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Episode.02 五月雨 相馬side

 こぢんまりとした小さな花屋。大通りに面しているものの少しくぼんだところにある所為かいつも客はそれほど多くはない。だが、シンプルでナチュラルな白と淡い茶色で統一されたセンスのいい外見だ。店先にはアイビーが添えられた木製の看板があって、そこには白いチョークで店の名前が書いてある。

"andante"

 高校時代からの友人(と呼ぶに相応しい関係かは難しいところだが)辻ひよりが働く花屋の名前だ。

 音楽の教科書にで見覚えのあるこの単語の意味はゆるやかにだとか歩くような速さだとかとにかくのんびりとした彼女にはぴったりだと思う。


 小此木相馬は木で出来たアンティークの扉を押し開け、中へ入っていく。ちりん、ちりんと澄んだ鈴の音が来客を知らせ、店の奥からはピンクのガーベラを持った彼女が顔を出した。

 同時にあまったるい花のかおりが鼻をつく。

「相馬くん、今日は早いんだね」

 慌てて花をまとめてその場に置くと、手を洗ってこげ茶色のエプロンで手を拭きながらこちらへやってくる。

 そしてひよりは「おつかれさま」とほほ笑んで見せた。彼女のやさしい笑顔が相馬の仕事で疲れた体と心をほっとあたためて癒す。

「紅茶でいいかな?今から淹れるからいつもみたいに座って待ってて」

 ひよりはいそいそと店の奥へと向かうが、相馬はそれを制止した。

「ああいいよ。今日はすぐに帰るし」

 するとひよりは振り返ってきょとん大きくまんまるな瞳で小首を傾げながら「そうなの?」と尋ねる。

愛らしい姿に思わず頬が緩んでしまうのを抑えながら相馬は返事を返した。

「実はこのあと接待があってさ~…」

「ああ…なるほど……」

 この先に待っている現実を思うだけで胃がキリキリと痛んでくるような気がする。入社して2年目の新人サラリーマンには運命(さだめ)と言ってもいいほどの苦行だ。

 この間も上司に連れられて取引先との飲み会に行ったばかりで、それはもうひどくつらい経験をした。飲めど飲めどビールジョッキに注がれる黄金色のビール。お腹が水腹で苦しくなってどんなに遠慮をしても相手のハゲたオヤジは顔を真っ赤にしながら「いやいや若いんだから飲まないとね」とかなんとか言って次から次へと飲ませてきた。最終的には我慢できなくなり、トイレに駆け込むという非常に苦い思いをした接待飲み会だったのだ。あれがもう一度繰り返されるのかと思うと寒気がしてくる。

「大丈夫?」

 心配そうに彼女が顔を覗き込んでくる。

「ん、まあ…なんとかなるだろ……」

 本当はそんな気は微塵もしないのだが、彼女に心配を掛けたくないがために口が勝手に動いた。

 それでもひよりは眉を下げて相馬の顔を覗き込む。子犬のように愛らしい姿だった。


―――ズキン。


 途端に胸が痛んだ。

 ああ、またこれか。

 もう何度も繰り返してきている痛みに呆れる。

「やっぱり心配だから胃薬持ってくるよ。何かあったらそれでも飲んで」

 ひよりはパタパタと音を立てながら店の奥へ消えていった。


 彼女のいなくなった空間で相馬はおおきくため息をついた。そして近くにあった椅子にどかっと腰を下ろして天井を仰ぎ、ふぅと息を吐く。

 もうこんなことを何度繰り返してきただろう。彼女の笑顔を見てはそのたびに惹かれ、想いは募るばかり。だけどふと思い出す現実に恋心はぐちゃぐちゃに引き裂かれて、見えない血を流す。それでも彼女に会うたびにまた懲りずに恋に落ちる。

 自分が彼女を愛するだなんて。そんな資格があるわけがないのに。そんなもの与えられるわけもないのに。

 店内を見渡すと相変わらずセンスのいい淡い色合いの花々が彩りよく並べられていて。彼女らしくやさしい空間だった。

 そう、彼女はやさしい。とてもやさしくて、だけどそのやさしさがときに残酷に胸に突き刺さる。与えられるやさしさすら自分を傷つける凶器になるだなんて、ひどくむごいことだ。


