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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
五月雨の密室と、大和撫子の本音

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第44話 GWの喧騒と、不穏な噂 8

 駅前大通りの喧騒は、初夏の強い陽射しと共に、容赦なく俺の体力と嗅覚を削り取っていた。


 和菓子屋を出て、予約していた品をすべて受け取り終えた俺たちは、再び休日の過酷な人波を掻き分けながら駅へと向かっていた。アスファルトが照り返す熱気、行き交う人々の休日の高揚感、過剰な香水や食べ歩きの油の匂いが、淀んだ空気の中でマーブル模様のように混ざり合っている。ミントタブレットの清涼感もすでに底を突きかけ、俺の呼吸は無意識のうちに浅くなっていた。


 やがて、大通りの交差点にある地下鉄の入り口が見えてきたところで、俺から半歩距離を空けて歩いていた柚木玲奈が立ち止まり、ホッとしたように息を吐いた。


「じゃあ神崎、あたしたちの乗る電車はあっちの駅だから、ここで。今日はお疲れー。……帰り、人多いから気をつけてね」


 空気を読むことに長けた柚木は、俺の顔色の悪さに気づいたのか、最後に少しだけ気遣うような言葉を付け足した。その後ろで、星野が澄の持っているトートバッグを名残惜しそうにチラチラと見つめながら頭を下げる。


「神崎先輩、澄先輩、今日はありがとうございましたっ。あの……お茶菓子、作法室で食べるの、すっごく楽しみにしてますねっ」


 自分のアイデンティティである香水やボディミストを、澄の冷感スプレーで完全に浄化されてしまった二人は、道中ずっと借りてきた猫のようにおとなしかった。澄の淀みのない完璧な笑顔と、圧倒的なまでの清潔さの要求に、彼女たちは完全に気圧されていたのだ。


「うん、お疲れ様。気をつけて帰ってね」


 澄がふんわりと花が咲くような笑顔で応じると、星野はビクッと肩を揺らし、「は、はいっ!」と裏返った声を出して柚木の後を追うように地上の大通りへと駆け出していった。彼女たちが遠ざかっていくと同時に、かすかに漂っていたシトラスフローラルとベリーの甘い匂いも、休日の人混みの中へと完全に消え去った。


 厄介な同伴者二名と別れ、俺と澄は地下への階段を降り、改札を抜けてホームへと向かった。


 すぐに滑り込んできた地下鉄の車両に乗り込むと、車内はゴールデンウィークの行楽帰りと思われる人々で溢れ返っていた。遊び疲れて眠る子供の汗の匂い、家族連れが持っている甘いお菓子の匂い、日焼け止めの香料、そして生ぬるい熱気。閉ざされた密室の中でグツグツと煮詰められた他人の生活臭と疲労のノイズが、俺の鼻腔を容赦なく塞いでくる。


 俺は運良く空いていた座席に深く身を預け、目を閉じて浅い呼吸を繰り返した。


「慧くん、お疲れ様。あと少しでお家だからね」


 澄が俺の隣にぴたりと座り、銀色のボトルをそっと差し出してくれた。口をつけると、冷えすぎていない絶妙な温度の麦茶が、乾ききった喉とすり減った神経をじんわりと潤していく。彼女から漂う朝露のような柔軟剤の穏やかな香りが、車内の淀んだ空気を薄い粘膜のように遮断し、俺のパーソナルスペースを死守してくれていた。


 俺はボトルを返し、目を閉じたまま、今日一日の出来事を頭の中で整理し始めた。


(……見えないトラブルの影、か)


 雅先輩が贔屓にしている老舗の香木店と、和菓子屋。その二つの店主が、俺が桜小路家の代理だと名乗った途端に放った、全く同じ匂い。相手に引け目を感じているような『わずかな気まずさ』と、この場をやり過ごしたいという『不自然な焦りの冷や汗』。そして、最近めっきり注文が減っているという事実。


