桜
あっという間に一日は過ぎていく。大きな欠伸をしていると、カバンを肩にかけた私の友人であるアキが声をかけてきた。
「でっかい欠伸ねえ。こっちまで眠くなってきたわ。まあ、もう帰れるわけだし早く帰って寝ましょ!」
そう言って、私のカバンに机の上の教科書をバサバサと詰めていきチャックまでしめてから肩にかけてくれた。アキも早く帰りたいんだなあと思いながら席を立つ。
「今日は先生たち会議みたいだから、早く帰れてラッキーよね!」
『うん、本当にね。今日はなんかボーっとしすぎちゃってたし、ちょうどよかった。』
授業を聞いていてもどうも気が散って仕方がない。熱はないな、と自分のおでこに手をあててみると、アキは、「いつものことじゃない」と辛辣な返しをしてきた。
『そんなことない…はずだけど!』
なんだか胸がざわざわする。きっと朝、祖父から怖い話を聞いてしまったせいだろうか。教室の窓から見える森ばかりに目がいってしまったのだ。
『きっと気にしすぎなんだよね。』
「何よ、悩みがあったのね?私でよければ相談のるわよ。」
先程のいじわるな態度とは打って変わって心配してくれるアキの優しさに甘えることにした。
『実はね、森から視線を感じるんだよね。今日なんて特にそんな感じでさ、朝おじいちゃんと話してたから気にしすぎてるんだろうなって思うんだけど。』
そう話すと、アキはちらりと森に視線を送ってから考え込むように腕を組んだ。
「それは分かるわ。ここで生まれた私でも、掟とか妖怪がいるとか意味が分からないもの。」
『アキでもそう思うんだ…!』
「当たり前じゃない。」
共感してくれることで、少しだけ気持ちが楽になったような気がする。
だが、悪い予感とはだいたい的中するものだ。
学校を出て、アキとたわいのない話をしながら下校していた時のことだった。並んで歩いていたアキが突然立ち止まる。どうしたのかと声をかけると、緊張した面持ちでまっすぐに指をさしている。
数メートル先で首輪に繋がれた犬が森に引きずりこまれていくのが見えた。後ろ足に何か透明で歪んだ何かが絡まっていて、犬は抵抗しようにも全く意味がなく急な斜面ですら簡単に引っ張りあげられてしまっていた。
『ね、ねえ!何あれ?ああいうのも此処では普通のことなの…?』
目の前で起きたことが信じられなかった。いったい何に引っ張られていってしまったのか。冬の寒さとは違う、気味の悪い寒さを背中に感じた。
「そんなわけないじゃない!しかもあれ、あたしが飼ってる犬なの…。いったいどうして」
『え!?ってアキ!何しようとしてるの!?』
アキは引きずり込まれていった犬を追って森に入り込もうと斜面を登っていた。すぐに引き止めて落ち着かせる。座りこんで放心状態の彼女を立たせてあげているときだった。
「……!!!」
アキの右足に先程犬を引きずり込んでいった透明な「何か」が巻き付いていた。急いでその何かを解こうとしゃがんだ瞬間、アキは一瞬にして引きずりこまれていった。
あまりに一瞬の出来事で、伸ばしたアキの手を掴むことも出来ずにあっという間に森の奥へと消えて行った。
『アキーーー!!!』
森に入って追いかけようとしたがすぐに我にかえり、距離をとった。次は自分かもしれない、と。
人を呼ぶべきだ、自分一人では何にもならない。でも、そんな暇はなかった。
「じいちゃん…ごめん!」
そう言って、肩にかけていた手提げカバンをリュックのように背負い直し、斜面をよじ登り森の中へと走りアキを探しに行った。
アキの名を呼んで探したいところだが、アキを攫ったものの正体が分からない以上迂闊にこの森で声を発することができない。帰るために覚えながら歩いてきたの道のりもだんだん分からなくなってくるくらい奥まで来た頃、ふわりと優しい風が吹いてきて、桃色の花びらが頬をかすめた。
