第53話 新緑の薄暑と、凛とした生徒会長 8
紙の繊維の最深部に隠された、生々しいプレッシャーの匂いの正体。そこへと、俺は意識のピントを限界まで絞り込んでいく。
数分前に噛み砕いたミントタブレットの鋭い清涼感が、未だに脳内の不純物を完璧に排除し続けていた。俺の過敏な嗅覚は今、目の前の裏紙から放たれる気配を、感情的なノイズとしてではなく、純粋なデータとして読み取っている。空調によって完全に温度と湿度が管理された作法室の静寂の中、俺の集中を妨げるものは何一つない。
「……柚木」
静けさを破って俺が声をかけると、息を詰まらせてこちらを見つめていた柚木は、ビクッと肩を揺らした。
「な、なに? もう一人の人物って、誰かわかったの……?」
「その前に、この生々しいプレッシャーの痕跡には、もう一つ、極めて特徴的な成分が混ざり込んでいる」
「特徴的な、成分……?」
「ああ。化学的な、苦味のある粉薬のような匂い。……慢性的なストレスを散らすために服用する、『胃薬』の匂いだ」
作法室の空気が、ピクリと凍りついた。
「い、胃薬……?」
柚木が信じられないものを見るように目を丸くする。隣の星野も、ぽかんと口を開けたまま俺を見返していた。彼女たちのような一般的な高校生にとって、胃を痛めて薬を飲むという事態は、あまりにも日常からかけ離れているのだろう。長谷川先生に至っては、お茶を飲む手を止めて不思議そうに首を傾げている。
「誰の……匂いなの、それ。生徒会室のゴミ箱に捨ててあったってことは、生徒会の人だよね……?」
柚木が恐る恐る尋ねてくる。
「ああ。先日、この作法室に部室監査の通達を持ってきた際、全く同じ匂いを放っていた人物が一人だけいた」
俺は気怠げに頬杖をつき、冷たい声色でその名を告げた。
「完璧なシトラスとミントの香水という強固な鎧の奥底から、このわずかな胃薬の匂いと冷や汗を漏れ出させていた人物。……生徒会長、一条凛だ」
「――っ!」
柚木が短く息を呑み、星野が「会長さんが……?」と呆然と呟いた。
「嘘、でしょ……だって、あの一条会長だよ? いっつも背筋ピンと伸ばしてて、制服も完璧に着こなしてて、隙がなくて、めちゃくちゃ完璧な優等生じゃん。全校生徒の憧れみたいな人が、胃薬飲むほど追い詰められてるなんて……」
「そうですよ。いつも冷静で、声を荒げたり焦ったりしたところなんて、一度も見たことないです」
柚木と星野が混乱したように言葉を交わす。一般の生徒たちから見れば、一条凛という生徒会長は学校の規律と公平性そのものを体現するような存在だ。誰もが彼女の完璧な建前だけを信じている。長谷川先生すら「あの鉄仮面みたいな一条が胃薬ねぇ……想像つかないな」と呟いているほどだ。だが、俺の鼻は、彼女が香水で必死に隠そうとしていた痛切なストレスの匂いを、至近距離で確かに捉えていた。
「相手がどれだけ完璧な仮面を被ろうと、物理的に漏れ出した匂いの痕跡は誤魔化せない。この紙の奥底に深く染み付いているのは、間違いなく一条会長の匂いだ」
俺は畳の上のプリントの束を指先で軽く叩いた。
「さっき俺は、高科副会長が作成したこの書類を、もう一人の人物が強いプレッシャーを感じながら直接手に取り、強く握りしめたと言ったな」
「う、うん……」
「つまり、冷徹なデータ主義者である高科が作成したこの監査の草案を読み、極度のストレスを感じて胃を痛めながら握りしめ、最終的にボツにしてゴミ箱に捨てたのは、他でもない一条会長本人ということになる」
「会長が、自分でボツにしたの……?」
星野が不思議そうに首を傾げた。
「でも、なんでですか? 高科副会長さんが作った書類って、さっき神崎先輩も言ってましたけど、すごくちゃんとしたデータが載ってる、ぐうの音も出ない正論なんですよね? だったら、それをそのまま通せばいいだけじゃないですか」
「その通りだ。活動日数、部員数、大会での実績、予算。どれをとっても、生徒会が掲げる『公平性』という大義名分において、この草案は非の打ち所がない完璧な理論武装だ。そのまま監査の基準として通せば、何の問題もなくこの作法室を没収できるはずの客観的なデータが並んでいる」
俺は目を細め、頭の中で組み上がっていく推理のパズルを一つずつ言葉にしていく。
「だが、一条会長はそれをすんなりと受け入れることができなかった。完璧なデータであるはずのこの書類を前にして、彼女の心拍数は跳ね上がり、胃の腑がねじ切れるような重圧に苛まれた。だからこそ、彼女はこれを強く握りしめ、結果としてこの完璧な草案は破棄されたんだ」
生徒会という組織が、単なる正義感と公平性のためだけに動いているのなら、高科の作成した客観的なデータを前にして、胃薬を飲むほど思い悩む必要などどこにもないはずなのだ。
「……ふふっ。なんだか、ますます面白くなってきたわね」
部屋の中央で、雅先輩が袖口で口元を隠しながら、上品なくすくす笑いをこぼした。
「生徒会の方々が、わたくしたちの作法室を没収するために、そこまで胃を痛めて思い悩んでくださっているなんて。よほど、この場所が目障りなのかしら」
雅先輩の余裕のある微笑みと、手元の香炉から立ち上る藤の花を思わせる香りが、作法室の張り詰めた空気をわずかに和らげる。
「慧くん、少し頭を使って疲れたでしょ。お茶、少し冷ましておいたよ」
隣に座る澄が、静かに微笑みながら俺の湯呑みに新しいお茶を注いでくれた。思考に熱を持った俺の胃に負担をかけないよう、絶妙に温度を下げてくれている。彼女の純粋な善意だけが、この張り詰めた空間で唯一のオアシスとなっている。
「ありがとう、澄」
俺は、澄が淹れてくれた麦茶の香りを深く吸い込んだ。
一条会長の掲げる大義名分の裏には、確実に何らかの個人的で不純な感情が混ざっている。彼女はなぜ、完璧な正論を前にして胃を痛めたのか。そして、なぜ高科副会長は、そんな彼女の隣で、無機質な糊の匂いを放ちながら淡々と実務をこなしているのか。
俺は冷たい麦茶で喉を潤し、一条会長が完璧な正論の裏に隠し持っている『不純な感情』の正体を紐解くため、静かに思考のピントを合わせ直した。