 それに加えて、今朝の雅先輩からの『実家で急なトラブルがあり、抜けられなくなった』というキャンセルのメッセージ。


 これらの情報が偶然の一致であるはずがない。桜小路家と老舗店との間で、単なる気まぐれではない何らかの取引の滞りが生じているのは間違いない。


 俺の思考は、さらにその先の一点へと向かっていた。


 なぜ、雅先輩は今日、この過酷なゴールデンウィークの街へ俺たちにお使いを頼んだのか。本来であれば先輩自身が同行し、車での送迎や老舗での個室対応など、過酷な人混みを完全に避ける手回しをしてくれていたはずだ。先輩なら、俺が人混みの匂いで激しく疲弊することを誰よりも理解してくれている。だからこそ、常に完璧に温度と湿度が管理された作法室という聖域を提供してくれているのだ。


 それなのに、今日のような過酷な日に、わざわざ俺に買い出しを急がせた。秋の文化祭に向けた特別な調合のため、微細な匂いの違いを嗅ぎ分ける俺の鼻が必要だったとしても、時期を連休明けにずらすことはいくらでもできたはずだ。


 それができなかった理由は、一つしか思い浮かばない。先輩側に、どうしても今日買い出しを済ませておかなければならない、何らかの『タイムリミット』が迫っていたからだ。


 実家と老舗店との間に生じている、不自然な取引の滞り。先輩が普段なら絶対に俺にさせない過酷な人混みへの外出を、急がせた理由。俺に作法室という静謐な環境を提供してくれている恩人の周囲で、確実に何らかの好ましくない事態が進行している。そして先輩は、その見えないトラブルの波紋を水面下でどうにかしようと、焦りを感じているのではないか。


 頭の中で散らばっていた情報が、ひとつの不穏な輪郭を描き出そうとしていた。


 だが。


 俺はズボンのポケットに手を入れた。冷たいプラスチックのケースを指先でなぞり、親指で蓋を弾き開ける。


 ケースの中から最後の一粒のミントタブレットを取り出し、無造作に口の中へ放り込んだ。奥歯で一気に噛み砕く。


――ガリッ。


 硬い糖衣が砕けるくぐもった音とともに、強烈なペパーミントの清涼感が口内から鼻腔へと突き抜けた。氷点下の風が脳内を吹き荒れ、頭の片隅で組み上がりかけていた水面下のトラブルへの推論を、力技で強制的に遮断する。


 俺は探偵ではない。他人の家の厄介事に、自ら首を突っ込む義理はどこにもない。


 俺に静謐な作法室を与えてくれた先輩には、もちろん深い恩義を感じている。しかし、その裏にある桜小路家の問題にまで踏み込めば、確実に泥沼の人間関係とドロドロとした感情のノイズに引きずり込まれることになる。今日一日、過酷な外界のノイズに晒され続けた今の俺には、そんな重い厄介事を背負い込む余裕など微塵も残されていなかった。ここで余計な詮索を続ければ、俺自身の精神が完全にすり減ってしまう。


「慧くん、顔色悪いよ。大丈夫?」


 隣に座る澄が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。彼女の瞳には、外界のノイズで疲弊する俺をただ休ませてあげたいという、純度百パーセントの善意だけが溢れている。


「……ああ。少し、匂いに酔っただけだ。お前が隣にいてくれるおかげで、なんとかなってる」


 俺が気怠げに本音をこぼすと、澄は心底ホッとしたようにふんわりと微笑んだ。


「よかった。帰ったら、すぐにゆっくり休めるように準備するからね。お洋服も、外の匂いが残らないように、私がしっかり綺麗に洗ってあげる」


「いつも悪いな。……頼りにしてる」


 俺は目を閉じ、澄が纏う朝露のような柔軟剤の香りを深く、深く肺の奥まで吸い込んだ。


 先輩が一人で抱え込もうとしている見えない重圧も、老舗の店主たちが放っていた不自然な焦りの匂いも。限界まですり減った今の俺の精神では、これ以上深く思考を巡らせる余裕など残されていなかった。俺は自分を守ってくれる幼馴染の完璧なサポートに無防備なまでに甘えきり、重たい推論を一旦放棄して、揺れる車内のシートに深く身を委ねた。

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