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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第9話 春の旧校舎と、和菓子目当ての客 6

 ミントタブレットの強烈な清涼感が、脳の奥深くまで突き抜ける。俺の嗅覚は、作法室に漂う白檀びゃくだん龍脳りゅうのうの練香の爽やかな香り、澄が淹れてくれたお茶の匂い、そして隣に座る長谷川先生が纏っているブラックコーヒーとチョークの生活臭を、脳内でレイヤーごとに分けて順番にミュートしていった。


 澄が徹底的に外の汚れを排除し、俺のためにノイズのない空間を保ってくれているこの作法室だからこそ、持ち込まれたわずかな匂いの痕跡は、真っ白なキャンバスに落とされた一滴のインクのように際立って感じ取れる。


 俺の意識は、畳の上に置かれた無地の裏紙の束だけに集約された。深く、ゆっくりと息を吸い込む。


 ――見えた。


「……先生。この紙の束から、人工甘味料特有の不自然な甘さと、安いコーヒー豆を焦がしたような匂いがします。『微糖の缶コーヒー』の匂いです」


「えっ?」


 長谷川先生は間の抜けた声を出し、畳の上の裏紙の束をまじまじと見つめた。


「加えて、わずかに粉っぽい鉱物の匂いも付着している。長谷川先生の服からする白いチョークとは違う、染料の成分を含んだ独特の粉っぽさ……『黄色いチョーク』の匂いだ」


 俺が淡々と事実を並べ立てると、長谷川先生はハッとしたように顔を上げた。


「あ! 数学の鈴木先生だ! あの人、いっつも甘ったるい微糖の缶コーヒー飲んでるし、図形の授業が多いから黄色いチョークをよく使うんだよ!」


「山田先生はブラックコーヒー派でしたよね。進路指導室の前を通ると、いつも胃が痛くなるような焦げた匂いがしていますから、間違いないでしょう」


「でも、なんで鈴木先生の匂いがついた裏紙の束が、山田先生の机に?」


 俺は視線を畳から外し、気怠げに頬杖をつき直した。必要な情報はすべて出揃い、頭の中のパズルはすでに完成している。


「簡単なことです。鈴木先生が山田先生の机の近くを通った際、自分の持っていたこの『裏紙の束』を無意識にそこに置き忘れ、代わりに紙のサイズと重さが同じだった『進路希望調査の束』を間違えて持っていってしまったんですよ」


「ええっ!?」


「今頃、鈴木先生は自分の手元にある書類が裏紙だと思い込んだまま、カバンの中か机の上に放置しているはずです。探しに行けば、すぐに見つかりますよ」


 俺が推論を告げると、長谷川先生はぽかんと口を開けたまま、信じられないものを見るような目で俺を見つめた。


「……マジで言ってる? お前、ここから一歩も出てないんだぞ? ただ匂いを嗅いだだけで……」


「俺の鼻に嘘はつけません。確認してくればわかることです」


 俺が静かに断言すると、長谷川先生はバンッと勢いよく畳を叩いて立ち上がった。


「わ、わかった! ちょっと職員室に戻って、鈴木先生の机引っ掻き回してくる!」


 長谷川先生はヨレヨレのカーディガンの裾を翻し、入ってきた時以上の嵐のような勢いで作法室を飛び出していった。ピシャリと引き戸が閉まる音が響き、遠ざかっていく慌ただしい足音が、やがて旧校舎の静寂に吸い込まれて消える。