「桜…だ。本当に…」
あったんだ……。
巳弥の目の前には、桜花爛漫。別世界かと思わせるほど美しい桜の木があった。なんとなく、その木と目が合ったような気がした。そんなことある訳ないけれど。今日一日感じていた視線はもしやこれかもしれないなんて思ってしまうほどに。
その一瞬、木が波打つような鼓動を感じた。途端に風が強くなり、桜がその風に揺られて舞い散る。
そんな桜も、桃色の雪がその周りだけ降り積もるようだ。
万年咲き続ける桜の木とはどうやら本当だったらしい。その木に近づこうと一歩足を動かすと、背後から声を掛けられた。
「見ーつけた…」
『……!?』
警戒していたはずなのに、全く分からなかった。
低く落ち着いた、しかしどこか愉しそうに言う彼を見た瞬間すぐに人間ではないと分かった。見た目は確かに人と同じもの年もそこまで変わらない体格だ。しかし銀色の髪の毛に瞳、狐の耳と尻尾のようなものが生えていた。
左手にアキを担ぎ上げ、右手にはナタを持っている。殺すつもりだと気づいて恐怖で後ずさりしたが、ここまできてアキを見捨てて逃げられない。一か八かでその妖怪に話かけた。
『その子を、離して。』
「………。」
しかし返答はない。もう怪しい笑みは浮かべていなかった。無言で無表情でこちらをジッと見つめてくる。この沈黙が何よりも怖い。その妖怪は意外にもあっさりと手を放し、アキをドサリと捨てた。
そしてナタをズルズル引きずってこちらに迫ってくる。どうやらアキは見逃してくれるようだ。もしかしたら、手始めに私を始末するというだけかもしれないが。
倒れているアキを担いで逃げるのは無理だ。だからといって置いて逃げたら此処に来た意味がない。何か打つ手はないのか。必死に頭を働かせるが、彼は自分にどんどん迫ってくる。
そして彼がナタを私に振り上げた。さっきまで私を見つけた瞬間笑みを浮かべていた彼だが、ナタを私に振り下ろす刹那、彼は独り言のように呟いた。
「……これで」
そこしか聞こえなかったが、彼はとても哀しげな表情をしていた。
『……っ!!』
死を覚悟したとき、自分が桜の花弁に覆われていることに気がついた。まるでこの桜に守られているかのように。
『な、何…!?』
桜の花びらの塊の中に完全に埋もれたかと思うと、巳弥を包んでいた花びらは眩しいほどの光を放った。どうすることも出来ずに目をつぶっていると、すぐにその塊は地面にひらひらと落ちた。そして彼女の周りにピンクの絨毯をつくりだす。
視界が見えるようになりそこで気がついたのは、桜の木が立っていないので先ほどいた場所とは違うということだ。もちろん銀色の妖怪も、アキもいない。何があったのだろうと辺りをキョロキョロ見渡す。
森であることには変わりないようだ。妖怪の住む森なら何が起きてもおかしくない。とりあえず助かったって事で早く此処から抜け出さなくては。
「でもさっきの桜の木がどこか分かれば多分帰れるんだけどな…」
森のどこかに瞬間移動したみたいだし、さっきの妖怪に見つかる前に帰ろう。下りていけば森を抜けられるかもしれない。早く帰らないとだんだん日が沈んできた。
人間が全く足を踏み入れないこの森にも、ちゃんと歩ける道が作られている。妖怪が通るために自分でつくったのだろうか。
いつ襲ってくるかわからない。背後にも気をつかって歩こうと思い、森の中を歩いていると、入って来た時と何か違うことに気づいた。
ーーー暖かい。
まるで季節が夏にでもなったかのように。妖怪の住処で桜の木が万年咲かせられるとしても、この町の季節ごと変えられるものなのか。虫も沢山いる。ほら、蜘蛛だってこーんなに!
