日常
冬枯れた木々の枝には、泡雪が柔らかく被さり、その侘しさを覆い隠している。荒涼とした田畑も、今は白い静寂の中で眠っていた。
昨夜はとくに冷え込んだため、今朝は一面雪が降り積もっている。白い息が出るたびに寒さを実感しぶるりと体を震わせた。
まだ足跡のないまっさらな雪道をザクザクと音を立てながら通学路を歩いていた。祖父の住むこの田舎に越してきて3回目の冬になるが、まだまだ慣れないことばかり。引っ越してきた当初は、山々に囲まれているこの場所が苦手だった。逃げ場もなく、まるで山に見張られているようでどこか怖かったからだ。
今でも見張られているという感覚は消えないものの、近隣の住人と仲よくなり、高校に通い友人が出来て遊ぶようになってからはあまり気にならなくなった。
後ろの方からザクザクと雪を踏み、慌てたような足音がする。近づくにつれて疲れ果てたような男性の息づかいも聞こえてきたところで、その人は荒い息づかいのまま声をあげた。
「おーい巳弥!」
『ーーー?』
声の主は私の祖父だった。
振り返ると、肩で息をしている祖父は、前のめりで膝に手を置き片方の手には弁当箱が入ったトートバックをこちらに差し出していた。
『あ、私ってば弁当箱忘れてたんだ。』
すぐに駆け寄ろうと走り出したときだった。
ふわりと花の香がする優しい風が、胡桃色の髪をなびかせた。季節外れの花の香に思わずふと立ち止まり周囲を見回すが、それらしいものはない。
「ん、どうした?なんか見つけたのか?」
『いや、なんか急に花の香りが…。そんなことより、ありがとう!お弁当箱、わざわざ追いかけてくれたんだ。』
お弁当の入ったトートバッグを受け取ろうと私は手を伸ばしたが、祖父は渡そうとはせず、反対の手を伸ばして私の肩を指さした。何かゴミでもついてるのかと自分の肩を見てみると、そこには季節外れの桜の花びらがついていた。
「えっこんな真冬に桜の花びら?」
いったいどこから飛んできたんだろうと指で取った瞬間、ふわりと薄紅色に瞬いてやがて消えてしまった。明らかに普通の花びらではない。花が発光するとかおかしいし、雪じゃあるまいし消えるわけもない。硬直したまま視線を祖父に向けると、同じく祖父も固まっていた。そして難しそうに眉をひそめた後口を開いた。
「炎滅の森の桜の木だろうな…。」
『それって、妖怪がいるっていうあの森のこと?』
「ああ、伝説だがな。森の奥には万年咲き続ける桜の木があるらしい。ワシも実際目にするのは初めてだが…。」
謎めいた恐怖心を助長するように、この町には昔から”奇妙なルール”があった。此処の住人は誰もが知っている伝説から代々守られてきた掟。
”炎滅の森に足を踏み入れてはならぬ”
急な斜面になっているから頑張って登ろうとしなければ森に立ち入ることは出来ない。だからわざわざ森に入っていく大人はいないが、好奇心旺盛の子どもは登っていってしまうことがあるらしい。そして森から出てきた子どもは記・憶・を・な・く・し・て・帰ってくる。ある意味では事件なのに、此処の住人は記憶をなくした子どもが現れたら季節を問わず、何故か祭りを行う習慣がある。
まるで喜ばしいことのように、それはそれは賑やかな騒ぎっぷりで活気溢れるお祭りだ。それがあるためか、どれだけ不思議なことがあろうと、森を怖がる人はいなかった。
この町に引っ越してきたばかりの私には正直気味が悪くて恐怖でしかない。
『あの森、柵か何かで封鎖できないの?変な掟があるわりにかなり開放的だよね…。』
「あくまで伝説だからな。遥か昔にはあったかもしれんが森は広い。仮に妖怪がいたとすれば柵など無意味だろう。」
『それもそっか。』
それは、遠い昔の話。かつてこの地に生きていた村人達は妖怪と争っていた。恐ろしく残忍な妖怪を村人達はどうすることも出来ず怯えることしか出来なかったという。
そんな時代にこの炎滅の森は、その名の通り火事によって全ての木々を燃やし尽くしてしまったそう。
信じられないことに、そうして一度滅んだ森を一瞬にして元通りに回復させてしまった妖怪が居たと言われている。
妖怪がいるっていうのでさえ信じられないのに、妖怪が森を一瞬にして回復させられるとか、伝説というのは尾鰭がついてどんどん過激になっていくものなのか。
それを言い出したら、掟についても謎がある。
『ねえおじいちゃん、森に入っちゃう子どもが帰って来なかったことなんてないでしょ?掟ってもういらないんじゃないかな?』
まあ、記憶を無くして帰ってくるのは奇妙だけど。
祖父は難しそうな表情をしながら首を横に振った。
「ほら、伝説にあっただろう、村娘の話が。子どもは見逃してくれてるのかもしれんが、大人は…それも女は決して入ってはならん。」
『なんで女の人がだめなの?』
「その村娘は、村の安寧のために森に入って、その命と引き換えに村を救おうとしていた。しかしその娘は妖怪となり、その村を滅ぼしてしまった、という話だ。つまり、娘が森に行ってしまうと、妖怪の長に魂を食われ、自身も妖怪となり故郷を滅ぼすという古くからの言い伝えだな。」
『ふーん。』
うん、ものすごく怖い。でも森に入る機会なんて永遠に来ないだろうから気にしないようにしよう。
怖い話を聞いてしまって背筋が寒くなった。ただでさえ寒いのに…と思いながら首にぐるぐる巻きにしたマフラーに顔をうずめた。ちょっとだけあったかい。
『じゃあそろそろ行かないとだから。寒いのにありがとう、おじいちゃん。』
「おお、待て待て、ついでにいつもの防犯グッズも持っていけ。なんかあった時は使えるはずだ。」
『はは…別にいいのに。』
近頃何かと物騒だからな、といいながら渡された、防犯グッズが入っているという巾着も受け取った。
なんとこの中身は、防犯ブザー…ではなく吹矢としびれ薬なのだ。不審者というより、これは獣に使うものでは?と個人的に思っている者としては、正直いらないんじゃ…。と思っていた。
ちなみに1回開けてみて以降、もう開けたことはない。
『あー、ありがとう。熊、いや…不審者が出たら使わせてもらうね』
「おう!気を付けてな。」
祖父は、ニカッっと微笑むと、学校に向かう私に手を振って見送ってくれた。