平民には理解し得ぬことだと諦めた。


 三日ぶりに湯浴みをしたあれは気持ち良さそうに微睡みながら、主に髪を拭かれていた。水分を粗方吸いとると、青い髪はもとの輝きを取り戻したように艶を放ってさらりと流れるようになる。


 私はあれのために用意した食事を主のもとに運んだ。主は礼を言ってそれを受け取り、あれの口元に食べやすく小さくした食べ物を差し出す。私が届けても食にまったく興味を示さなかったのが嘘のように、すんなりとあれは食事を受け入れた。一口食べてこくりとそれを飲み込むと、早く、とせっつくようにあれは主の手を追っていた。口を開いて食事を待っている姿はまるで雛鳥のようだ。


「美味しい?」


 あれの食べっぷりに主は顔を覗きこみながらそう尋ねる。しかしあれは頷くこともしないで、口を開けて待っているだけだった。さらに一口食事を運んでやった主は、ねぇ僕にも頂戴よと声を潜めてあれの口元に顔を寄せた。私はまさかまた口づけをやってのけるのかとぎょっとしたが、咀嚼を続けていたあれは拒絶を示してふいと顔を背け、主の腕の中で少しだけ暴れた。主はそんなあれに、穏やかな笑い声を上げる。単調な動作しか起こさないあれのどこか深い場所で、主はあれと繋がっているように見えた。我々使用人にはわからないものを、主はあれから汲み取っているのだ。


「君には迷惑をかけたね」


 あれが食を受け入れたことに私が拍子抜けしたことを見抜いたようで、主は穏やかな表情をこちらにも向けた。私が食事を与えようとしてもあれが見向きもしなかったことが、主には伝わっているようで私は安堵した。滅相もございません、と深く頭を垂れる。確かに一切の興味関心を向けられなかったが、迷惑と言うほど手がかかったわけではない。


「……ところで」


 頭上から少し声音が変わった主の声がかかり、私は顔を上げた。一体何だろうかと餌付けを続ける主の方を見ると、主はこちらを見ないまま「……留守の間、一度この子に近づいたね?」と静かに、断定的な響きを持って私に問うた。主のそんな様子に、私は疚しいことなど何もないというのに、体の芯が冷たくなるような気がした。


「は、はい。一度、あまりに動かないので、少々不安になりまして」


 言い訳がましく言葉を紡いでしまうことに自分自身で焦りを感じながら、私は声を震わせた。そんな私の様子をどう思ったのかはわからないが、主は沈黙の後に目だけで笑ってみせて、そう、ありがとう、と言った。


「そんなに緊張しなくていいよ。僕はただ、君がどう思ったのか知りたかっただけだからね」


 主のその言葉の意味を汲み取りきれなくて、私が曖昧な返答をすると、今度は口角もあげて主はにや、と笑った。


「それで? どう思ったの」


 どうと申しますと、と私は問いに問いで返してしまう。主は機嫌を損ねた様子はなく、この子をそばで見て何か感じなかったかい、と直接的な質問をした。私はそれによって、ベッドに埋もれたあれを見た時のことを思い返した。死んだ魚の目をして周囲を睨みつけるのではなく、穏やかに眠る姿。それは確かに、芸術品のような緻密な美しさを感じさせた。


「……美しい、と、感じました」


 嘘をついても仕様がないと、私は正直に感想を述べた。その答えが届いたのか、じとりとあれが私を睨んだので、決して疚しい感情があったわけではないという旨を弁明した。その様子を、主は愉快そうに見ている。


「疚しいかどうかは置いておいて、他に何か思わなかったの」


 私に質問することに注意を向けすぎて、あれへの餌付けの手が止まり、あれは主の注意を引こうと頬へ吸いついた。主からの行為は嫌がっても、自分からはいいのか、と私は目のやり場に困って下を向きながら、混乱する頭で「他に、ですか。他に……」と言葉を並べた。主はあれへの餌付けを再開すると、私から視線を外したまま、例えばね、と例示する。


「欲しいと思わなかったかい」

「は」


 間抜けな声を上げて、私は瞬いてしまった。主はにっこりと人が好さそうに見える笑みを浮かべる。


「僕はこの子をとても美しいと思ったし、そして同時に欲しいとも思ったよ。人は誰しも美しいものを欲するだろう。魔術師はもっとだ。欲しいものは、作り出してでも得ようとするのさ」


 ねぇ、と主はあれに同意を求めたが、あれはそんなことはどうでもいいとばかりにぱかりと口を開くだけだった。食べ物をもっとよこせと、飢えた雛鳥は声なく要求する。そんな様子をちらりと眺めながら、私はとつとつと主の問いに答えた。


「美しいとは思いましたが、欲しいとは……。よくわかりませんが、私にそれは不必要かと」


 主のお気に入りとはいえ、我々使用人にとってあれはただの子どもであり、口も利かない、愛想もない、ただ目つきが恐ろしいだけの不気味な存在だ。いくらそれが美しく見えたところで、欲しいという感情は浮かばなかった。そもそも人間の子どもに対して欲しいなどという感情を抱くその理由が私には理解できないことだったのだ。それをそのまま伝えると、主は唐突に声を上げて笑った。あれほど大声を上げて豪快に笑う姿は主に仕え始めてからこれまで一度として見たことはなかった。驚く私に、主は「実に君たちらしい答えだよ。無欲というのは、素晴らしい」という言葉で少しずつ笑いを収めていった。


「そうだね、一瞬でこの子を欲しいと願うのは、きっと欲に塗れた魔術師だけだ」


 自嘲を込めたようなその物言いに私は何も言えなかったが、主は機嫌が良いようだった。


 それから程なくして主はあれへの餌付けを終えた。満腹になったらしいあれは、少し汚れた口元を主に拭われることを今度は嫌がらなかった。というより、満腹になったことで眠気がふわりと立ち上っているようだった。いくらか鋭利さを欠いた眼が細められる。あれは主の留守中、死んだように寝てばかりだったが、その様子から見るにあまり深い眠りにはつけていなかったようだ。


 主はあれを抱きながら眠りやすいように体勢を整えてやって、長い髪を弄ぶように梳いてやりながら囁きかける。


「ありがとう。僕は大丈夫だから、もうお休み」


 その囁きがまるで眠りの呪文であったかのように、あれは静かに目を閉じていき、ただ美しい存在へとその姿を変えた。主はあれが完全に眠りについたことを確認すると、ベッドにあれを横たえる。真白なシーツの中に、青く咲くあれの額に軽く口づけを落とすと、主は居たたまれない私を振り返った。


「さて、君にはもう少し仕事を手伝って欲しいのだけれど」


 ついて来てくれるかい、と言う主に続いて、私はあれに一瞥をくれてから静かにその場を立ち去った。






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