第6話 春の旧校舎と、和菓子目当ての客 3
親指で弾き開けたプラスチックケースから、一粒のミントタブレットを取り出す。指先で転がしたそれを無造作に口の中へ放り込み、奥歯で一気に噛み砕いた。
――ガリッ。
硬い糖衣が砕けるくぐもった音が、静かな作法室にわずかに響く。次の瞬間、強烈なペパーミントの清涼感が口内から鼻腔へと一気に突き抜け、俺の過敏な嗅覚を覆っていた不快な人工香料のノイズを強制的にクリアリングした。これが、俺の嗅覚を「不快な受信」から「嘘の解析」へと切り替えるスイッチだ。
「えっと……先輩? どうしたんですか、急に黙り込んじゃって」
目の前に立つ一年生の星野くるみは、俺がフリーズしたのだと勘違いしたらしい。少し明るく染めた髪を揺らし、勝負ありと言わんばかりの得意げな笑みを浮かべて、さらに顔を近づけてこようとした。
「……星野、と言ったか」
「はいっ。星野くるみです。先輩のこと、色々と教えて――」
「無理をして慣れないことをするのは、やめておけ」
俺は気怠げに座っていた姿勢を崩し、畳に手をついて、逆に彼女の方へとわずかに身を乗り出した。ほんの数十センチ。俺から距離を詰められるとは全く想定していなかったのだろう。星野の肩がビクッと跳ね、得意げだった笑顔がわずかに引きつった。
俺は冷たいミントの息を吐き出しながら、極めて冷静に、そして理詰めで目の前の少女の「嘘」を紐解いていく。
「お前はさっきから、余裕のある『小悪魔な後輩』を演じようとしているみたいだが……悪いが、完全に空回りしているぞ」
「な、なに言ってるんですか! 私は別に、そんなつもりじゃ……っ」
「なら、なぜそんなに汗をかいている?」
俺の言葉に、星野は息を呑んだ。
「さっきお前が俺のパーソナルスペースに踏み込んできた瞬間から、お前の体温は不自然なほど急上昇している。そのせいで、お前がたっぷりと浴びてきたベリー系のボディミストの揮発速度が異常に早まっているんだ」
「え……?」
「加えて、首筋と額には極度の緊張による冷や汗が滲んでいる。……自分で思っている以上に、匂いとしてダダ漏れになっているぞ。男慣れしていない不器用な自分を隠すために、マニュアル通りに背伸びをしているだけの、中身の伴わない強がりが」
淡々と事実だけを並べ立てる俺の言葉に、星野の目は限界まで見開かれた。彼女は信じられないものを見るような目で俺を見つめ、後ずさりしようとする。だが、俺は逃がさない。
相手が言葉でどれだけ巧みに嘘をつこうと、身体から発せられる物理的な「匂いの揺らぎ」は誤魔化せない。俺の鼻は、彼女の強がりの奥にある本音を、とっくに丸裸にしている。俺はとどめを刺すように、彼女を真っ直ぐに見据えて言った。
「星野。――お前、脈拍が上がってるぞ」
「ふぇっ!?」
星野くるみの口から、およそ小悪魔キャラとはかけ離れた、カエルのような情けない声が漏れた。彼女は弾かれたように両手で自分の口元を覆い、バタバタと数歩後ずさる。顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まり、艶やかなリップグロスを塗った唇が金魚のようにパクパクと震えていた。
「あ、あわわ、ちが、これは、その……! あ、暑いんです! 今日は春なのにすっごく気温が高くて、だから汗とか、体温とか……!」
「この作法室は、香木を管理するために一年中、最適な温度と湿度に保たれている。暑いわけがないだろう」
「うぅっ……!」
論理的な逃げ道を完全に塞がれ、星野はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。先ほどまでの挑発的な態度は跡形もなく消え去り、そこには、背伸びをした嘘をあっさりと見透かされてパニックに陥っている、年相応で不器用な少女の姿しかなかった。
