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デボンの泉

作者: 舛田 久

 私があの水墨画を初めて見たのは、もう十年も前の事でございます。重慶の西のはずれに、古くなって建物全体が傾いだように歪んでいる、古道具屋がありました。


 春の終わり、ようやく暖に火を付けずに済むようにはなっておりましたが、朝から続く雨で肌寒い夕方でございました。

 店の中は薄暗く、すすけたランプが灯っているだけでしたが、それにしても火は小さく、光よりも油のにおいの方を強く漂わせているようでした。

 さほど広くはない店には、雑多な品があふれ、その一番奥に、いつもと同じに骨董品に埋もれた置物のように、主が座っておりました。

 いくらか売り物になりそうな品は、多少なりとも埃を落とされ、手に取りやすい所に置かれたりしております。掛軸などは壁に掛けられたりしておりましたが、薄汚れたガラクタのような品々は、床のうえに無造作に散らばっておりました。

 この古道具屋には、近所の住人同様、手桶だの綿の入った上着だの、蝋燭だのと、常日頃使用する日用品の調達のためにたびたび訪れておりました。食糧以外の品物は、程度の悪さに目をつぶる限り、驚くほど豊富に揃っているのでした。

 その日は目当ての石鹸とかみそりを手に入れると、すぐには店を出ずに、雨やどりがてら、見るともなしにガラクタをよりわけながら店の奥まで覗いたりしていました。

 私もすべての日本人の例に漏れず、いまでこそ、先の戦争によって殆ど無一文に落ちぶれてはおりますが、かつての生家はなかなかの資産家で、どこからか買い入れた唐三彩の壺や、舶来の物珍しい動物の剥製などが飾ってありました。

 つい、懐かしさも手伝って店に長居をしておりましたが、主人も私を冷やかしの客である事は先刻承知していて、私の相手などせず、せっせと埃落としなどしておりました。

 その時、西日に照らされながら、主人の乾いた手で丸められていく、水墨画の掛軸が目に入りました。

 どういうわけか、その、ちらと見えただけの図柄が気になって仕方なく、不服そうな主人に頼んで、閉じたひもを解かせ、ランプの下で受け取った絵を凝視しました。

 私には絵の良し悪しは分かりませんが、丹念で細かい描き込みと抑揚を利かせた大胆な構図との組み合わせは、なかなかの技量の画家の手によるものと思われました。

 絵には、深い森の中に溶け込むように水をたたえる泉、段々になってしぶきをあげている瀧が描かれております。

 そしてその魚が泉の中ほどを悠々と泳いでいるのです。

 それが鯉や山魚の類なら、私の目を引くことも無かった筈です。

 その魚は、何とも魔伽不思議な姿をしていました。

 海のスズキを思わせる硬い背びれ、ゴツゴツと大きな鱗、イタチのようにとがった細かい歯、尾びれに至って、本来ならとうに皮膜である筈の中ほどまで鱗の付いた肉が伸び、鰭の皮膜はその先に付いているだけ。ちょうど襖職人の使う刷毛のような按配になっておりました。胸鰭と腹鰭、尻鰭なども、根元から鰭の中ほどまでは、やはり鱗の付いた肉の柄になっていて、太い筆のようにも、あるいは水掻きのある蛙の腕にも見えました。

 そう、あなたにならその姿が思い浮かぶ筈です。二十世紀最大の動物学的発見と謳われた、かの鰭脚魚シーラカンスの姿そのものだったのです。

 歴史的発見は一九三八年、アフリカ南部の海の市場で、その魚が偶然女性学者、ラティマーの目に止まったのをきっかけになされ、ロードス大学のスミス博士の手によって世界的に発表されました。そのセンセエショナルな扱いは、まるで古代の恐龍の一族が生き残っていたかのようでしたが、確かにある意味では、あの巨大爬虫類の一族が生き残っていた事より衝撃的とも言えました。何しろ巨大爬虫類は数千万年前に滅びましたが、この魚は、遡る事数億年前から生き残っていて、恐龍時代でさえ、生きた化石のような存在だったのです。

