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死魚の眼  作者: 七水 樹
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 ――あれは一体何なのだろうかと、私は主に仕え始めてからずっと疑問に思っていた。


 私の主は、まだ十六の少年だ。すらりとしていて背が高いことで、年齢よりも大人びて見えるが、それでもまだ少年らしい幼さを残した顔立ちをしている。主は魔術を使う者の証として、透き通るような真白の髪をしていて、我々魔術を扱えぬ平民は、魔術師に仕えて日々を送っていた。


 私が主に仕え始めて、もうすぐで二年になる。しかしあれは、私がここに来る前から、主のそばにあったらしいのだ。


 私たち使用人が『あれ』と称するのは、いつも主の傍らに置かれた少年のことだった。主よりも二、三歳若く、背も頭一つ分小さい。大きな赤い眼と整った顔立ちは少女と見間違うほどに愛らしかったが、その目はいつも何かを睨みつけるように細められてじとりと一点を見つめていた。魔術師とは違い、美しく長い青髪をなびかせている。


 主はいつもあれをそばに置き、片時も手離そうとはしなかった。愛玩のものかもしれないが、あれは年も変わらぬ同性である。そういった対象には見えなかった。しかし主はあれをとても大切にしているようだった。抱き上げたり、撫でたりとまるで恋人のように親しげで、あれもあれで主にぴったりとくっついていた。それでもその両者が愛し合う者同士に見えないのは、恐らくあれの眼のせいだろう。どんなに主が愛情を注ぐ素振りを見せても、あれは決して主を見ようとはしない。いつも主の腕に抱かれながら死魚のような光のない目をして周囲を睨みつけているのである。


 主は今日もそんなあれに対して、睦言を囁いて愛を与えている。あれはにこりともせず、そんな二人の様子を見ていた私を睨みつけていた。一体あれは何なのか、そして主はあれのどこが良いのか、私にはよくわからなかったが、ただの使用人である私が口出しできることではなかった。





 三年に一度だけ、この国に住まうすべての魔術師に召集がかかる魔術師会合が行われる。様々な魔術師が集まり、互いに近況を報告したり、魔術師同士の社交の場となっているのだ。主は今年からその優れた魔術を扱う能力を評価されて、会合の運営を担当する常任委員に任命された。最年少の任命であり、あまりそれをよく思わない輩もいたが、主が笑みを向けると皆黙っていた。突出したその力は畏怖の対象となっていたのだ。才能社会である魔術師社会では年齢など関係ない。


 会合に出席するにあたり、二、三日主が家を空けることになった。私はてっきりあれを連れていくのかと思っていたが、主は数人の使用人だけを連れて出発してしまった。主は私を含めた家に残る使用人に「あの子のことをよろしく頼むよ」とだけ言いつけて、あれをいつもともに眠るベッドに置いたままにした。


 私は主に言いつけられたことを守るべく、あれに決まった時間に食事を運んだり、服を用意したり、湯浴みの準備をしたりと世話を焼いたが、あれはそれに一度たりとも答えようとはしなかった。それどころか、ベッドから少しも出てこようとはしないので、生きているのかと不安になったほどだった。せめて食事だけでもしてもらわなければ、主が帰ってきた時に私の立場がないと、私はあれに近づいて、食事をさせようとしたがベッドに埋まるあれを見て、何もできなくなった。


 静かな寝息を立てて眠っているあれは、恐ろしいほどに美しかったのだ。髪と同じように睫毛も青く、それが白い瞼の先に咲いている。あれは上に大きなシャツを着ているだけで、よれたそのシャツから覗く二本の白い足は細くしなやかだった。シャツと肌の白を包み込むように青い髪がベッドにふわりと散らばっていた。あの鋭い眼光がないだけで、これほどただただ美しい存在へ変わるのかと、私は息をいた。まるで、魅するためだけに生まれてきたかのような存在だった。


 私が近づく気配に気づいたのか、ぴくりと瞼を震わせてあれは目を覚ました。ぼうとした様子のまま、目だけ動かしてそばにいた私を確認する。気だるげに起き上がったあれは、言葉は発しなかったが、いつもの鋭い視線で私に主が帰ってきたのかと問うたような気がして、主はまだお帰りでない、と私はあれとの距離を置きながらそう答えた。


 あれは私に興味を失ったようで、ぱたりとまたベッドの中に倒れこんで埋もれていった。食事は、と問いかけてもやはり何の反応もなく、私は結局あれに食事を与えることを諦めた。





