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トビウオは征く

作者: 白玉
掲載日:2026/06/17

疾飛 慶太にとって、放課後のプールサイドは世界で一番静かな場所だった。



塩素の匂いが鼻をつく。陽が傾きかけた午後の光が水面に反射し、天井のアルミパネルにゆらゆらと光の波紋を映し出している。慶太はゴーグルを額にかけ、深く息を吐いた。



「また、一人で泳いでたの?」


背後からかけられた声に、慶太の心臓が跳ねた。振り返ると、そこにはクラスメイトの瀬戸内 渚が立っていた。彼女の白いブラウスが、夕暮れのオレンジ色に染まっている。


「……別に、普通だよ」


慶太は素っ気なく答えて、タオルで髪を拭いた。本当は、誰にも見られたくなかった。自分がただ、ひたすらに泳ぎ続ける姿を。



慶太の家系は、代々「飛ぶ」ことにこだわってきた。父は競泳の元選手で、慶太にも幼い頃から徹底的に泳ぎを叩き込んできた。だから、泳ぐことは慶太にとって「呼吸」に近い。けれど、なぜか彼の泳ぎには、いつだって「何か」が足りない気がしていた。まるで、水面という境界線に縛り付けられているような、もどかしさ。



「慶太くんの泳ぎ、見てたよ」


渚はプールサイドに腰を下ろし、素足でパシャリと水を蹴った。波紋が広がり、慶太の足元に届く。


「……何か、言いたいのかよ」


「ううん。ただ、飛び魚みたいだなって思っただけ」


彼女は悪戯っぽく笑い、夕日に向かって目を細めた。


「空を飛ぶために、海を走る魚。慶太くんも、何かを目指して泳いでるんでしょう?」



その言葉は、まるで鋭いナイフのように慶太の胸の奥に刺さった。誰にも見せたことのない、心の深い場所に。


静寂が戻る。プールの排水溝の音が、妙に大きく響いた。


この甘酸っぱくも鋭い痛みを伴う時間が、慶太の平凡だった日常を、少しずつ、けれど確実に変えようとしていた。






翌日からの慶太の日々は、昨日までとは少し違った輪郭を帯びていた。


「飛び魚」。渚の何気ない一言が、慶太の頭の中で何度も反響していた。放課後の練習中、慶太は意識的に自分の泳ぎを客観視しようと試みた。力任せに水を掻くのではなく、水の抵抗を味方につけ、その先にある「空」へ向かうための加速。



慶太の所属する水泳部は、今度の地区大会を最後に活動を終えることが決まっていた。部員が減り、廃部が決定したのだ。だからこそ、慶太は最後の大会に懸けていた。

父からの期待や周囲の評価のためではない。自分の中に眠る「何か」を確かめるために。



その日、練習を終えて更衣室に向かうと、廊下の突き当たりで渚が楽器ケースを抱えて立っていた。彼女は吹奏楽部で、コンクールに向けて練習を重ねているはずだ。


「お疲れ様。今日も、すごかったね」


渚はそう言って、冷えた麦茶のペットボトルを差し出してきた。慶太は戸惑いながらもそれを受け取る。指先が触れ合い、微かな静電気が走ったような気がした。


「……何が、すごかったんだよ」

「分からない。でも、水の中から何かが飛び出してきそうな感じがしたの」


彼女は照れたように笑うと、廊下の窓から外の空を見上げた。


「ねえ、慶太くん。もし大会で一番になれたら、そのあと、少しだけ付き合ってくれない?」

「……付き合うって、何にだよ」


慶太は心拍数が跳ね上がるのを感じた。


「秘密。ちゃんと結果を出せたら、教えてあげる」


渚はそう言い残して、早足で去っていった。残されたのは、彼女の残り香と、冷たいはずなのに熱を帯びたペットボトルだけ。


心臓の鼓動が、まるで水面を叩くバタ足のように荒々しく鳴っている。慶太は壁に背を預け、天井を見つめた。これまでは「泳ぐこと」と「自分自身」の間だけで完結していた世界に、誰かが強引に踏み込んできた。


それが、こんなにも恐ろしくて、同時に胸が高鳴ることなのかと、慶太は初めて知った。



水面の下で息を潜めていた飛び魚が、ついに空へ向かって尾びれを振る準備を始めたようだった。






大会まで残り二週間。プールの水温は以前よりも高く感じられ、慶太の練習はより一層激しさを増していた。



かつては「父の期待」に応えるための機械的な動作だった泳ぎが、今は少しずつ変化していた。水を掻くたび、指先から肩にかけて伝わる水の抵抗が、以前よりも鮮明に感じられる。

そして何より、水中から壁を蹴って浮上する瞬間、無意識にプールの入り口を探す自分がいた。


(……渚は、来ているだろうか)


そんな雑念が浮かぶたびに、慶太は頭を振る。

集中しろ、と自分に言い聞かせる。しかし、一度芽生えた感情は、水に溶け出した絵の具のように、慶太の意識を鮮やかに染め上げていた。




ある日の夕方、部活を終えた慶太が更衣室から出ると、校舎裏のベンチに渚の姿があった。彼女は吹奏楽部の練習で使う楽譜を広げていたが、慶太の姿を見つけると、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべた。