「それに」
俺は少しだけ意地悪な気分になり、彼女が最初にこの部屋に入ってきた時の視線の動きを思い出しながら付け加えた。
「お前が本当に興味があるのは、俺のことでも香道のことでもないだろう」
「え……?」
「さっきから、雅先輩の横にある重箱をチラチラと見ていたな。甘いものにつられて見学に来たのは構わないが、タダでお茶菓子にありつこうとするなら、もう少し上手く立ち回ることだ」
「〜〜〜〜っ!!」
完全に図星を突かれた星野は、もはや言葉すら発せなくなっていた。両手で真っ赤な顔を覆い隠し、「うわぁぁ……穴があったら入りたい……」と消え入りそうな声で呻いている。纏っていた甘ったるいボディミストの匂いは、極度の羞恥心による熱気でさらに激しく揮発し、作法室の空気を撹拌していた。
だが、その不器用な動揺の匂いには、教室に充満しているような「他人を蹴落とすための陰湿な悪意」は一切含まれていない。ただ純粋に恥ずかしがっているだけの、ひどくわかりやすい反応だ。俺にとっては少しうるさい匂いだが、人間関係のドロドロとしたノイズに比べれば、ずっと無害でマシな部類だった。
「……ふふっ」
その時、部屋の中央で静かに一部始終を見守っていた雅先輩が、袖口で口元を隠しながら上品な笑い声をこぼした。
「神崎くんは、本当に人が悪いわね。入ってきたばかりの可愛らしい後輩を、そんなに虐めては可哀想でしょう」
「虐めたつもりはありませんよ。事実を指摘しただけです」
「ええ、知っているわ。あなたのそういう裏表のないところが、わたくしはとても好きよ」
先輩はくすくすと笑いながら、重箱の中の桜餅を取り分け、新しい銘々皿の上に美しく乗せた。
「さあ、星野さん。そんな隅で縮こまっていないで、こちらへいらっしゃい。ちょうど美味しいお菓子があるの。香道部のおもてなしを受けていってちょうだい」
「あ……う、はい……ありがとうございます……」
星野はまだ顔を真っ赤にしたまま、借りてきた猫のように大人しく頷き、先輩の向かい側へとそろそろと歩いていった。小悪魔のメッキは完全に剥がれ落ち、すっかり従順な新入生に成り下がっている。
俺は小さく息を吐き、再び気怠い姿勢に戻って湯呑みを手に取った。ミントタブレットの清涼感が少しずつ薄れ、作法室に本来の「和の香り」が戻ってくるのを感じる。
「お待たせしました、くるみちゃん」
そこへ、水屋から戻ってきた澄が、お盆に乗せた新しい湯呑みを星野の前に静かに置いた。その顔には、先ほどと何一つ変わらない、一切の影や悪意を含まない完璧な笑みを浮かべている。
「少し熱めにしてありますから、気をつけて飲んでくださいね」
澄のその柔らかく丁寧な声色は、いつものように純粋な優しさに満ちていた。俺の鼻は、彼女からいかなる「嘘や企みの匂い」も感じ取ってはいない。澄はただ、見学に来た後輩を心から歓迎し、完璧にもてなそうとしているだけなのだ。
「あ、ありがとうございます……」
星野は恐縮したように澄からお茶を受け取り、居心地の悪そうに湯呑みを両手で包み込んだ。俺にはただの親切な振る舞いに見えたが、なぜか星野からは、わずかな「萎縮」の匂いが立ち上っていた。まるで、自分の浅はかな嘘や甘いボディミストなど、澄の完璧な清らかさの前ではひどくちっぽけで無価値なものだと思い知らされたかのように。
俺はそんな彼女の様子を横目で見ながら、もう一口、自分のためだけに完璧に調律されたお茶をすすった。やはり、ここは俺にとって最高の避難所だ。外界の厄介なノイズが持ち込まれても、こうして俺の嗅覚とこの空間のルールが、すぐにそれを無害化してくれるのだから。




