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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第56話 五月雨の作法室と、大和撫子の綻び 1

 生徒会の一条会長と高科副会長が作法室に乗り込んできてから、ちょうど一週間。いよいよ彼らが宣告した本監査を明日に控えた、五月中旬のことだった。


 本格的な梅雨にはまだ少し早いはずだが、空は数日前から鉛色に重く垂れ込め、『五月雨さみだれ』と呼ばれる長雨がしとしとと降り続いていた。


 雨が降ると、外界の匂いはアスファルトに叩きつけられて一時的に落ち着くことがある。だが、三十人以上の人間がひしめき合う教室という密室においては、雨は完全に逆効果だった。窓を開けて換気することもできず、室内の湿度は不快な数値を叩き出している。湿度が高くなると、空気中の水分に匂いの分子が吸着しやすくなり、鼻の粘膜にダイレクトに、そして長く留まり続けるようになるのだ。


 濡れた制服や傘の生乾きの匂い、上履きのゴムの匂い、そして雨で外に出られず体力を余らせている生徒たちの鬱屈としたストレス。それらが湿気という重い媒体に絡みつき、逃げ場を失って教室中をドロドロと対流している。


「……くそ」


 俺は窓際の後ろから二番目の席で、眉間を押さえながら小さく毒づいた。数分おきにミントタブレットを噛み砕き、澄が俺のために完璧に調律してくれた柔軟剤の香りを襟元から必死に吸い込むことで、どうにか意識を保っている状態だ。


 斜め前の席では、遠山が友人と身振り手振りを交えてゲームの話で盛り上がっている。雨で外に出られない鬱憤を晴らすかのように放たれる彼の熱気は、普段の強烈な汗と制汗剤の匂いをさらに粘着質に変え、俺のパーソナルスペースを容赦なく侵食してきていた。


 俺の過敏な嗅覚にとって、湿気を帯びた他人の感情のノイズは、空気が乾いている時よりもはるかに重く、肺の奥にへばりついてくるような気持ち悪さがあった。


(早く……あの場所へ)


 帰りのホームルームが終わるや否や、俺は鞄を掴み、誰とも口を利かずに教室を飛び出した。俺が目指すのは、旧校舎の奥にある香道部の作法室だ。


 明日はついに生徒会の本監査が行われる。だが、あの日持ち込まれた裏紙と彼らの匂いから、俺はすでに生徒会側の『裏の動機』を完全に紐解いている。一条会長が雅先輩に抱く強烈なコンプレックスと、それを庇おうとする高科副会長の無機質な忠誠心。彼らが振りかざす『公平性』という正論をへし折り、盤面をひっくり返すための反撃の糸口は、俺の頭の中ですでに組み上がっている。


 とはいえ、明日の決戦に備えるためにも、まずはこの五月雨の悪臭で限界まですり減った神経を休ませる必要があった。


 空調によって一年中完璧に温度と湿度が管理され、澄が外の汚れを徹底的に排除してくれる、あの静謐な聖域。雨の日の湿気すらも寄せ付けないあの場所に行きさえすれば、俺は再び平穏な呼吸を取り戻し、冷たい思考を研ぎ澄ますことができる。


 古い木造校舎の廊下を歩くにつれ、本棟の喧騒が遠ざかっていく。雨の音だけが、旧校舎の屋根を静かに、そして規則正しく叩いていた。


 『香道部・作法室』の木札が掛かった引き戸の前に立つ。俺は一つ大きく息を吐き出し、安堵とともにその戸を開け放った。


「――失礼します、桜小路先……っ?」


 挨拶を口にしかけた俺は、作法室に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んで立ち止まった。


 迎えてくれるはずの、ひんやりと澄んだ空気が、ない。それどころか、作法室の中には、雨の日の本棟以上に重く、むせ返るような湿気と熱気が充満していたのだ。


「いらっしゃい、神崎くん。……ごめんなさいね。ここ、少し暑いでしょう」


 部屋の中央で、雅先輩が静かに微笑んでいた。背筋を真っ直ぐに伸ばした大和撫子の佇まいはいつもと変わらない。だが、手元の香炉から立ち上るお香の白い煙は、重い湿気に押されるように低く這い、部屋の空気をひどく息苦しいものに変えていた。


「先輩……これは、一体どういうことですか。空調が……止まっている?」


 俺が眉をひそめて尋ねると、雅先輩は困ったように小さくため息をついた。


「ええ。長雨のせいで、古い校舎の配線に不具合が出たみたいで、今日の昼にこの部屋のブレーカーが落ちてしまったの。すぐに学校へ修理の申請を出したのだけれど……」


「生徒会に、却下されたんですか」


「『明日の監査対象となっている部屋に、緊急の修理予算を割くことはできない』そうですって」


 雅先輩の言葉に、俺は小さく鼻を鳴らした。


 なるほど、高科副会長のやりそうなことだ。明日没収する予定の部屋に、わざわざ学校の修理予算を通さないというのは、感情を一切挟まないあいつからすれば、極めて合理的な判断だ。彼らが生徒会としての権限を正しく行使した結果の正論だからこそ、反論の余地がなく厄介極まりない。


「……卑劣な真似をしますね」


「ふふ、彼らも必死なのよ。でも、これくらいで私たちが音を上げるとでも思っているのかしら」


 雅先輩は袖口で口元を隠し、余裕のあるくすくす笑いをこぼした。だが、その声色とは裏腹に、空調の切れた作法室の空気は、俺の過敏な嗅覚にとってすでに危険水域に達しようとしていた。


 換気扇も回っていない密室。古い畳が吸い込んだ雨の湿気が、部屋の温度とともにじわりと上昇していく。


 普段ならすっきりとした清涼感をもたらしてくれるはずの沈香の香りも、この重い湿気の中では空気に溶け込まず、粘り気を持って鼻腔にまとわりついてくる。まるで、見えない真綿で首を絞められているかのような息苦しさだった。


 俺は定位置の畳に鞄を置きながら、周囲を見回した。まだ、俺と雅先輩以外には誰も来ていないようだ。


 いつもなら、俺が部屋に入った瞬間に水屋から現れ、完璧な温度のお茶と冷たいおしぼりを出してくれるはずの澄の姿が見当たらない。柚木や星野といった新入部員たちも、雨のせいか足が遅いらしい。


 澄さえいれば、たとえ空調が切れていようと、窓の開け具合や冷感スプレーを駆使して、俺のパーソナルスペースを不快なノイズから死守してくれたはずだ。だが、今のこの蒸し暑い密室には、彼女の作り出すあの透明な空気の層が存在しなかった。


 俺はゆっくりと畳の上に腰を下ろし、額に滲み始めた汗を手の甲で拭った。


 明日の監査で生徒会を退けなければ、俺はこの作法室を完全に失うことになる。それは頭では理解していたが、今この瞬間、空調という絶対的な防壁を失った作法室の過酷さを肌で感じたことで、その危機感がよりリアルなものとして迫ってきた。


 俺はズボンのポケットに手を入れ、プラスチックケースの冷たい感触を指先でなぞった。澄が来てくれるまでの間、俺はこの重苦しい湿気と熱気の中で、限界まですり減った神経を自力で保たなければならない。


 五月雨の音だけが、旧校舎の屋根を静かに叩き続けている。俺は重く淀んだ空気を少しでもやり過ごすため、ケースから取り出したミントタブレットを奥歯で噛み砕いた。

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