「……はあ。騒がしい人だ」


 俺が小さく息を吐くと、部屋の中央で静かに成り行きを見守っていた雅先輩が、袖口で口元を隠しながら上品なくすくす笑いをこぼした。


「ふふっ。神崎くんは本当に名探偵ね。現場に足を運ぶことすらなく、持ち込まれた書類だけで職員室の謎を解いてしまうなんて」


「探偵なんて大層なものじゃありませんよ。ただ、匂いの情報が勝手に頭に入ってくるだけです。それに、早く解決して静かになってほしかっただけですから」


「ええ、知っているわ。あなたのそういう謙虚で裏表のないところが、わたくしはとても好きよ」


 雅先輩は楽しそうに微笑み、香炉の灰を静かに整え始めた。


「はい、慧くん。少し頭を使って疲れちゃったでしょ? おかわり、淹れたよ」


 隣に座っていた澄が、お盆に乗せた新しい湯呑みを俺の前にそっと置いた。俺の視線に気づいた彼女は、ふんわりと花が咲くように目を細めて微笑み返してくる。新しく出されたお茶を一口すすると、すり減った神経にじんわりと染み渡るような、俺にとって一番ホッとできる熱さが喉の奥へと流れていった。


「ありがとう、澄。……お前のおかげで、匂いに集中できた」


「ううん、慧くんがすごいんだよ。私、何もしてないもん」


 澄は心底嬉しそうに首を横に振る。謙遜しているが、彼女がこの空間の余計な匂いを常に拭き清め、俺が最も安らぐ状態を維持してくれているからこそ、俺は外のノイズに邪魔されることなく情報の解析を行えるのだ。俺は彼女の献身的な気遣いに深く感謝しながら、温かいお茶で一息ついた。


 それから数十分ほどが経過し、作法室に再び穏やかな時間が戻りかけた頃。廊下の奥から、ドタドタという地響きのような足音が急接近してきた。


――ガラッ!!


「神崎ぃぃぃっ!!」


 引き戸が吹き飛ぶのではないかという勢いで開け放たれ、顔を真っ赤にして興奮状態の長谷川先生が飛び込んできた。手には先ほどまで抱えていたプリントの山はなく、代わりに両手をバンザイするように高く突き上げている。


「あった! お前の言った通り、鈴木先生の机の上の、採点前の小テストの山の中に埋もれてた! あいつ、紙のサイズと重さが同じだったから自分の裏紙の束だと思い込んで、全く気づいてなかったんだよ!」


「……そうですか。見つかって何よりです」


「何よりです、じゃねーよ! お前、マジですごいな!? 職員室の連中が何十分も探し回って見つからなかったものを、ここでお茶飲んでただけで当てちまうなんて! 山田先生も泣いて喜んでたぞ!」


 長谷川先生は俺の肩をバンバンと力強く叩きながら、興奮冷めやらぬ様子でまくしたてた。少し声が大きくてうるさいが、彼女から立ち上る匂いは「純粋な驚き」と「事件が解決した圧倒的な安堵」だけであり、嫌な見栄や嘘の成分は一ミリも含まれていない。だから、肩を叩かれて至近距離に立たれても、不思議と不快感はなかった。


「いやー、今日はお前のおかげで早く帰れるわ! 恩に着るぞ、神崎! 今度なんか購買で奢ってやるからな!」


「奢りは結構ですから、次からはもう少し静かにドアを開けてください」


「ははっ、善処する! じゃあな、雅ちゃん、澄ちゃん! また明日お菓子食べに来るから!」


 長谷川先生は嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。手に入れた書類の束を抱え、足取りも軽く本棟へと戻っていく足音が聞こえる。どうやら、職員室のピリピリとした地獄の空気は、これで完全に解消されたらしい。


「ふふ、長谷川先生、本当に嬉しそうだったわね」


「あの人にとって、早く帰れること以上に嬉しいことはないでしょうからね」


 俺は小さくため息をつき、再び湯呑みを手に取った。


 他人の嘘が渦巻く過酷な教室や、トラブルの絶えない職員室。俺はそんな外界の喧騒には一切関わりたくない。だが、こうして旧校舎の安全地帯に持ち込まれた間接的な証拠から、パズルを解いて暇を潰すくらいなら、悪くない時間の使い方かもしれない。


 俺は、澄が淹れてくれたお茶の味わいと、雅先輩が焚く白檀と龍脳の落ち着いた香りを肺の奥深くまで吸い込んだ。外界のトラブルを解決したという小さな達成感を胸の奥にしまい込みながら、俺は一切のノイズが存在しないこの聖域で、再び静かで穏やかな放課後の時間へと身を委ねた。

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