 私が見つけた掛軸には、泉の中央をゆっくりと泳ぐシーラカンスと、濡れた岸辺に脚のような鰭を突いて、水から半身を乗り上げている別の個体が、実に生き生きと描かれていたのでした。

 私は興奮して主人にこれを譲るようにせがみました。其の途端、掛軸の値段が値札の倍まで高騰しましたが、気にもなりませんでした。

 お気付きでしょうが、この古い掛軸の絵が描かれたのはラティマー女史によってあの鰭脚魚が発見されるより、もっと前なのです。作者はあのグロテスクな古代魚の新聞写真を見ては居ない筈なのです。

 落款を調べましたが、さして有名な絵師ではないことが分かりました。野山を好み、半ば仙人のような暮らしをしてその土地の山々や生き物の姿を筆に捉えていた人物のようです。その後、この絵師の手による幾つかの作品を探し出し、買い求めましたが、どれもが愚直なまでに自然を描写していて、お世辞にも空想家の資質は感じられませんでした。するとどういう事になるかは自明の理です。この絵師は自分のよく知った魚を見たまま描いたということです。生きたシーラカンスを!

 私はかつて帝国大学で夢中になった古生物学への情熱が再燃したのを感じました。こんな大陸の外れに取り残され、祖国には帰る家さえ無くなったのも、運命の導きにすら思えました。

 私は出来得る限り、この絵師について調べ、舞台となった山海の特定に努めました。少ない私の財産はほとんどそれに費やされました。

 心ある大陸人は、そんな魚を見つけるために食まで減らしてどうするのだ、と忠告してくれましたが、私は聞く耳を持ちませんでした。むしろ、この奇跡の魚が誰にもその価値を気付かれることなく、当たり前のように生きている、しかもその地へは地続きであるという事に、夜な夜な独り興奮いたしておりました。

 調べてみれば、この絵師は筆を手に大陸中を渡り歩く性格の者では無いらしく、生まれ故郷の山村周辺でのみ、気ままな絵描き生活を送っていたらしいとわかりました。

 にわかに現実味を帯びてきた人外魔境への旅の為に、私は残りの財産を全て処分しました。と言っても、わずかに残った家具や書物、それに自分で修繕したほったて小屋を金に変え、旅に必要な道具と地図を買いそろえたのです。

 私は旅を始めるにあたって、案内人の類は一切頼みませんでした。支払うに十分な給金がないこともありましたが、あの古代魚の発見という栄誉を一人占めしたい、そんな気持ちの方が勝っておりました。

 そんな折、村長の二男で村有数の識者である男がゆゆしき事を言い出したのです。

 彼の言葉によれば、この古代鰭脚魚の水墨画に入れられている「李俊」という落款の赤い顔料には有毒な水銀化合物が微量も含まれていない、というのです。使われているのは有機顔料で、この無害の赤い有機顔料が使われ出したのは今世紀に入ってからであり、光沢が異なる、という事でした。落款の絵師が死んだのは百年ばかりも昔の事です。水銀の含有がないことが事実だとすれば、この絵はもっと後世に描かれたものとなる。それもあの世界的ニュースが広まってから後の事となれば、作者は新聞に載った奇怪な魚の写真を元に、絵を描くことも可能となるのです。

 私は混乱しました。

 今の今まで夢のような事実と思っていた事柄が、文字通り全くの夢として消えていくようでした。

 私は絶望しました。

 掛軸を売った古道具屋の主人を逆恨みもしました。一枚の絵を目にした事によって、元々苦しい生活が、どうにもならないところまで追い込まれたのです。

 私は絶望しました。

 掛軸を焼こうと、庭に火をおこしさえしました。

 しかし、いざ、最後の見納めにと思って絵を見つめるうちに、別の考えが浮かんだのです。

 落款は確かに後世のものかも知れない。しかし、それは落款だけの話かも知れない。古い絵を高く売るために、見栄えのする掛軸の幅に合わせて絵の縁を断ち切ってしまうのはよくある話だと聞いた気がします。在るべき落款も断ち落としてしまう場合は、当然、新たに入れる事になるでしょう。その際、贋作として売ろうとすれば有名な絵師の落款を真似て入れるのが普通でしょうが、作業者は、例えば、この李俊という絵師の絵ということを残したかったのかもしれない。そのため、元からあった李俊の落款を、新たにこしらえて入れたとも考えられるではありませんか。

