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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第7話 春の旧校舎と、和菓子目当ての客 4

 四月中旬。桜の花びらはすっかり散り、街の木々は柔らかな新緑へと姿を変え始めていた。それに伴い、気温も少しずつ上がり始める。春の生ぬるい陽気がアスファルトを温めると、新学期の緊張感が少しだけ解けた教室には、より重くて複雑な「匂い」が充満するようになっていた。


 クラスメイトたちがグループ内で打ち解け、冗談を言い合う中で生じる熱気。体育の授業後に持ち込まれる、ごまかしきれない汗と制汗剤の匂い。俺の過敏な嗅覚は、それらが入り混じった他人の感情の淀みを、嫌でも受信してしまう。教室での時間は、俺にとってひたすらにミントタブレットを消費し、嗅覚と精神をすり減らすだけの過酷な耐久戦でしかなかった。


 だからこそ、放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、俺は逃げるようにして旧校舎の作法室へと向かう。引き戸を開け、完璧に温度と湿度が管理された空間に足を踏み入れた瞬間、強張っていた全身の力がふっと抜けた。


「……生き返る」


「ふふ、今日もお疲れ様、神崎くん」


 部屋の中央で、雅先輩が優雅な微笑みを浮かべて出迎えてくれる。今日も作法室には、落ち着いた梅花の練香ねりこうの香りがかすかに漂っていた。外界の悪臭から完全に隔離されたこの密室だけが、俺が心から深呼吸できる唯一の聖域だった。


 鞄を置いて定位置に座り、ほっと息を吐いた直後――廊下から、パタパタと少し慌ただしい足音が近づいてきた。


「あの、失礼します……!」


 少しだけ引き戸を開け、ひょっこりと顔を覗かせたのは、一年生の星野くるみだった。数日前にこの部屋で浅はかな嘘を紐解かれ、俺に図星を突かれて即落ちした彼女だが、結局その後もめげずに(というより、雅先輩が用意する高級和菓子の魅力に抗えずに)作法室へと顔を出すようになっていた。


「いらっしゃい、星野さん。今日も熱心ね。さあ、座ってちょうだい」


「お邪魔します、桜小路先輩。……あ、神崎先輩も、こんにちは」


「ああ」


 挨拶を交わした星野は、俺の顔を見るなり、何かを取り繕うようにコホンと小さく咳払いをした。そして、先日の失態をどうにか挽回しようと決意してきたのか、わざとらしく小首を傾げて、再びあの「背伸びをした小悪魔キャラ」の仮面を被り直した。


「神崎先輩ってば、今日も隅っこで退屈そうにしてますね? 私が来て嬉しいんじゃないですか?」


 意図的に俺のパーソナルスペースへと一歩踏み込んでくる。四月中旬の少し汗ばむ陽気の中を歩いてきた彼女からは、かすかな汗の気配と、それを誤魔化そうとしてつけ直したであろうベリー系のボディミストの強い匂いが漂っていた。不快というほどではないが、この静謐な和の空間においては、明らかに異質な「外の匂い」だった。


 俺はミントタブレットを取り出そうとポケットに手を入れた。この至近距離なら、また彼女の体温上昇や冷や汗を嗅ぎ分けて、からかい半分に嘘を暴いてやることは造作もない。


「くるみちゃん、お疲れ様。外、少し暑かったでしょ?」


 だが、俺が動くよりも早く、水屋からお盆を手にした澄が現れた。彼女の顔には、一切の影も悪意もない、誰もが好感を抱く完璧な笑顔が浮かんでいる。


「あ、真白先輩。こんにちは」


「まずは手を綺麗にしてね。はい、おしぼり」


 澄は星野の前に、ほんのりと温かいおしぼりを置いた。星野が「ありがとうございます」と手を拭いている間に、澄は流れるような無駄のない動作で、星野が座っている周辺のテーブルや畳を、無香料の除菌シートでサッと拭き清めた。


(……相変わらず、澄は綺麗好きだな)


 俺は気怠げに頬杖をつきながら、その様子を眺めていた。澄は昔から、他人の生活臭や外の汚れが自分のテリトリーに持ち込まれることを極端に嫌う。彼女のその徹底した清掃のおかげで、星野が持ち込んだベリー系の甘い匂いは瞬時に中和され、俺の鼻をくすぐっていたわずかな不快感も綺麗に消え去った。俺にとっては、彼女のその潔癖な性質はありがたい限りだった。


