第5話 春の旧校舎と、和菓子目当ての客 2
旧校舎の奥にある作法室は、外界の喧騒から完全に切り離された別世界だ。雅先輩が焚いてくれた春の練香――梅花のほのかに甘い香りと、澄が淹れてくれた完璧な温度のお茶。そして、老舗の和菓子屋が作った上品な桜餅。それらが織りなす静謐な空気は、満員電車や新学期の教室で他人の「嘘の気配」に晒され、限界まで削り取られていた俺の神経を優しく修復していく。
この密室には、見栄も、嫉妬も、過剰な気遣いもない。俺の嗅覚を殴りつけるノイズは一切存在せず、ただ深く、穏やかな呼吸だけが許されていた。
――ガラッ。
不意に、作法室の古い引き戸が控えめに開く音が響いた。途端に、廊下側から新しい空気が流れ込んでくる。俺はわずかに眉をひそめた。入り込んできたのは、単なる外の空気ではない。作法室を満たしていた伝統的で落ち着いた和の香りを切り裂くような、人工的で甘ったるいミックスベリーの匂いだった。
「あの……ここ、香道部ですか?」
顔を覗かせたのは、真新しい制服を着た女子生徒だった。少し明るく染めた髪を丁寧に巻き、リップグロスで唇を艶やかに光らせている。入学したばかりの高校生活で、周囲に舐められないようにと気合いを入れた「高校デビュー」特有の、少し背伸びをした出立ちだ。彼女の全身から、あの強烈なベリー系のボディミストの匂いが放たれている。
「ええ、そうよ。見学かしら? さあ、中へ入ってちょうだい」
先輩が畳の上に正座したまま、大和撫子という言葉を体現するような優雅な微笑みを向けて手招きした。
「失礼します。私、一年生の星野くるみっていいます。その、香道っていう雅な世界にずっと興味があって……」
星野くるみと名乗ったその新入生は、猫撫で声のような甘いトーンでそう言った。一見すると、純粋な興味で文化部を見学に来た可愛らしい後輩の姿だ。だが、俺の鼻は全く別の事実を受信していた。
星野が「雅な世界に興味がある」と口にした瞬間、彼女の視線は一直線に雅先輩の横にある重箱――つまり、残りの桜餅へと向かっていた。その直後、星野の体温がわずかに、しかし急激に上昇したのだ。人が強い欲求や期待を抱いた時に生じる血流の変化。体温が上がったことで、彼女が纏っているベリー系のボディミストが揮発するスピードが不自然に早まり、甘い匂いが一気に膨張する。俺の異常な嗅覚は、その物理的な「匂いの揺らぎ」から明確な本音を弾き出した。
(……なるほど。香道じゃなくて、タダで食えるお茶菓子が目当てか)
新入生勧誘の時期になると、どこの文化部でもお茶や菓子を出して見学者を釣ろうとする。彼女はそれに目をつけただけの、純粋な食い意地の塊だった。
「一年生の星野さん、ですね。真白澄です。歓迎します。今、新しいお茶を淹れますね」
俺の隣で、澄が一切の影がない完璧な笑顔を浮かべて立ち上がり、水屋へと向かった。その動きには一切の無駄がなく、洗練されきっている。星野は、雅先輩の圧倒的なお嬢様のオーラと、澄の隙のない完璧な美しさを前にして、一瞬だけ気圧されたように肩をすくめた。彼女の首筋から、かすかな「萎縮」を示す冷や汗の匂いが漂ってくる。自分のような付け焼き刃の女子高生では、この完成された二人の先輩には太刀打ちできないと、本能で悟ったのだろう。
そして、星野はぐるりと作法室を見渡し――部屋の隅で気怠げにお茶を飲んでいる俺を見つけた。
二人の完璧な女子生徒に比べて、俺はただ無表情で座っているだけの無害な男子生徒に見えたのだろう。星野の体温が再び上昇し、「こいつなら簡単に主導権を握れる」という浅はかな打算の匂いが立ち上った。
星野はゆっくりと俺の方へ歩み寄り、意図的に俺のパーソナルスペースへと距離を詰めてきた。
「そこの先輩……なんだか、一人だけ退屈そうにしてますけど。もしかして、私とお話ししたいんじゃないですか?」
上目遣いで、首をわずかに傾げる。漫画や恋愛マニュアルで読んだ知識をそのまま実行しているような、いわゆる『小悪魔キャラ』のテンプレめいたセリフだった。
至近距離。ベリー系のボディミストが容赦なく俺の鼻腔を叩く。俺が黙って彼女を見返していると、星野は自分のアピールが効いていると勘違いしたのか、さらに一歩、俺の顔のすぐ近くまで身を乗り出してきた。
「そんな隅っこで大人しくして。先輩って、意外と奥手なんですね。それとも、私のこと気になっちゃいました? 私が色々と教えてあげましょうか?」
甘ったるい声と、挑発的な視線。一般の男子高校生であれば、この至近距離での後輩の小悪魔的な振る舞いにドギマギしてしまうのかもしれない。
だが、俺の嗅覚が捉えていたのは、そんな表面的な誘惑とは対極にある「真実」だった。至近距離だからこそ、ボディミストの強い香料の下から漏れ出している匂いが、はっきりと解析できる。
彼女の首筋や額には、極度の緊張によるわずかな発汗が滲んでいた。自分から距離を詰めて挑発的なセリフを吐いているくせに、俺の目を見つめる彼女の心拍数は異常に跳ね上がり、呼吸は浅く震えている。「小悪魔キャラ」などというのは完全な建前であり、その内側は、慣れない男への接触にパニックを起こしかけている不器用な等身大の少女そのものだった。
(……なんだ、この不器用でスカスカな嘘は)
俺は内心で呆れ果てた。教室で嗅いだクラスメイトたちの「他人を蹴落とすための見栄」や「保身のための陰湿な嘘」とは違う。星野のそれは、ただ背伸びをして自分を大人の女性に見せようとしているだけの、中身が伴っていないひどく透明な強がりだ。悪意がない分、教室の連中よりはマシだが、俺の静かなパーソナルスペースを不快な人工香料で土足で荒らしていることには変わりない。
「ねえ、先輩? どうして黙ってるんですかぁ?」
星野は俺が反論できないのだと思い込み、さらに勝ち誇ったような笑みを浮かべて覗き込んでくる。その不自然に上がった体温と、ダダ漏れになっている動揺の匂いが、俺の鼻をひたすらにくすぐり続けていた。
相手が言葉でいくら取り繕おうと、物理的に漏れ出している「感情の痕跡」を俺だけがすべて把握している。俺は小さくため息をつき、制服のズボンのポケットに手を入れた。そして、中に入っているミントタブレットの冷たいプラスチックケースに指を這わせる。
この甘ったるい嘘と、不快なボディミストのノイズを排除するために。俺はケースの蓋を弾き開け、一粒のタブレットを取り出した。