 私は決心しました。

 それは半ば狂気の熱にうかされての事だったもしれません。しかし、現に住むべき家も手放した私は、旅に出る以外、道は無かったのです。

 夏も終わりにさしかかった頃でした。


 道中は様々恐ろしい目にも遭いました。盗賊に追われ、狼に囲まれ、森の暗闇から虎の声が聞こえる晩もありました。

 私は地図をにらみ、あるべき川がなかなか現れないと、さては道を誤ったかと焦り、方言のせいで聞き取りにくくなってきている言葉を話す土地の農民に、村の名前を訪ねて安堵したりの繰り返しでした。

 その時つくづく感じましたのは、土地の名前、山の名前、村の名前などは所詮、役人が地図を作る為のものだということです。多くの現地民にとって、村の名前は意味をなさず、自分の村の名前も知らない者がほとんどでした。村は村であり、川は川であり、山はただ山なのです。

 私は改めて、人という存在が作り出したもののはかなさ、天然自然に創造されたものの偉大さ、絶対性というものを感じずにはおれません。

 あの古代魚も、この偉大な自然の奥深い所で、至極当たり前の顔をして生きているにちがいない、そう確信するに至ったのです。


 目指す目的の村にたどり着いたのは、重慶の片田舎を出て幾日経った事でしょうか。既に暦とも無縁の暮らしをしておりましたので、幾日の道程だったものかついぞ分かりかねますが、草履は三度作り変え、修繕した事を覚えております。人間というのは不便なものです。牛や馬のような蹄も無ければ、犬のように裸足で歩くこともままなりません。

 ともかくも鳳細とおぼしき村に着いたのは、陽の傾き始めた頃でした。この村こそ、百数十年前に、あの絵師が生まれ、絵筆を走らせた場所なのです。

 村はも抜けの空でした。何か災害にあったとも思えません。自然と寂れ、住人たちが離れた後、村全体がゆっくりと周りの山々と同化しようとし始めたところなのでしょう。大きな屋敷などは柱も梁もしっかりしているので傷みも少なく、何やらかえって不気味な感じがいたしました。

 ついさっきまで人がそこに暮らしていた気配もする、鶏の声もする、しかしいくら探せども誰も見つけられない、そんな奇談を思い出しました。

 私は結局、その大きな屋敷を寝床とはせず、かつて寝起きしていたほったて小屋にどこか趣の似た、傾いだ、小さな物置に寝る事にいたしました。

 その晩は大きな青い月がこうこうと光を放っておりました。荒れた小屋の中で屋根のすき間から射すその光を浴びていると、とうとうここまでやってきたのだ、という思いが湧いてきました。あの山の麓に滝があって、その滝が注ぐ泉を、古代の鰭脚魚が月光を鱗ではじきながら悠々と泳いでいる様が目に浮かびました。

 旅の疲れはありましたが、妄念が浮かび始めるとまんじりともできずにおりました。

 やがて私は決心しました。今すぐにまだ見ぬあの泉へ向かおう、そう思いつくと、馬鹿正直に夜になって寝床に入る習性がひどく滑稽に思われました。

 あらかじめ地図は吟味しておりました。村の西側には細い川が一本だけ流れている筈です。この川を辿って行けば、やがて滝のある、あの泉に出るに違いありません。私は獣から身を守るための貧弱な、しかし唯一の武器である小刀を研いで、懐に入れると、足早に西へ向かいました。思いのほか脚も軽く、月明かりで足元も明るかったので、私はズンズンと歩きました。

