Episode.02 五月雨 ひよりside
彼が店をあとにしてから、紅茶を飲むためにお湯を沸かした。火にかけてすぐ、トマトみたいに真っ赤なやかんがふつふつと音をたてはじめる。
ひよりは食器棚からちいさなピンクの花の装飾が施された白いポットとカップ、ソーサーを取り出す。(これはアンティークショップで一目惚れをして買ったもので、実は結構なお値段がした。)それを落として壊さないように慎重にそっとちいさな机の上に置き、作りかけだったガーベラの花束をまとめだした。
この紅茶を飲む時間。自分にとって一番のしあわせな時間だった。ひよりは花を手に、お気に入りの鼻歌をうたいながらお湯が沸くのを待つ。
ふふふふふ~
ふふーふふ~ふふっふふふ~
軽やかにハミングを奏でながら一本、また一本と花を重ね合わせていく。この鼻歌は、生前湊がよく歌っていたもので。それを聞いて覚えたものなのでタイトルも歌詞も、誰が歌っているのかもわからない。気になって湊に何の歌なのかを尋ねたこともあったが、彼は決まって"秘密だよ"と言って教えてくれなかった。
すると、自分の鼻歌に混ざって聞こえてくるもうひとつの音が気になり、ふと窓の外を見てみる。窓はぽつぽつとしたちいさな雫の粒で濡れていて。きちんと耳を澄ませばザーッという雨音が聞こえてきた。
そういえば今日、雨が降るって天気予報で言ってたなぁ…
ひよりがぼんやりと窓の外を眺めていると、唐突に過去の記憶の断片が蘇る。
そういえば、あの日も、雨が降っていた。土砂降りの、ひどく冷たい雨だった。
ざっ
ざざざっ
ざー……
その記憶は、壊れたテレビが立てる砂嵐のような音を響かせて、頭の中に浮かんでくる。
―――――
―――
―
あの日も、雨だった。恋人である湊の葬儀の日。
朝から灰色の厚い雲に覆われて、みていてかなしくなるほどの曇天だった。空はいまにも泣き出しそうなほどぐずっていたのを、いまでも覚えている。
たくさんの人がやってくる中、ひよりはずっと外で立ち尽くしていた。学校の制服をまとって、うつろな瞳で地面を見つめ、ただそこに立っていた。頭の中は真っ白でなにも出てこない。ただただ、何も出来なくて、何もしたくなくて、人形のように立ち尽くしていた。
そのときだ。
ぽつぽつとつめたい雫が首を濡らし、庭いっぱいに敷き詰められた砂利に黒いシミが浮かび上がる。
雨だ。
肌に落ちる雫のつめたさに、そっと、理解をした。だけどひよりはその場を動こうとはしなかった。中へは入りたくない。見たくない現実が、あそこにはある。
足は氷で固められてしまったかのようにまったく動かなかった。次第に雨がつよくなり、打ち付ける雫が容赦なく自分に降り注いでもひよりはそこにいた。
どれだけ自分が濡れてしまっても構わなかった。どうせならばいっそこのままここで雨に溶かされて消えてしまえればいい。とさえ思った。
「ひより!」
しかし、いきなり腕を強く掴まれひよりの体はぐらりと傾き足の力は抜け、ひよりはその場にぺたりと座りこんでしまう。
「ほら、中に行くよ。風邪引いちゃうよ」
ぐっと腕を引っ張られてひよりは抵抗するまもなく、引きずられるようにして現実の世界へと連れて来られた。
湊の家の中ではどんよりとした空気が流れ、息をすることすら容易には出来なかった。
だから、嫌だったのに…
心の中でぽつりとつぶやいた言葉は、だれにも聞こえていない。
雨の所為でじめじめとした空気だけではない、室内に広がる陰鬱で重苦しい雰囲気。その上、無機質で平坦な声でお経が読まれている所為かそれがかなしさをより一層際立たせている。
ひよりの正面。顔をゆっくりと上げると視界にぼんやりとした白い光が見えた。光の方を虚ろな瞳で見つめていると、だんだんとぼやけていた視界がはっきりとしてくる。
―――あっ…
息が止まった。
黒い額縁の中でやわらかくほほ笑む愛しい人。色は無く、モノクロではあったが、すぐに思い出すことが出来た。
