涙、繋いだ手
「お前が倒すんだ、巳弥。」
「――――――私?」
いったい何を言ってるの。と呟きかけたとき、彼は握っている手をじっと見つめた。
その動作で私は、すぐに悟ってしまった。
人間の私が、妖怪を倒せるはずがないが、この手なら確実に殺せる力がある。おじいちゃんが言っていた言葉を思い出す。おじいちゃんは、この右手に描かれた三つの雫が波紋を描いた呪いを、そのまま「波紋の呪い」だと言っていた。
初代頭首は、はるか500年ほど前にこの術を作り出した。私はそこでこの術をかけられ、人である私には作動しないが妖怪に触れた瞬間、その妖怪はあとかたもなく滅するだろうと。
そこで、私は乙鬼サマの妖力で、一時的に封じた。だから今私の右手は乙鬼サマの妖力が覆っているため誰にでも触れられる。
「これを解く」
一言そう呟いた乙鬼サマは、右手を離しそのままぶつぶつと何かを念じ始める。すると、それに答えるように薄紅色のヴェールが剥がれていくように彼の封じていた妖力がなくなった。
今、右手で触れた者を跡形もなく滅する力をもってしまった。恐ろしさのあまり、乙鬼サマから距離をとる。
「―――そろそろ奴が起きる。もう一度動きを封じるその時、龍の頭にその手で触れろ。」
「………わかった。」
その会話を最後に、彼女は復活した。相変わらず苦しそうではあったが、さっきより強さを増していた。そんな龍華サマに、軽く舌うちをしながら攻撃を続ける。
攻められてばかりで、再び致命傷を負った龍華サマは、ついに背をむけて森の中へと逃げてしまった。そこですかさず乙鬼サマは私を抱えて龍華サマの後を追った。思わず右手で彼を触ってしまわないように、右手を上げた状態で抱き上げられた。
そしてたどり着いた先は、私が第二のホームと称している桜の木が見える場所だ。桜はこちらに気づいたように、花びらがひらひらとやさしく降ってくる。
逃げる途中で崩れ落ちたのか、小さな崖の下で彼女は虫の息で倒れていた。
下ろされた私は、そこで彼女にゆっくりと近づいた。乙鬼サマに間違えて触れてしまうと怖いので手は借りず、彼女の元へと続いている木の枝につかまり、崖をゆっくりと降りた。
だが、そう簡単にはいかなかった。虫の息でも、私のしようとしていることが分かった龍華サマは、最後の力を振り絞るように暴れた。そして、徐々に回復が始まっているためなかなか近づけない。
木の枝は、足がつくほどの長さもないので手を離したとして無傷で着地できるかは微妙な高さだった。それでも、やるしかない。どっちにしろ、枝につかまっていたところで彼女には届かないのだから。
飛び降りて、暴れている彼女に飛び込んで、その頭に触れる。
決心した私は枝から手を離し、崖から飛び降りた。ふわりと宙に浮いている時間、ふいに時が止まったように感じた。
『―――巳弥』
「!!」
暴れている龍華サマが、左手を伸ばしていた。私に向かってこの手をとるようにと―――。
彼女の原型をとどめている左の表情は、私の降りてくる姿を確かにその瞳にとらえていて、優しげに微笑んでいた。
確かに龍華サマの顔なのだが、その表情はまるで別の人のように思えた。こちらに上げる手のひらは白く、細く美しい手だった。
私は、その差し出された手をとった。
「ああぁあああああぁぁ!!!!」
その手を繋いだ瞬間、爆発にも似た音とともに、激しい突風が襲いかかってきた。それでも、互いの手が強く握られたままだった。龍華サマの激しい叫び声が森中に響き渡った。
爆風とともに激しい光に覆われた私は、繋いだ手の先にいる女性を見つめた。彼女は龍華サマだが、龍であったはずの右半身も人の姿に戻っていた。
「巳弥」
また、私の名前を呼んだ。さっき私が飛び降りる前に、聞こえた声は彼女だったのか。
この声は、聞いたことがある。夢の中で、仲良く話していた私の友人。名前がずっと思い出せなかった子だ。まさか龍華サマの顔が、この人だったとは思っていなかった。
「私のこと、忘れたんでしょ。本当、鳥頭ね」
「―――――!」
『本当、鳥頭なんだから―――』
夢の中にいた彼女と顔が一致した瞬間だった。あの時そういった彼女は、こんな顔をして笑っていたのか。
今の彼女は、あのころのように笑っていた。左手で彼女は私の頬に触れた。とても冷たい手だった。こんなにも暖かく笑うのに。
そう思ったら、涙が出た。夢でなくても、記憶が溢れてくる。これはきっと彼女の記憶だ。私にも流れ込んでくる。
「これでやっと、巳弥に会える」
「?」
「また生まれ変わってあなたに、会えるってことよ」
「…っ雪乃ちゃん!」
今会えてるのも本物だよ、と抱きつくとくすくすと笑われてしまった。そのまま私達は抱き合った。
「あの龍の中から、ずっと見てたの」
「……うん。」
「500年なんて、待たせすぎよ。」
「……ごめん。」
「だから、次はあんたが待ってなさいよ。私が生まれてくるのを。必ず見つけ出しなさい」
「……うんっ待ってる……約束する。」
互いにぎゅうっと抱きしめる腕に力を入れる。だが、真っ白な光に包まれて静かに消えてしまった。確かにあった感触を、空気となった今も抱きしめていた。
手の呪いは消え、静謐とした空気が戻ってきた。崖の上から見ていた乙鬼は、やがて降りてきてその場で静かに私を見下ろしていた。