 やがて、水の音が聞こえました。近寄ると、心細いくらい貧弱な小川でした。川の水に頼る人が絶えると水も減るのでしょうか。私はしばらく川岸に沿って上の方へ歩いておりましたが、やがて深い草むらや大岩に行く手を遮られ、迂回を余儀なくさせられる事が頻繁になると、川を見失いがちになりました。音を頼りに水脈に沿ってはおりましたが、何度目かの迂回を強いられたとき、私は迷わず浅い川に飛び降りました。夜目にも水は澄んでおり、ほんのりと温かいような、やわらかな感触で、歩きながらも脚の腫れが引いていくような、不思議な心地よさがありました。

 さしたる深みも無いようでしたが、浅い所を選び、時には大石をヒョイヒョイと飛びわたりながら、川を遡り、山に分け入って行きました。

 やがていよいよ山は険しくなり、渓谷の様相を呈するようになりました。ゴツゴツとした大岩が多くなり、川の岸も崖のように切り立って参りました。足元を照らしていた月も、にわかに湧いてきた雲に遮られ、闇を両手でかき分けながら進むような按配になりました。

 ふと、傍らの岩棚に手をかけたとき、感触だけで何かを感じました。いいえ、理屈では感触で感じられる類のものではありません。何かを感じた気がしたのは、あるいは不思議な導きによるものだったのかもしれません。

 泥岩の上面、ちょうど胸の高さのあたりに、レリイフ状に浮き上がるものは、一尾の大きな魚の化石でした。

 それに気づいて、暗闇の中、広い岩棚に上がり、目をこらそうとかがんだ時、月にかかっていた雲が晴れました。

 降り注ぐ満面の月光にさらされながら、私は化石の群れの中心にたたずんでいることを知ったのです。足元の周囲一帯に広がる、大小おびただしい数の鰭脚魚シーラカンスの化石でした。

 私は驚嘆の叫びを上げながら、這いつくばって化石をなでまわしました。元来、中国というところは産する化石の保存状態が良好な事が知られておりますが、天然の地盤の表面にさらされながら、このような状態をとどめておるのは、ほとんど奇跡のような事と言えましょう。化石は古代魚の骨だけでなく、その鎧のような鱗が並んだ痕跡も周囲の泥岩にくっきりと残していたのです。

 私は時間を忘れ、丹念に化石を観察しておりましたが、突如、ある事に気付いてしまいました。

 このすばらしいシーラカンスの化石群を、この土地を庭のように歩き回っていた絵師が知らぬわけは無い。この石の標本を見て優れた動物画家でもあった絵師が、シーラカンスの生前の姿を想像したのではないか。新聞などという下世話なもの載せられた、シーラカンスの死骸の写真を見たというより、よほど現実的な類推です。

 何という事でしょうか、化石の発見は素晴らしいものでしたが、同時に私が見続けた夢を打ち砕いてしまったのです。


 それから、どこをどう歩いたか全く記憶がありません。恐らく涙を流しながら、疲れで崩れ落ちるまでさまよったのでしょう。

 気が付くと大きくて平らな石の上に、大の字で寝ていました。弱い朝日が顔に射していました。私は空腹で身を起こす気にもなれず、しばし、ぼんやりと目の前の森を眺めていました。そういえばあの水墨画にも似たような岩山が、人の横顔のような形を梢の上に見せておりました。そしてその右手の方には、そう、ちょうどこんな具合に階段状の滝が落ちていました。

 そして左手には。

 私は思わず跳び起きました。

 骨董屋で手に入れてからというもの、毎日、飽くことなく眺めてきたシーラカンスの水墨画。李俊という落款のほかは題名さえ分からぬその絵を、私は「デボンの泉」と名付けていました。はるか数億年前の古生代・デボン紀。魚からまさに両生類となって動物が陸上に上がろうという時代。シーラカンスの生まれた時代そのままに時を止めて水をたたえる神秘の泉。

 今、私の目の前には完全に水墨画と同じ景色が広がっていました。そう、あの絵師は百年前、まさにこの石の上に坐って、この泉の絵を描いたのでした。何というデッサン力!景色は、絵に合わせて山や滝を配置したかと思われるほど、寸分たがわぬものでした。そういう意味では、絵師は、芸術家ではなく、むしろ記録写真家でした。