「さあ、お茶とお菓子をどうぞ。今日は少し冷えるから、温まるように淹れておいたよ」


 澄はそう言って、俺と星野の前にそれぞれ湯呑みを置いた。俺は自分の湯呑みを手に取り、一口すする。……完璧だ。熱すぎずぬるすぎない、俺の過敏な嗅覚を一切刺激しない、最高に心地よい温度。外界の悪臭で削られた神経が、優しく解きほぐされていくのを感じる。


「いただきますっ……あつっ!」


 しかし、対面の星野は、湯呑みに口をつけた瞬間にビクッと肩を揺らした。どうやら、星野に出されたお茶は、俺のものよりもかなり温度が高かったらしい。星野は慌てて湯呑みを離し、目を白黒させている。


「ごめんなさい、熱かったかな? 冷めないうちにお菓子と一緒にゆっくり楽しんでね」


 澄は申し訳なさそうに小首を傾げたが、その笑顔は微塵も崩れていなかった。俺の目には、澄がお茶の温度を少し間違えただけの、ただの些細なミスにしか見えなかった。だが、俺の鼻は、星野の体から突然「強い萎縮」を示す冷や汗の匂いが立ち上ったのを見逃さなかった。


 星野は、目の前で完璧な笑顔を浮かべる澄と、出された熱いお茶、そして徹底的に拭き清められ、自分のボディミストの匂いが完全に消え去った周囲の空間を交互に見比べた。小悪魔キャラの余裕など一瞬で吹き飛び、彼女の表情がみるみるうちに引きつっていく。


(……どうしたんだ、急に)


 星野の心拍数が上がり、呼吸が浅くなっているのが匂いの揺らぎからわかる。澄の行動には、いかなる悪意の匂いも、陰湿な企みの匂いも含まれていない。俺の嗅覚が証明している。澄はただ、持ち込まれた外の汚れを嫌って掃除をし、熱いお茶を出しただけだ。


 だが――星野は本能で悟ったのだろう。自分の背伸びした小悪魔の仮面や、甘いボディミストの匂いなど、この空間を完璧に支配している澄の前では、ただの『排除すべき些細な汚れ』として笑顔で処理されてしまうということに。澄の放つ、一切の濁りがない純度100%の気遣い。その「圧倒的な格の違い」の前に、星野のような付け焼き刃の女子高生が入り込む隙間など、一ミリも存在しなかった。


「あ、あの……ごちそうさまでした! 私、今日はこれで失礼しますっ……!」


 星野は熱いお茶を涙目で無理やり流し込み、桜餅を一口で頬張ると、逃げるようにして立ち上がった。


「あら、もう帰るの? もっとゆっくりしていけばいいのに」


「い、いえ! 用事を思い出したので! 失礼しましたぁっ!」


 雅先輩が不思議そうに声をかけるが、星野はバタバタと足音を立てて作法室から飛び出していってしまった。完全に萎縮しきった敗北の匂いだけを、わずかに残して。


「……なんだあいつ。嵐みたいだな」


「ふふ、きっとまだ部活の空気に慣れていないのよ。元気があってよろしいわ」


 俺が呆れたように呟くと、雅先輩は可笑しそうにくすくすと笑った。


「慧くん、お茶のおかわり、いる?」


 隣に座った澄が、一切の影がない、ひだまりのように温かい笑顔で俺の顔を覗き込んでくる。彼女から漂うのは、俺が世界で一番安心できる、かすかな朝露のような柔軟剤の香りだけだ。他の女子の香水や、汗の匂いといった不快な気配は、ここには何一つ存在しない。


「ああ。……お前の淹れるお茶が、一番落ち着く」


「えへへ、よかった」


 俺が心からの本音をこぼすと、澄は本当に嬉しそうに目を細めた。俺はただ、綺麗好きである彼女が生み出す、この圧倒的に清潔で心地よい空間に深く安堵し、静かに深呼吸を繰り返した。星野が何に怯えて逃げ帰ったのか、俺には全く理解できなかった。だが、そんなことはどうでもいい。俺にとって重要なのは、この作法室と、幼馴染である澄が提供してくれる「嘘のない透明な時間」だけなのだから。

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