 主が家を出て三日目の夜。主が家へと到着した。使用人が総出で主を迎え、皆玄関の広間で待機していた。


 扉が開いて、主が帰宅する。お帰りなさいませ、と声を揃えた使用人に主は笑顔でただいま、と答えた。


「留守の間、ご苦労だったね。何か変わりはなかったかい」


 使用人の一人に上着を手渡しながら、主はそう尋ねた。いえ、と答える使用人のやや後方から、私は主に頭を垂れてあれのことを報告した。


「変わりはありませんでしたが、その……あれが食事を採ろうとしないもので」


 完全にお手上げだった私は素直にそのことを申し出た。お叱りになるだろうかと不安に思っていたが、主はそうだと思ったよと軽い笑い声を立てるだけだった。


「あの子はとても頑固だからね」


 僕が食べさせるから食事の用意をしてくれる、と主に命じられて私は短く了承の返答をした。丁度それと同時に、小さく扉が開く音がして主と使用人たちの視線は一瞬そちらへ集まった。あれが部屋から出てきたのだ。


「やぁ。良い子にしていたかい」


 主は普段あれに接する時と同じように、猫なで声に近い甘い声でそう呼びかけた。あれは返答せず、覚束無い足取りで階段を降りてこちらにやってくるようなので、私はもう一度主に頭を垂れてそばを離れた。


 まるで幼子が親元へ寄っていくように、とてとて、とあれは主へ近づいていく。両腕を広げてそれを迎える主は口元にだけ笑みを浮かべていた。だがあれは、そんなことはお構い無しに主の胸に勢いよく飛び込むと、そのままぐいと体を伸ばして爪先立ちになって主へと口づけた。


 あまりに急で、そして深い口づけに、使用人たちはぴたりと動きを止めた。主とあれだけが動くことを許された不可思議な世界がその瞬間には広がっていた。


 しかし、主の状態の変化により、その世界は崩れ落ちる。ごぷりと、口づけをしている両者の間に赤黒い液体が吹き出したのだ。あれはそれを吸い出すように口を大きく開けて主に噛みつくと、ねとりとした赤い糸を引きながら液体と、肉塊のようなものを主から抜き取る。そしてそのままそれを吐き出した。床にべちゃりと不快な音を立てて、血液と思わしき液体を纏った黒い肉塊が落ちる。


 あれは顔の半分を赤で染めて、主も口から血を垂らしていた。使用人の女が悲鳴を上げて、男は「貴様、主に何をした」と怒鳴った。誰が見ても、あれが主に何かしらの作用をして吐血させたようにしか見えなかったのだ。数人の使用人が主からあれを引き離そうと近づいたが、主はすっと片手を上げることでそれを制した。


「騒ぐな」


 とても冷たい声で主はそう言い放った。使用人たちはまた身動きが取れなくなり、戸惑う。あれは我関せずとばかりに再び主に絡みついて口づけをしようとして、主はその唇に人差し指を当てることでそれを止めた。


「あれほど人前でしてはいけないと言ったのに」


 主はくすりと笑って、それとも、と続けた。


「急を要するほど僕は危険な状態だったのかな。君らしくもなく、僕を心配してくれたのか」


 主が指を離すと、あれは主の問いに答えるように今度は軽く、ちゅ、と音を立てて主に口づけた。戯れのようなそれはまるで二人を恋人同士のように見せたが、しかし二人は血塗れであり、とてもではないが穏やかな様子には見えない。


 主はあれの肩に手を置いて少し距離を取らせると、あれが吐き出した肉塊を踏みにじった。それから疲れた顔をして「あんなくそ爺たちが集まる場所になんて、もう二度と行きたくないね」と言い、床に広がった赤黒い血溜まりと崩れた肉塊を魔術によって青い炎へと変え、すべて綺麗さっぱり消してしまった。


「湯浴みの準備をしてくれるかな」


 主は嫌がるあれを捕まえて、服の袖で顔を拭ってやりながらそう言った。はっとした使用人たちは、すぐにご用意致しますと皆慌ただしく動き始める。


「その後、この子に食事を与えるから、何か栄養のあるものを頼むよ」


 これは私に向けられた言葉だとわかり、私は上擦った声で返答した。満足そうに笑う主は、あれの頭を撫でてその額に口づけを落とした。


 その場にいた使用人のすべてが、あれが主に何をしたのかまったくわからなかったが、それを問うことができる者は一人もいなかった。





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