彼の少し日に焼けた肌の色。笑うと白い歯がきれいで、その中でも八重歯が印象的で子犬のようで愛らしかった。長い睫毛と細められた目の奥にある水晶のように透き通った瞳。
だけど、もういない。彼はここにはいない。そして、もうかえってこない。かえってこれない。もう触れることも、声をきくことも、彼の笑顔を見ることも出来ない。すべて、消えてしまったのだ。彼はひどく熱い炎の中で燃えて、白い骨になってしまったのだ。あの白い箱の中に、彼はいるけれど、いない。
突きつけられた現実に、これまで抑え込んでいた感情がぐっとせり上がってくる。
キュッと喉の奥が締め付けられて、胸が圧迫されて、胃の底がジリジリと焼けるように熱くなって、足先から頭のてっぺん、髪の毛の一本一本までが温度を失い、さーっと血の気が引いていくようなが感覚におちいる。どくどくとこわいくらいに心臓の音が全身を駆けめぐって、ぐらぐらと世界がまわりはじめた。立っていられずぐらりと倒れたひよりを支えたのは、先ほどひよりをここまで引っ張ってきた友人だった。
「だ、大丈夫?」
慌ててひよりを支えた彼女は、顔色を青くして尋ねてきた。
「……う、うん…」
ひよりは弱々しく返事をしてゆっくりと起き上がる。その刹那、頭の中で封印していた記憶がぶわっとあふれ出したことがわかった。海に出かけたあのときの記憶が、頭の底から湧き上がって来る。
"ひより!!!!ひよりいいいいいッ!!!!"
喉が枯れてしまったのであろう、掠れた声で自分の名前を呼ぶ愛しい人。
おおきな波の中に沈みながら、ぼんやりときこえた声。力尽きて途切れかけていた意識の中で、それは自分の名前を繰り返し叫ぶ湊だとわかった。湊の声はとおくから聞こえてきているような気がして。ひよりはそれを最後に意識を手放す。
これが最後だった。
ひよりが目覚めたとき。
彼は醒めることのないふかいふかい眠りについてしまっていた。
一生思い出すまいと閉じ込めていた記憶。だけど思い出してしまった。鍵を開けてしまった。あふれだす後悔と悲しみ、そして身をばらばらでぐちゃぐちゃに引き裂かれそうなほどの痛み。
胸の中がびりびりに引き裂かれて、背中が重くなって何かに押しつぶされそうになる。バキバキと骨が折れていく音が聞こえて来た気がした。それくらいおそってきた感情はおおきなものだった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
自分が溺れなければ、あの日ひとりで海に出なければ、わたしが早く砂浜に戻っていれば。数えきれないほどの後悔が心を蝕み、次第に頭の中を濁らせていく。
「ひ、ひより…?」
この友人の声が引き金となったかのように、ひよりは泣き始めた。人目もはばからず、子供のようにおおきな声を上げながら。のどが引き裂かれてしまいそうなほどのおおきな声に周りはぎょっとした。しかし、それでも彼女の泣き声が止むことはなかった。
―――――
―――
―
ヒュゥゥゥゥッ
ヒュウゥゥゥ
ピーッ
やかんの沸いた音で我にかえる。
すっかり忘れてしまっていたと焦ってコンロの火を止めた。興奮したように甲高い音を出していたやかんが落ち着いていく。音はあっという間にヒュゥゥ…と情けないほどちいさなものへと変わっていった。
ここでひよりはふぅっと胸をなで下ろす。緊張の糸が切れたひよりは膝から崩れるように椅子に座り込んだ。
そしてもう一度ふぅっと息を吐くと、再び外を見た。いつの間にか雨はさっきよりも弱くなっていて、それになぜかほっとした。
あのときのことをこんなに鮮明に思い出したのは久しぶりだった。どうして急に―――…。
偶然だったのか…それとも雨の所為だったのか……。窓の外の通行人を眺めながら、ひよりはぼんやりと考えた。
だけど、答えは見つからない。
そんな中、ふいにあることが頭に浮かんだ。
「あっ、そういえば………相馬くん………傘、大丈夫だったかな…」
金曜日の午後7時。
雨は、まだ止まない。