 わたしは、泉に現れた影を見て、自分が夢を見ていると思いました。

 目の前の水辺にポッカリと浮かんだのは、巨大なシーラカンスの頭だったのです。姿を現した魚体は三メエトルにも達しようかという大きさでした。

 私は、夢の中で、これは夢なんだ、と思っている記憶を思い出しました。信じられぬような近さの水中を、幻の鰭脚魚が悠々と滝つぼの方に向かって泳いでいるのです。

 しかし、私は、これが夢でないことも確信しておりました。古代魚は私が思っていたよりはるかに大きく、想像以上に体の厚みもあって、何より、水墨画では感じられなかった、驚くほど鮮やかな瑠璃色をしていたからです。

 わたしは、ただ馬鹿のように、ああ、ああ、と感嘆の声を漏らしながら、少しでも古代魚の近くにいようと、岸を回って付いて行きました。

 古代魚は腕のような胸びれを横に広げ、柄の付いた尻鰭と第二背鰭をゆっくりと複雑に動かしながら、実に悠々と泳いでおりました。岸辺で奇声を上げる二本足の動物など、全く意に介してはおりません。時折、木漏れ日が当たると、鱗の一つ一つがラピスラズリのようにきらきらと輝きます。もし、あの絵を描いた絵師が現代の絵の具を手に入れたなら、飽くことなく実に様々な鱗の色合いを表現しようとした事でしょう。

 気づくと私は服を脱ぎ捨て、泉に入って夢中で泳いでおりました。生温かい水が口に入ると改めてこれが真水だと気づきました。

 淡水性シーラカンス。

 この場所こそ、魚が陸へ進出しようとしていた頃と同じ原始の泉です。アフリカの深海に住む同族は、陸を諦め、深い海の底へ撤退することで新たな進化を遂げた、深海魚です。しかし、今、私の目の前に漂っている、淡水性シーラカンスは形状こそ深海性のものと良く似てはいますが、まさに正統な生き残りの一族と言えましょう。特に大きな目は、深海性になって退化をしてしまった一族とは異なり、澄んだ、山魚の目です。


 私はこの土地に住み、このデボンの泉のほとりで一生を終えるつもりです。村はずれにあった、炭焼き小屋の釜を修復しました。作った炭を一日かけて山の向うの村まで運び、いくばくかの食料と交換してもらって生活しております。泉には古代魚のほかに、大きな鱒の類も棲んでいますが、それらはこの泉の主たちの食料なので、私は捕らえません。魚は渓流に仕掛けた罠を朝晩点検して回って、掛かった獲物を食べるのです。

 村人たちは、突然住み着いたよそ者を初めこそいぶかしんでいたようですが、やがて、日本から来た変わり者の学者と勘違いして了解したらしく、おおむね友好的に接してくれています。

 最近は木炭づくりの片手間に筆や墨を作り、見よう見真似で泉の絵を描いております。

 気付くと自分と周囲の世界の境界が曖昧になるような奇妙な感覚に浸っている事が多くなっているような気がします。このままこの土地で死ぬと、あるいは死んだことにも気付かずに暮らし続けることになるのではとも思えます。

 そして近頃は、狂ったと思われるかもしれませんが、件の古代魚と何やら意思の疎通ができ始めたような気がするのです。


 冬になると、この泉の周りは不思議と温かいのですが、村は雪に閉ざされ、春になるまで極端に外の世界と閉ざされると訊いて、私はこの手紙を知人の男に託しました。正直な男なので、町に出た折に投函してくれることでしょう。事故も無くあなたに届くことを願ってはおりますが、私は既にこの発見を発表して何がしかの名声を得たいと願ってはおりません。むしろ、この奇跡のような泉の秘密を守ることが、自分の使命のように感じてさえおります。ならばこのような手紙を書くということは矛盾しておるのですが、それはただ、子供じみた幼児的な、自慢話を誰かに伝えたい、という衝動に駆られてのことです。変わり者から伝え聞いた、奇談の一つとご記憶くだされば、それで結構です。


 末筆ながら、遥か異世界から貴兄のご活躍と、わが日本国の大復興を信じ、心より願っております。


 終

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