「…蜘蛛?ぎゃああっ!!」
蜘蛛の巣が絡みついた頭部を手でわしゃわしゃと払う。何も考えず走ってきてしまった。しかし、幸運なことに森の出口が見えた。
『やった!ラッキーだ!おじいちゃん待ってるし早く帰らなきゃ怒られちゃう。』
外に出たいばかりに駆け足で進んでいくと、足元をよく見ていなかったせいで何かに躓いてしまい、勢いよく倒れこんだ。
『痛あ…もう最悪…。』
いったいこんな場所に何が置いてあったというのか、膝の土をパパっとはらい立ち上がって確認する。
そこには、薄汚れてしまった小袖を着た男が倒れていた。
『え!?人…?人間みたいね…。なんで着物着てるんだろう。』
気味が悪いとは思っていたけど、伝説も掟も正直信じてはいなかった。しかし森の中には本当に妖怪がいた。この人もきっと襲われたんだろう。
四十代くらいと思われるその人は既に息絶えていた。ところどころに爪のようなもので引っかかれた傷跡、あまり時間がたっていないのかその血は生暖かい。
『これは……夢?』
ただ学校から帰っていただけだ。アキとも離れてしまった。自分がどこにいるのかも分からない。心臓が未だかつてなくバクバクしていて息苦しい。もう帰りたい。夢なら覚めてほしい。
こけた時に若干痛みを感じたことで、これが現実だと思い知らされる。ならば、今やるべきことはすぐにこの森から脱出することだ。
見てしまった以上置いていくことは出来ないので、この男の人も運んで行こう。この人の家族が探しているかもしれないから。
『ああ…重い…。でも、あと少し!』
男性の両手をもってズルズルと引きずって行く。最後の力を振り絞って力いっぱいに両足を引いて歩いて、ようやく外がはっきりと見えてきたときだった。
ガサガサと何かが近づく音がした。とてつもなく嫌な感じがしたので足を止めず、急いで運ぶが、その音はどんどん近づき、やがて姿を現した。
『ひ…っ!』
それはボロボロの布を着て、さすがに服といえるものではない。薄汚れて真っ黒だった。人の形はしているが驚いたのは身体も顔も全てが薄黒かったことだ。目玉だけが白い。むしろ、眼球がまるまる見えてしまっている。あろうことかその真っ黒の妖怪は外への道を塞ぐように立ちふさがった。その目玉がしっかりと私を見ている。
これは絶対やばい奴だ。
この男性を襲ったのはこの化け物だろうか。化け物の身体には血なのか何なのか分からないものがいっぱい染み付いていて、確認のしようがない。
逃げるにはまた森の中に行かなければならなくなる。仮に隙をついて抜け出しても、森の外まで追いかけてきたとしたらもうどうしようもない。
そんなことを考えていたら、その化け物は死んでいるであろうその人の所に素早く駆け寄って食べ始めた。
『……食べてる…。』
もう、叫んでもいいだろうか。実はずっと、ずっと我慢していた。でもそろそろ我慢の限界だった。
「ぎゃああぁあ!!!!」
人間食べてる!食べれるの!?いやいや、人間て美味しくないもん!でも傷口から血舐めてるよ吸血鬼かおまえは!
『その人から離れろー!!』
もうやけくそだった。叫びながら木の枝や石を投げつけた。すると、その化け物はギョロリとこちらを見てフラフラと近づいてきた。手を伸ばしてきて、私も食われると思った瞬間、スパッという音とともにその妖怪の手がなくなった。
腕を切られた化け物は、野太い声で悲鳴のようなものをあげている。そのまま草村の中へと消えて行った。
『待って待ってもう無理ちょっとタイム。何が起きてるの…いったい誰が…』
腰を抜かしてしまい1人で頭を抱えていると、頭上から声がかかる。
「へえ…生きた人間だ。これは珍しい…君は此処がどこか分からないわけじゃないだろう?いったい何しに来たんだい?ああ、ひょっとしてそれは父親かい?」
周囲の木の上に誰かがいる。そこから陽気な声が聞えてきた。死体を食べた妖怪とは違い、意思疎通がはかれる知能のある妖怪は、きっとろくな奴ではない。
『ここが妖の森だってことくらいは分かる。あと、この人と面識はない。』
完全に声の主は妖怪だ。恐怖心を表に出してはいけない。きっとそこに付け込まれてしまう。