 ぼうっと店の中を見ていると、ふいに窓の外に目がいった。明るく照らされた街灯に反射して見える雨粒。どうやら雨が降ってきてしまったらしい。

 しまった…。

「傘、忘れた……」

 ぽつりとひとりごちる相馬。

 そのとき窓の外を通った通行人がさしていた黒い傘に妙に視線がいった。

黒。

黒。

黒。

そう、そういえば―――…

あの日も黒かった。

黒一色だった。


―――――

―――


 今から8年前。自分が高校2年生のときの夏。

 その日は朝から土砂降りで、それは午後になっても止むことはなかった。


 ザーザーと激しい雨が降る音に混じってかすかに耳に届くすすり泣く声。天気の所為もあってか重苦しい雰囲気で葬儀は行われていた。

 何度も訪れた親友の家に、相馬はいた。学校の制服を身に纏って、正座をして目の前にある黒縁の中でほほ笑むモノクロになってしまった親友である湊を見つめる。

 無機質で平坦な声で住職がお経を読んでいた。もう同じことを繰り返しすぎて慣れてしまっているのだろう、彼の安らかな永眠を願う気持ちは一切伝わってこなかった。

 周りの同じクラスメイトの中には涙を流すものもいて。もちろん湊の両親は広い座敷の隅っこで小さく丸まってハンカチで涙を拭っている。

 ただ、自分は不思議と落ち着いていた。なんだか現実味がなくて、まるで夢でも見ているような気分だったのだ。彼の死ぬ瞬間を見たのにも関わらず。頭の中で再生される湊が死ぬ瞬間ですら、現実味がない。あのときのことから今起こっていることすべてがただの妄想なんじゃないかと思ってしまう。

 だけど、そんな虚しい現実逃避すらあっという間に切り裂く光景が視界の端にうつった。

「み、なと…く…っ……うっ……うぅ……」

 大粒の涙をぼろぼろとこぼすひよりの姿だった。途端に頭の中の記憶が鮮明に蘇る。


"そう、まっ!早く!!!行けッ!"


海の中で激しい波にもまれながら叫ぶ親友。このときの自分はどうかしていたんだと思う。本来ならば自分はこの親友を助けなければいけなかったのだ。しかし、頭の中にぽっかりと浮かんだのは、あまりにも残酷な言葉。


"こいつを殺せば…"


―――自分はずぶ濡れの状態で助かっていた。

のちに聞いた話によると、自分はなんとか海から引き上げてもらうことが出来たらしいが、湊だけは波にのまれてしまい、嵐が去ったあと、湊は二度と目を開けることはなく、心臓が止まった状態で海の上に浮かんでいたという。



 あの葬儀の日、ひよりは友達に背中をさすってもらっていたが、痛々しいほどに嗚咽を漏らし何度も咽ながら必死に涙を流していた。

 ここで相馬はようやく自分の犯してしまった過ちのおおきさを思い知ったのだ。泣いている彼女を見るとどうしようもなく胸が痛くなる。苦しくて、つらくて、後悔で押しつぶされそうになる。

 しかし、なぜだろう。それでも目を逸らすことは出来なかった。相馬はしっかりと目を見開いて、可哀そうな彼女の姿を焼き付けていた。冷静に考えると自分はおかしい。そう、自覚した。

 むしろ、涙を流すその姿すら愛しいとさえ思ってしまったのだから。


―――――

―――


「相馬くん!はいこれ」

 ひよりの声で我に返る。

「お、おう…ありがと」

 ぎこちない返事をしながら胃薬の入った小袋を胸ポケットにしまうと、立ち上がっておおきく背伸びをした。

「何か悪いな。今日はあんまり構ってやれなくて」

「いいよ。わざわざ仕事終わりに来てもらってるんだもん。ちょっと顔を見せてくれるだけで十分うれしいよ」

 こんなことを自然にさらっと言ってしまえる彼女が少しだけ憎らしく思えた。だから自分はいつまで経っても離れられないんだと、すべてを彼女の所為にしたくなる。

「じゃあ、行くな」

「うん。気を付けてね」

 やわらかな笑顔で手を振る彼女に自分も手を振り返すと、店を出た。

 そこで思い出す。

「あー……雨降ってたんだった…」

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