「お疲れ様。今日はずいぶん、速かったね」

「……見てたのか?」

「うん。プールの窓から、ずっと見てた」


慶太はベンチの端に腰を下ろした。少し離れた距離。けれど、二人を包む夕闇は、まるで秘密を共有するためのカーテンのようだった。


「ねえ、慶太くん。飛び魚ってさ、なんで空を飛ぶと思う?」


突然の問いかけに、慶太は少し考えてから答えた。


「……敵から逃げるためだろ。水中じゃ生き残れないから、あえて空へ逃げる」


「そうかもね」


渚は楽譜を閉じ、校庭の先にある空を見上げた。茜色から藍色へと移ろう空に、一番星が瞬き始めている。


「でもね、私はそうじゃないと思う。彼らはただ、もっと遠くへ行きたいんだよ。海という枠組みを超えて、新しい世界が見たいから、あえて飛び出すんだ。私は、慶太くんの泳ぎにそれを見たの」


渚の言葉は、慶太の胸の奥で鐘のように鳴った。

これまで「負けないために」「速くなるために」と、自分を縛り付けていた鎖が、ガラガラと崩れ落ちるような感覚だった。


「……俺は、ただの飛び魚じゃないかもしれないな」


慶太が小さく呟くと、渚は嬉しそうに目を細めた。


「うん。次はどんな景色を見せてくれるか、楽しみにしてる」


帰り道、慶太の足取りは驚くほど軽かった。水の抵抗が、いつの間にか「翼」の重みに変わっている。

大会という一つの区切りが、ただの結末ではなく、新しい物語の始まりのように思えた。






大会当日。



会場の市民プールは、張り詰めた緊張感と熱気に包まれていた。


慶太はスタート台の上に立ち、深呼吸をした。

耳の奥で、鼓動が重低音のように響いている。隣のレーンには、地区の強豪たちが並んでいる。かつての慶太であれば、彼らの体格やこれまでの記録を意識して萎縮していたかもしれない。



しかし、今の慶太は違った。


(もっと遠くへ)


心の中でそう呟き、客席に目をやる。保護者や部員たちが座る中で、吹奏楽部のユニフォームを着た渚の姿を探した。彼女は控えめな席に座り、じっとこちらを見つめている。目が合うと、渚は小さく頷き、両手を合わせるような仕草をした。


「各員、位置について」


アナウンスが響き、慶太は身体を前屈させた。

膝のバネに力を溜める。視界から観客の声援が消え、世界が水面の青さだけになる。




「よーい」




電子音が鳴るのと同時に、慶太は弾かれたように飛び出した。



水に飛び込んだ瞬間、世界は静寂に包まれる。

水の抵抗が全身を包み込むが、それはもはや慶太を縛り付ける鎖ではなかった。水の流れを指先で切り裂き、力強く、どこまでも滑らかに水を掻く。



(俺は、飛ぶんだ)



折り返しのターン。壁を蹴った瞬間、慶太は自分の感覚が研ぎ澄まされているのを感じた。ラスト50メートル。


全身の筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、不思議と身体は軽く、まるで水面の上を滑空しているかのような高揚感に包まれていた。



水の抵抗が消え去り、自分自身が水と一体化して前に突き進む。


ラストスパート。


慶太は残りの力を振り絞り、最後の一掻きで勢いよく水面を割った。


タッチ板が鳴る。慶太は息を切らして浮上し、電光掲示板を見上げた。そこには、自己ベストを大幅に更新したタイムと、順位を示す「1」の数字が輝いていた。



静まり返った場内に、自分の荒い呼吸だけが響く。達成感と共に、慶太はまっすぐに客席を見た。渚は立ち上がり、まるで自分のことのように満面の笑みを浮かべて手を叩いている。


その笑顔を見たとき、慶太は確信した。自分が泳いできたのは、父のためでも、記録のためでもなく、この瞬間に誰かと喜びを分かち合うためだったのだと。







大会の閉会式が終わり、会場の外には夕立のあとの澄んだ空気が広がっていた。


慶太は更衣室から出て、プールの入り口で待っていた渚を見つけた。彼女は夕暮れの光を浴びて、どこか少し緊張した面持ちで立っていた。慶太が近づくと、彼女は少しだけ俯き、それから意を決したように顔を上げた。



「おめでとう、慶太くん。……すごかったよ」


「ありがとう。……約束、覚えてるか?」


慶太は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに彼女の目を見て言った。渚は小さく頷き、ポケットから一枚のチケットを取り出した。


「これ、町の外の海岸で開催される、夜の野外音楽祭のチケットなの。吹奏楽部で招待されてるんだけど……ずっと、誰かと行きたいと思ってた」


彼女は少し恥ずかしそうに頬を染め、続けた。


「慶太くんが一番になったら、一緒に空を見に行こうって決めてたの。海辺で、音楽を聴きながら、もっともっと遠くの話をしようよ」


慶太はそのチケットを丁寧に受け取った。手のひらに伝わるチケットの感触は、今朝までの緊張やプレッシャーとは違う、新しい季節の訪れを告げる温かな予感だった。


「行こう。……今度は、水の中じゃなくて、ちゃんと自分の足で」


二人は並んで歩き出した。プールの塩素の匂いはもうどこかへ消え、潮風が微かに鼻をくすぐる。


水面という境界線を超えた飛び魚のように、慶太の視界は大きく開けていた。目の前には、まだ見たことのない広い世界と、隣を歩く渚という新しい光がある。


甘酸っぱくて、少しだけ切なくて、それでいてどこまでも青い。疾飛慶太の青春は、今まさに、本当の意味で空へ向かって飛び立とうとしていた。

短編小説の書き方が分からない…

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