入ってはいけない森に入っているし、おじいちゃんが女性が入るのは危険だって言ってたし、無事に帰れるかは分からないけれど、それでも私は帰るんだ。
先程の真っ黒い妖怪のせいでこの男性の死体の損壊が激しくなってしまったが、構わず両足を抱えた。
やっぱりさっき叫んでしまったのは失敗だった。姿も現さず、真っ黒の妖怪を一瞬で始末出来てしまうような謎の妖怪に見つかってしまうなんて。
しかし、この妖怪がいなければ、私は今頃真っ黒妖怪に殺されていたかもしれないし、倒していたかもしれないし。よく分からないけど、助けられたのだとポジティブにとらえよう。
『あの、助けてくれてありがとう…ございました。』
一応言っておいたほうが印象が良いような気がする。
私は普段口が悪いけど、ちゃんと敬語も使っておいた。
「助けた?僕が?」
違うんかい。
『あ、違ったならいいですスミマセン。』
やめだやめだ。余計なことを言うんじゃなかった。早く逃げないといけない時に、こういうことしてるから寿命を縮めてしまうんだ。
「さっきのは腹を空かせた低級だ。見たところその死体はさっきの奴にやられたみたいだけど。もう死んでるよ。どうして連れて帰るんだ?」
ほら、なんか絡んできた。余計な会話はしないほうがいいのに、無視をするという勇気はさすがにない。
どこにいるかも分からないけど後ろを振り返り答えた。
『きっと家族が待ってるから。』
「家族?」
『そう、家族。』
返答はなかった。行ってよし、ということだと判断して私は再びせっせと運びながら歩きだした時だった。
『………っ!!』
背筋が凍り付くように寒くなり、自分の首に冷たい指がすうっと横に線をひくように触れられた。
痛みすら感じる前に首を切られたのかと思い、掴んでいた男の両足から手を離し、慌てて首を何度も触った。後ろを振り返れない。姿が見えなくとも今、私の背中にぴったりとくっついていることがわかる。
「二度とこの森に来てはいけないよ。初めて人間と話した記念に見逃してあげよう。でも次はない。人間がこの森に入った瞬間、匂いですぐにわかるからね。」
声はとても優しげなのに、こんなにも強い殺気を出せるなんて。
『………。』
首を触る私の手に被せるように、その妖怪の手が触れる。白くなめらかで長い指は、私の手の上からでもきっとこの首をへし折ってしまうことが出来るだろう。
「愚かな村の連中にも、教えておいてやるといい。」
『村?さすがに田舎町だけど村じゃないよ』
昔はそうだったかもしれないけど、さすがに時代が古すぎない?
「村ではないのかい?見たこともないから知らないんだ。今度行ってみるよ。」
『いや、それはちょっと遠慮してもらいたいかなーなんて…。』
せっかく平和な町を私の言動ひとつで破滅させられたらたまったもんじゃない。二度と入らないから、絶対森の外に出てこないでほしい。
「……と、遊んでいたら血の匂いにつられてどんどん集まって来たね。そろそろお行き。」
え?一体なにが集まって来たって?と聞きたいけど、聞かなくても分かる気がする。そういうわけで何も聞かなかったことにした。
『あの、それじゃまた…じゃなくて二度と会わないことを願います。』
振り返ることなくお別れを言うと、その妖怪は小さく笑った。
「初めて人間を見逃してあげた記念に名前を聞いてあげるよ。」
見逃してあげた記念とは?と疑問に思ったがもちろん聞かない。そもそもさっきも「初めて人間と話した記念」とか言っていた。もっと言うと、生きている人間を見るのも初め…いや、もういいわ。
「翠だ。」
先に名乗ってくれた。まさか名前を教えられるとは思わなかった。名乗られたなら、私も名乗るのが礼儀だ。
『巳弥。』
もう会うこともないけれど、翠と名乗る妖怪の気が変わらないうちに、私は死体の男を引きずりながら急いで森を出た。
森から少し離れた所に亡くなった男の人を寝かせて、近くに咲いている花を引っこ抜いてそっと置いた。
「なんか…やけに暗くない?街灯はどこに行ったんだろう。早く帰らないとおじいちゃんに怒られちゃう。」