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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第51話 新緑の薄暑と、凛とした生徒会長 6

 五月も半ばを迎え、初夏を思わせる少し汗ばむような陽気が、旧校舎の窓をかすかに揺らしている。


 だが、空調によって完璧に温度と湿度が管理された作法室の中は、本棟の過酷な熱気とは完全に切り離された静謐な空気に満ちていた。雅先輩が手元の香炉で焚いている藤の花を思わせる柔らかな練香の香りが、空間の隅々まで行き渡っている。


 俺の定位置である畳の上には、香道部の名ばかりの顧問である長谷川先生が先ほど無造作に置いた、使い古されたバインダーと、プリントの束があった。


 数分前に噛み砕いたミントタブレットの強烈な清涼感が、未だに俺の鼻腔から脳の奥深くまでを氷点下の風のように吹き抜けている。長谷川先生が纏っているブラックコーヒーとチョークの生活臭や、柚木と星野が外から持ち込んだかすかな匂いは、すでに俺の脳内で完全にミュートされていた。


 俺の視線は、長谷川先生が無造作に畳に置いたプリントの束に向けられている。裏が真っ白でもったいないからと先生がゴミ箱から拾ってきた、その紙の表面。俺は手元に引き寄せた紙の束を静かに裏返し、そこに印字された内容を冷徹な思考でなぞっていた。


『旧校舎・文化部部室監査における評価基準(草案)』


 硬い見出しの下には、各部活動の活動日数や部員数、大会での実績、予算の消化率といった無機質なデータが、細かな表になってびっしりと並んでいた。先日、高科副会長が作法室で読み上げた通り、学校の施設管理において優先されるべき「公平性」と「客観的なデータ」を数値化するための、ぐうの音も出ない正論のフォーマットだ。いかにも、感情を排してタスクを処理する冷徹な実務家が作成しそうな書類である。


「……ねえ、神崎」


 作法室の静寂を破ったのは、俺の向かい側に座る柚木だった。彼女は、俺が微動だにせずプリントの束を凝視しているのが不思議でたまらないのか、怪訝そうに首を傾げた。


「さっきから、そんなボツになったプリントじっと見てどうしたのさ。いくら神崎の鼻が利くからって、生徒会室のゴミ箱に捨てられてた紙切れから何がわかるって言うの?」


「そうですよっ。ただのゴミじゃないですか」


 柚木の隣で、星野も不思議そうに相槌を打った。二人の反応は、一般の生徒としては極めて真っ当だ。いくら生徒会の内部資料の草案とはいえ、すでに不要と判断されて捨てられた紙切れに過ぎないのだから。文字が印字されていようといまいと、情報としての価値はないと考えるのが普通だろう。


 俺は視線を紙の束からゆっくりと外し、柚木を見据えた。


「ただのゴミじゃない。これは、生徒会が俺たちの作法室を没収するために用意した、盤面そのものだ」


「盤面……?」


 柚木が目を丸くするのを横目に、俺は隣で胡座をかいている香道部の顧問へと声をかけた。


「長谷川先生」


 俺が呼ぶと、重箱の隅に残っていた藤紫色の琥珀糖に手を伸ばそうとしていた長谷川先生が、「ん?」と間の抜けた声を出した。


「このプリントの束を生徒会室のゴミ箱から拾った時、紙は丸められていましたか、それともそのままの状態で捨てられていましたか」


「んー? いや、クシャクシャに丸められたりはしてなかったぞ。そのままバサッと平積みで捨ててあったから、裏紙にちょうどいいやって思ってもらってきたんだ」


「その時、一条会長や高科副会長は何か言っていましたか」


「高科が『不要なものなので構いませんよ』って冷たい顔で言っただけだ。一条会長も隣で黙って資料見てたし」


 長谷川先生は特に気にした様子もなく、琥珀糖を口に放り込んで幸せそうに頬を緩めた。彼女の体からは、目の前の甘味に対する純粋な食欲と、職員室での激務から解放された安堵の匂いだけが漂っている。嘘や見栄の成分が一切ないため、俺の嗅覚を邪魔することはない。


「慧くん、お茶、少し温かいものに替えるね。先生も、おかわりいかがですか」


 隣に座っていた真白澄が、流れるような動作で俺の湯呑みを下げ、長谷川先生の湯呑みにも新しいお茶を注ぎ足した。彼女の顔には、この張り詰めた思考の空気の中にあっても、一切の淀みがない完璧な笑顔が浮かんでいる。俺が思考に没頭できるよう、常に俺のパーソナルスペースを不快なノイズから守り、完璧な調律を維持してくれているのだ。


「ありがとう、澄」


 新しく淹れられた完璧な温度の麦茶を一口含み、俺は再び思考のピントを合わせる。


 丸められることなく破棄された草案。つまり、感情的に破り捨てられたわけではなく、あくまで実務の中で「不要」と判断されたものだということだ。


「……柚木。お前は、この紙の束から何がわかるかと言ったな」


「う、うん」


「表面に印字されたこのデータを見ろ。部活動の価値を安っぽい数字だけで測り、切り捨てるための、いかにも生徒会らしい完璧な理論武装だ。だが、俺の鼻が捉え、解析の対象としているのは、こんな表面的な文字情報じゃない」


 俺は気怠げに頬杖をつき、畳の上の裏紙の束を指先で軽く叩いた。


「この印字された紙の繊維の奥底に、極めて複雑で、しかし雄弁な『二つの匂い』の痕跡がべったりと染み付いている。それが問題なんだ」


「二つの、匂い……?」


 柚木が戸惑ったように眉を寄せる。星野もぽかんと口を開けていた。


「そうだ。相手が言葉でどれだけ完璧な正論を並べ立てようと、物理的に漏れ出した匂いの痕跡は誤魔化せない。この紙に染み付いた匂いのレイヤーを一つずつ剥がしていけば、生徒会が掲げる『公平性』という大義名分の裏に隠された、真の動機が見えてくるはずだ」


 作法室に、しん、と重たい沈黙が落ちた。


「……ふふっ。なんだか、とても面白くなってきたわね」


 部屋の中央で、雅先輩が袖口で口元を隠しながら、上品なくすくす笑いをこぼした。


「神崎くんのその様子なら、わたくしたちの作法室を理不尽に奪おうとしている方々の裏の顔を、すっかり丸裸にしてくれそうね」


 雅先輩の余裕のある声色には、生徒会という強大な権力を恐れる気配など微塵もなかった。だが、俺は知っている。雅先輩自身もまた、ゴールデンウィーク中に俺が嗅ぎ取った実家と老舗店との間に生じているトラブルの影と見えない重圧を、たった一人で抱え込んでいることを。


 俺に静謐な作法室という究極の聖域を提供し続けてくれている恩人が、誰にも頼らずに強がっている。そして、生徒会はその足元を見て、この場所を奪おうとしている。自ら生徒会室に乗り込んで証拠を探し回るような泥臭い真似はしたくない。だが、向こうから都合よく持ち込まれたこの書類さえあれば、盤面をひっくり返すための反撃の糸口は確実につかめる。


「まずは、この書類を作成した張本人の匂いから紐解いていくとしようか」


 俺は澄が新しく淹れてくれた麦茶の香りを深く吸い込み、紙の繊維の奥に潜む『一つ目の匂い』――冷徹な実務家を思わせる無機質な匂いのレイヤーを、一枚ずつ静かに剥がしていく。

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